バトンタッチ

執行 太樹

 

 強く地面を蹴り出す。走る。どんどん速くなる。前の人を次々と追い抜く。声援は遠くなり、やがて静寂になる。そして、ついには風になる。ただただトラックを翔ける風になる。

 しかし、ゴールが見当たらない。いつまでたっても、ゴールできない。風は、トラックをさまよう。とうとう、風は迷子になってしまった。いつしか、空が暗くなっている。遠くから雨の音が聞こえてくる。風は・・・・・・。


 目を覚ましたとき、部屋の窓から雨の音が聞こえてきた。おそらく昨日の夜遅くに降り始めたのだろう。枕元の時計を見ると、午前9時過ぎだった。こんなに早く起きたのは、いつ振りだろう。

 1階から、母が僕の名前を呼ぶ声が聞こえた。僕は布団の中で仰向けに寝転んだまま、壁に掛けてあるカレンダーを見た。今日7月15日に、丸が付けられていた。今日は、おばあちゃんの四十九日の法事なのだ。確か、10時にお坊さんが来るはずだ。


 僕は、おばあちゃんが好きだった。僕の家は、父と母と2つ下の妹、そしておばあちゃんの5人家族だった。父も母も働いていたため、僕と妹が学校から帰ってきたときは、よくおばあちゃんと過ごした。おばあちゃんは、いつも僕と妹に優しくしてくれた。そんなおばあちゃんが亡くなった。そうか。あの日から、もう四十九日も経つのか。

 僕は布団の中で体を回転させて、自分の机のある方を向いた。机の上には、色々なものが置かれていた。高校の教科書、リュック、上履き袋。その中に、青色のリレーのバトンが、机の端のほうに立てて飾られてあった。


 僕は小さい頃から足が速かった。中学生になると陸上部に入った。種目は4✕100メートルリレーだった。アンカーだった。県大会では、8位入賞まで行った。机の上のバトンは、その大会の時に、リレーのメンバーが僕にくれたものだった。あの時、僕は人生で1番輝いていた。

 今年の4月に、僕は高校生になった。家から電車で30分ほどかけて、学校に通った。高校でも、僕は陸上部に入部した。種目もリレーを選んだ。しかし、入部して2日目の部活動で、リレーのメンバーとけんかになった。僕が大人しくて、ノリが悪いという理由からだった。僕は謝らなかった。けんかになった次の日、そのリレーのメンバーと友達だという、違う陸上部のメンバーに言い寄られた。それでも謝らなかった。その次の日から、陸上部とは関係のない、クラスの友達から無視された。これはつらかった。無視は、何日も続いた。初めは我慢していた。しかし、とうとうつらさに耐えられなくなった。僕は学校に行かず、自分の家に引きこもった。ちょうどゴールデンウィークが明けた頃だった。


 ゴールデンウィークが明けてから、僕はほとんどの時間を自分の部屋で過ごした。僕の生きる世界は、部屋の中だけになった。親は心配した。それは僕にも伝わっていた。わかっていたが、親のために前向きな行動を起こす余裕がなかった。そんな自分が不甲斐なかった。

 父も母も、必要以上に僕に話しかけてこなかった。母が唯一僕に話しかけてくるのは、1日で3回だけだった。ごはんができた時だ。よく僕の好きなハムエッグを作ってくれた。そしてごはんの時以外は、僕に話しかけるようなことはしなかった。僕は毎日、自分の部屋でごはんを食べた。

 僕が夕方まで寝ているとき、その時も母はそっと僕の部屋の掃除をしてくれた。リレーのバトンも、毎日必ずきれいに拭いてくれていた。それ以外は、僕をそっとしておいてくれた。それが僕には、嬉しかった。


 とある朝、僕が自分の部屋のベッドで寝転んでいると、家の玄関先から会話が聞こえてきた。母とお向かいさんの声だった。僕は自分の部屋の窓のカーテンを少し開けて、2人の様子を覗いた。

「そうなんですよ。志望校がなかなか見つからなくてねぇ。」

 お向かいさんの家には、たしか中学3年生の女の子がいた。今年、受験生だ。

「受験、親としては心配なんですよね。でも、こればっかりは本人がどうにかしないとね……。」

 お向かいさんの女の子は、街ですれ違う度に、いつも挨拶をしてくれる真面目な子だった。学校の成績も良いと母から聞いていた。受験で悩んでいるとは知らなかった。みんなそれぞれ悩みがあるのだ。そして、周りの人も、共に悩んでいるのだ。僕はカーテンを閉めて、またベッドの布団に潜り込んだ。まぁ気長にいきましょう、と母が言っていた。


 僕が学校に行かなくなって、2週間ぐらいがたった。季節が梅雨に入った頃、おばあちゃんが倒れた。体が弱っていたのだ。90を迎える年だった。無理もなかった。おばあちゃんは入院しなかった。おばあちゃんが選んだことだった。おばあちゃんが倒れた日の夜、僕が1階のリビングの前を通ると、父と母の声が聞こえてきた。俺が頑張って働くから、お前は無理するなよ、と父が言っていた。母のすすり泣く声が聞こえた。

 その日から母は仕事を休んだ。そして毎日おばあちゃんの看病をした。母は、今まで通り僕にも毎日3回話しかけてきてくれた。それ以上は話しかけることはなかった。


 おばあちゃんが倒れてから、僕は、妹と毎日おばあちゃんの寝ている部屋に行った。そして、おばあちゃんに話しかけた。話しかける度に、妹は涙ぐんでいた。僕も妹も、おばあちゃんっ子だった。早く元気になってね、と妹はいつもおばあちゃんに言っていた。僕も、心の中でそう願っていた。おばあちゃんは、そうだねと応えていた。

 しかし、おばあちゃんは日に日に弱っていった。仕方のないことだった。どうすることもできなかった。僕は、部屋にこもった。机に置かれたバトンには、ほこりが被っていた。僕は、何もできない自分が悔しかった。あの頃、1番つらい時期だった。


 ある雨の日、父は仕事、妹は学校、母は買い物で、家では僕とおばあちゃんだけになった。僕がおばあちゃんの部屋の前を通ったとき、部屋の中から僕の名前を呼ぶ声がした。部屋に入ると、おばあちゃんが寝転んだまま、こちらを見ていた。おばあちゃんは手をまねいて、僕に近くに座るように言った。僕は部屋に入り、おばあちゃんのすぐ横に座った。

 おばあちゃんは、何も話さなかった。僕も何も話さなかった。少しの間、無言の時間が流れた。僕はその間、ただ床を眺めていた。ぼんやりと学校のことを考えていた。静寂な部屋に、かすかに雨の降る音だけが聞こえていた。

「優ちゃんはねぇ……」

 ふと、おばあちゃんが言った。僕は、おばあちゃんの顔を見た。おばあちゃんは、天井をまっすぐ見ていた。やつれた、でもとても優しい顔だった。

「優ちゃんはねぇ、そのままで良いんだよ」

 そう言うと、おばあちゃんはゆっくり僕の方を向いた。僕は、おばあちゃんの目を見た。薄く開いた目は、まっすぐ僕の方を見つめていた。まるで、僕のこと全てを分かってくれているような、そしてその全てを包み込んでくれそうな……。

 おばあちゃんは続けた。

「人間はね、生きてるだけで良いんだよ。生きてるだけで。」

 おばあちゃんの言葉は、僕の心にすっと入ってきた。僕は、今度は心の中で、うんと応えた。

 そう言ったあと、おばあちゃんは僕の方に手を出した。僕は、おばあちゃんの掌に、自分の掌を合わせた。

「ほら、バトンタッチ」

 おばあちゃんの手は、小さくて、すこし温かかった。

 そのあとしばらくおばあちゃんの隣にいた。何か話すわけでもなく、ただ隣にいた。おばあちゃんの匂いがする、温かい時間だった。

 その3日後の朝、おばあちゃんは亡くなった。家族に見守られながら、おばあちゃんは天国に行った。母と妹は泣いていた。父は黙っていた。母はおばあちゃんに、お疲れさまと言っていた。

 僕は泣かなかった。僕は、泣くのを我慢した。この日も、雨が降っていた。


 1階の玄関からこんにちはという声が聞こえてきた。お坊さんが来たのだ。時計を見ると、ちょうど十時だった。玄関でお父さんとお母さんが、お坊さんを出迎えていた。皆、おばあちゃんの部屋にある仏壇の前に集まった。お坊さんがおばあちゃんにお経を唱えてくれた。父と母は、一緒にお経を唱えていた。妹は、ずっと手を合わせていた。僕は、仏壇の方を眺めていた。おじいちゃんの写真の隣に、おばあちゃんの写真が飾られていた。おばあちゃんは笑っていた。おばあちゃんと二人で話したときと同じ、優しい笑顔だった。おばあちゃんの部屋には、お線香の煙が漂っていた。

 法事が終わり、家族みんなでお坊さんを玄関まで送った。

「おや、雨が上がりましたね」

 お坊さんはそう言うと、それではと帰っていった。外は、雲1つない青空だった。もうすぐ、梅雨が明けるだろう。

 僕は、空を見上げた。朝の雨が嘘のように、澄み渡るような青空だった。僕は、自分を大切にしようと思った。そして、今を大切にしようと思った。

 

 僕は、おばあちゃんの部屋に戻った。1人仏壇の前に座り、おばあちゃんの写真を眺めた。おばあちゃん、ありがとう。そう言って、手を合わせた。

 僕は自分の部屋に戻った。窓から差し込む陽の光が、机の上のバトンを照らしていた。

 そのままで良いんだよ。おばあちゃんの声がした気がした。1階から、ハムエッグの香りがした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

バトンタッチ 執行 太樹 @shigyo-taiki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ