第3話
きりぃつ。れい。さようなら。
学級委員の合図で、ばらばらとさようならぁ~という言葉が広がり、ホームルームが終わった。とたんに緊張が解け、教室はたくさんの話す声や、リュックのファスナーが閉まる音で充満していく。一つ一つの音は小さいのに、集まると大きな音になる。
わたしは誰とも話さず、荷物をさっとまとめて教室から逃げるように出た。
今日も放課後に「例のこと」について報告しあうことになっている。教室のある新校舎から部室のある旧校舎へとまっすぐ向かう。
部室に行くためにはどうしても新校舎から旧校舎へつながる廊下を通らないといけないのだけど、正直この廊下が好きじゃない。通らなくて済むのなら、通りたくない。木材のあたたかみがある床の新校舎とは違う。旧校舎と新校舎をつなぐ廊下と旧校舎の廊下は、つるりとしてひんやりとした—―とにかく木ではない床なのだ。
歩くたびに体温を奪われる。だんだんと教室で騒ぐ声が小さくなっていく。放課後の旧校舎はほとんど使われていないために、建物全体が薄暗く、しんとしているのだ。
今日は先輩より先に来たのか。部室に電気がついていないのが遠くから分かったからだ。部室までのしずまりかえった道。みどりいろの床。窓の先の中庭、反対側の窓から見えるグラウンド。わたしの学校指定のぞうりの足音がぱたっぱたっと響く。わたしの足はぞうりのサイズとあっていなくて、すぐに脱げそうになる。足が大きすぎるのだ。かかとがいくらかはみ出している。
ヴァー、プワアア。
吹奏楽部が練習を始めたのか、聞きなれたメロディーが遠くで聞こえてきた。金管楽器だろうか。音が汚くならないように、楽器を壊さないように、丁寧な息遣いをしている様子を思い浮かべる。低いとも高いとも言えない高さで奏でられる、はっきりと聞こえる音。それは空気をつたって、どこまでも広がっていく。
基礎練習の音は暮れなずむ空によく似合っている。練習されている曲が何なのか分からないまま、思わずハミングをしていると、いつの間にか部室の前に着いていた。わたしは左手側に体を回転させ、ドアのくぼみに指をかける。部室のドアは閉じているが、鍵はかかっていなかったみたいだ。所々で引っかかる感触があって、がらがらっと開いた。
開けていく隙間から視界いっぱいにまぶしさが飛び込む。わたしは思わず眉間に力が入りながら目をつぶった。目を閉じていてもなお、まぶたのカーテンの裏にまで光は浸透してくる。まぶた裏の視界が赤い。
まばゆい光の強さに観念して目を開けると、同時にふわりと舞い上がった細かな埃がかすかに見えた。
あの時と似ている。夕陽を見て一年前の記憶が映像のようによみがえってきた。
入部したての時に先輩から聞いた話を急に思い出したのだ。それは、大体こういう話だった、と思う。
オカルト研究会というのは、約一年前に先輩が立ち上げたものだった。この学校では三人以上いれば同好会のようなものが作れるのである。先輩は体育系のノリにはついていけず、かといって美術部や吹奏楽部といった文化部に入るほどの技術も勇気もない。帰宅部のように何も活動せず、放課後独りで帰るのも「なんだかなあ…」と思って、自分で部活を作ることにしたのだという。あと、オカルト同好会にしたのは、オカルトが好きなのと、「何の活動をしていても許されそう」と思ったから、らしい。
さっき、三人以上で同好会のようなものが作れるとは言ったが、作った当初から後の二人は先輩の同級生に名前を貸してもらっているだけだ。聞いた話では二人は体育系の部活で、毎日練習ばかり。三人で活動したことがないどころか、予定が合わず一回も部室に顔を出したこともないという。
まあ、はやく言えば「幽霊部員」というやつだ。つまり、四人目、―一年後輩のわたしが入るまで、オカルト研究会―オカ研の部員は実質先輩一人だったのだ。
今考えれば先輩は、部活という理由をつけ、放課後の時間つぶしをしていたんじゃないかと思う。
この話を聞いたわたしは思わず、
「え? じゃあ、研究会作る意味あったんですか? 」と言った。言ってしまったあとで、しまった、きつい言い方だったかも、と申し訳ない気持ちになる。もしかしたらこの言い方は傷つけてしまったかもしれない。
わたしはそうやって、なんの悪意もなく言った言葉で、人を傷つけてしまうことがよくある。そして傷つけた後に、後悔するのだ。いつもどんよりとして、いつまでも青空を拝むことができない梅雨時の空模様のように。
しかも、そうなってしまうと、相手とのわだかまりを解消できないのだ。だから極力、人とは一旦、頭の中でシミュレーションしてから話すようにしている。ぼろが出ないように多くをしゃべらないようにしている。
「自分の好きなオカルトのことを、ちゃんと学校の組織の中で自信もって調べられる、時間をとれる、それって貴重だからさ」と先輩はただ淡々と、ほんとうに淡々と答えた。怒りも、悲しみもなく。予想にないほどあっさりとした態度でふわり、一瞬だけ身体が宙に浮いた。
あと、幽霊部員っていかにもオカルト感あってそれはそれでいいよね、と先輩は付け加える。……なんだ、それ。
「折角いい感じのことを言っていると思ったのに、その最後のひとことで台無しですね」
まじか、という反応に、まじです、とすかさず返す。そのやりとりが何だかくすぐったくて、ふたりで笑った。
笑いながら、心の中では先輩が何にも気にしていなかったことに安堵している自分がいた。
自己紹介を除いたら、はじめてちゃんと先輩と話したのがこの会話だった。思い返すと不思議だ。こんなにも緊張も、遠慮もせずに自然に話せていたのだから。
ちょっと前のことのはずなのに、すでに大昔のような気がする。毎日がだんだん加速して過ぎ去っていくからなのかもしれない。
わたしが部室に入って五分も経たずに硬い床をタッ、タッ、と叩く音が聞こえてきた。
ひとりで教室にいると、なんだかいけないことをしているような気持ちになった。急にそわそわして、思わず教卓の下に隠れる。隠れようとバタバタした時、教卓の側面の金属部分に足をぶつけてバンと音をたてた。
現在、わたしは、教卓の下の陰、そこでぶつけた足をさすりながら、膝を抱えて丸まっている。
ああー、なんでこんなに宿題が多いのかねえー、と間違いなく先輩の独り言がだんだん近くなってくる。教室に入ってくるのとほぼ同時に、その声が空間に広がった。わたしがいることに気づいていないようだ。
でも、どうしようか、この状況。なんだかすごく出にくい。脳内で作戦会議が高速で開かれている。驚かせようとした感じで出る?それともなんか落としたことにして出る?いや、どっちも怪しまれる、タイミングも悪いし。どうして隠れてしまったんだろう、わたし。こんなことなら最初から隠れなければ、先に来なければよかった。
そうだ!わたしの中の小さな子供が、「いいこと」をひらめいた。そのひらめきに縋るように後先考えないまま、その行動を実行に移すことにした。
亡くなった人と話すってこんな感じなんですかね。
意を決し、そんな風に話しかけたのだ。教卓の下から。いや、話しかけているのか独り言なのかわからない感じで声を出した、と言うほうが正確かもしれない。
先輩は、わたしがいたことに気づいて、っひ、とかすかな、声にならないような悲鳴を上げた。様子が見えないのに、ぎょっとしているのがよく分かった。
そしてわたしがどこにいるのか探しもせずに、教室にある古びた椅子に座った。椅子がキシッと鳴いた。
「どうなんだろうな。死んだ後も、生きていた時とおんなじ声で話すのかな。女性だったら、うちの母さんみたいに一トーン高い声で話したりするんかなぁ。あと、生きていた時の記憶とかってちゃんとあるんかな。そもそもの話、何話せばいいんだろうね」
「うーん…、得意のオカルトの話でもすればいいんじゃないですか。幽霊とかポルターガイストとかいろいろ確認するチャンスだし」
「あー、なるほどな」
からかったつまりだったから、なんだか調子が狂う。ふたりとも何も言わなくなって、少しの静寂が訪れた。その静寂が居心地わるくて、
「電話みたいな、顔が見えない会話ってなんか怖くないですか。確かに電話の向うに人の存在があると分かっているけれど、ぱっと自分の置かれた場所にピントを合わせたら、自分が一人だったんだな、と気づかされるというか」
「まあ、俺も電話、あんまり好きではないけども」
「電話がかかってくると、指先まで全身が緊張して嫌な気持ちになるんですよね。今からかけますよー、って前振りがないじゃないですか、当たり前ですけど」
「そりゃ、な」
「そう考えると、今どこにいるかわからないわたしと話しているこの状況って、なんだか電話している時に似ているかも」
「確かに結構似ているな」
そう言った後、先輩は思い出したように、そういえば電話についての情報を知り合いに聞いているが誰も知らないみたいだ、と報告をした。
「ザッキーは何かわかったか? というか、ザッキーだよな? 」
「逆に誰と話してると思ってたんですか。とりあえず、親に聞いてみたんですけどなにも」
そっか。残念そうにしていることが、声色で分かる。
嘘だった。わたしは親とうまくいっていないのだから。
「あのさ、この辺で不思議な電話があるみたいな話知らない? 」
「でんわ?そんな変な話してないで宿題しなさい。あっ、そういえば、タカタさん、あんたの中学の時、同級生だった、あの子ね……」
「っ、お母さん、変なこと言ってごめん。わたし宿題しなきゃだから」と思わず母の話をさえぎった。……お母さん、中学の時の話はしないでほしいよ。ムカムカした心と、苦しみが大波のように押し寄せるから。心の中でそう言った。母に直接言うことはしなかった、というよりも、できなかった。
ピーピー。音が廊下の奥から聞こえてきた。ほら、お風呂沸いたから早く入って、と促される。厄介払いをするみたいだ。いつもと同じように、…うん、わかってるから、と生返事をする。
「いつもそうやってなかなか入らないから言ってるんでしょ、もう。わたしやらないといけないことたくさんあるから早く入りなさい」
母がイラついているのは仕草で分かった。この人は、イライラすると耳の裏をシャリシャリ掻く。
シャリシャリと聞こえると、わたしは反射的に恐怖を感じる時のように、つめたく心がこわばっていった。これ以上何も言っちゃだめだ。
……確かに風呂に入るのが遅いのは本当のことだし、悪いと思っている。でも、夕ご飯を食べた後から風呂に入るまでの時間しか、ちゃんとお母さんと話せない気がして、いつもずるずると延長戦を繰り広げようとするのだ。
結局、わたしの話に答えてくれなかったから、知っているかどうか訊けたわけではないのだ。しかも気を許せるような友達のいないわたしには、家族以外の人に話す、という選択肢はなかった。もし、下手に聞いたら、おかしな話をしている人だ、と思われかねないから。もうすでに、おかしな奴だと思われているだろうけど。
きっと、わたしと母は、会話しているんじゃなくて、ずっと一方通行の言葉が飛び交っているんだと思う。両者が、言葉を投げるだけ投げて、その言葉というボールをキャッチも拾いもしない。わたしは広くて芝生の生えた原っぱにぽつんと一人立ち尽くしている。一緒にいたはずの母はいつのまにかいなくなっている。たくさんのボールは石に変わり、ごろりと足元に転がっている。母と会話をするたびに、そんな情景を思い浮かべてしまうのだ。
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