その7

 竹夫は自分が結婚を焦っている感じになるのが嫌だった 。何より男として体裁が悪かった。それに光子を問いつめる形になって、二人で会っている間のくつろぎか失われるのも苦痛だった。しかし、それも竹夫には不満な事だった。愛し合っている二人なら、結婚の話がどうしてそんなに重苦しくなるのか、 と思うのだ。むしろもっとも語り合いたい主題ではないのか、と。会うと光子は職場のことをあれこれと話した。組合活動の中に新入社員や無関心派をどうひき入れていくか、活動家内部での矛盾、会社への不満。光子の勤めている信用金庫の従業員労組は共産党の指導下にあり、戦闘的だった。学生時代、共産主義にかぶれた事のある竹夫には、光子のそんな面も魅力だったのだ。光子の訴えてくる悩みに、竹夫は信頼されている喜びを感じながら、精一杯の解答を与えた。 職場のことを話す光子は生き生きとしており、竹夫は好きな女というより、そこに生きがいをしつかり握 って生きている一人の人間を見出して、光子が目映く見えることがあった。それを口にすると、光子は「あなたがいるから」と答えるのだった。竹夫は嬉しかったが、自分が光子にそのような生きがいを与えているとはとても思えなかった。光子に生きがいを与えて いるのは活動であり、一緒に活動している組合の連中だと思うのだ。光子が 語るその人々とのふれ合いは、帰郷して孤独になった竹夫には羨ま しいものだった。「い い 人ばかり いるんだな 」と皮肉でなく竹夫は何度か光子に言ったものだ。それは竹夫に連中に対するやっかみさえ抱かせるほどだった。光子が職場の出来事を語り、竹夫が聞いて、意見を述べる、こうしたバターンで二人のデートは続いた。しはらくは竹夫もこの内容に満足していた。何より光子は自分と会って生き生きとしており、また自分を信頼してくれているという充足があったからだ。だが半年ほどが過ぎると、竹夫は虚ろさを感じるようになった。光子の話を聞きながら、自分を前にしてほかに話すことはないのか、したいことはないのか、と思うのだ。光子は一緒に歩いていても寄り添ってくることがなかった。竹夫が腕を組もうか、と言えば、おかしそうに笑った。いいじゃないか、 と少しむきになって腕を組んだ途端、屈辱のまじった空虚感が竹夫の胸に広がってきた。竹夫は光子の口から、「好き」「愛してる」と言うような言葉を聞きたいと思うようになっていた。子供らしいと思い、言葉ではない光子の気持を受けとめなければと思ってみるのだが、時おり見えなくなる光子の心を自分のそばに摑んでおくためにそんな言葉が欲しかった。「空気のような存在であってほしい」とある時光子は言った。「どういう意味」と竹夫が尋ねると、光子は言葉を探しながら、意識にならないくらい、いつも自分を包んでいてくれるもの、と答えた。竹夫は光子の言葉を自分への愛情を表したものとは感じたが、気持にはすっきり納まらなかった。むしろ、自分はそんな希薄な存在でいいのか、という反問が胸中に蠢いた。半年が過ぎたが光子は結婚の話を口にしなかった。「そろそろ僕らも結婚のことを考えなければいけないな」と竹夫が話を向けると、「そうね」とは言うのだが、そこから先に話を進める気配はない。まだ早いかなと思いつつも竹夫は落胆した。結婚を前提にした つき合いをし てい るのにと光子の不実を責める気にもなった。とにかく自分の行動が先だと考えて、竹夫は光子をフ ィアンセとして母親に紹介し、妹を交えた家族の食事に も同席させ、組合活動を理由に難色を示す俊子を説得してきた。その間光子の側の伏況の進展は、つきあい始めた頃に家を訪ねて一度母親に会ったきりで、何もなかった。具体的な話になると「待って」「もう少し待って」と光子は言った。竹夫はそんな光子を見ていると、結婚だけを近視眼的に追っているのでは、と自分の姿勢を省りみる気持になる時もあった。自分の生活の空虚を埋めるため結婚を急いでいるのだという声が聞こえた。そして光子の生活の充実が、冷たく自分を見下ろしてきた。竹夫は落ちてきた網をけり上げるようにその想念を振り払った。自分の行動はちゃんと手順を踏んできており、いいかげんなものではない、一年以上つきあってきて、このあたりで結婚の問題を持ち出すのは、結婚を前提にしたつき合いをしてきている以上当然の事だと自分に言い聞かせた。


 結婚に消極的な光子を竹夫は信じることができなかった。竹夫にとっては結婚こそ愛の集約でわり、試金石だった。この三月ほど、デートは重苦しい雰囲気になりがちだった。竹夫は決着をつけようと思っていた。結婚問題を真正面に出して光子の明確な対応を迫っていた。

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