蟷螂女の食あたり

波打ソニア

蟷螂女の食あたり

 食事の誘いを、彼女が投げかけてくれた。カップのコーヒーが半分より下がり、今日こそはと用意したプランで鉄壁のガードを抜けようと切り出し方を考えていたところだった。

 不意に投げられたプレゼントに、時間が止まってしまう。切れ長の目に哀れみと蔑みをたたえた彼女が、軽くため息をついて紅茶を飲み干す。ティータイムの終わりの合図にはっと意識が戻る。途端に、世界にきらめきのフィルターがかかる。もともと世界一綺麗な目の前の女性がまるで女神のような輝きを帯びた。いや、彼女はもともと輝いている。

 尻尾が千切れんばかりに追いかける存在が、突然振り向いてボールを投げてくれた急展開だ。ボールことデートのお誘いを慌てて受け止めるためにぶんぶんと頷く。彼女は取ってこいを完遂した犬を見ながら、音もなくカップとソーサーをテーブルに戻すと、なんてこった。鋭い黒曜石の瞳の中から柔らかい光が差した。上品な桜色の唇が緩い弧を描いた直後、そこから大好きなアルトが一言。

 楽しみだね。


 彼女が尊大なのは女神だから当然だと思う。女神みたいに広い心で僕みたいなのに時間を割いてくれる。

 軽蔑した目で見るのは、彼女だって人間なんだから当然だと思う。好きでもない男に言い寄られて当然の反応をしている。

 卑屈になっているのではなく、僕がそういう彼女を好きなだけだ。ただただ事実として彼女が僕にとっての魅力を備えすぎてて尊いってだけで、ああ、客観的な解説なんて不可能だ。

 僕の女神さまは初めての食事デートでも神々しい。艶のある髪をそっと揺らして笑う。いつもなら物理的にも蹴り飛ばすような僕のジョークを優しく軽い言葉で包んで返してくれる。

 流石女神のセレクトのお店は気軽な空気なのに騒がしくなく、楽しい会話を障りなく楽しめる。ここで今までにほかの男とも、という思考が鎌首をもたげても、さくりとナイフが繊細な音を立てれば嫌な気分も切り離される。考えてみれば、彼女の歴代彼氏の末席に加われたならそれは光栄なスタートラインだ。

 スタートに立ったなら、もう走りきるのが男ってもんだろう。

 今日はどうして誘ってくれたの、なんて気弱な言葉はビールで流し込む。とうとうこっちに目を向けてくれたことが事実で真実だ。


 そう腹を括ったものの。

 細い腕に抱かれて頭が真っ白になってしまう。とろけるように細められた目の奥、見慣れた眼光がそのままなのに、絡みつくような柔らかさを発揮する彼女にまともな考えも絡めとられて息まで奪われる。

 今日はすべて彼女がリードしてくれる。これまでの無様な求愛が報われるどころじゃない。ボールを取ってくるまでがボール遊びじゃなかった。その胸にやさしく抱いてもらうご褒美が待っていた。

 でも、と試すようにうなじに口づける。しっとりと湿る背中を抱きしめてねだると、首をひねって笑みを含んだお返しのキスをもらえた。

 溢れるほどに返ってくる愛情表現が、物足りない。優しさがもどかしい。どんなに柔らかさを堪能しても、いつものぶった斬る言葉も蹴りもつねりもない。女神が女神らしく優しさをふるまう。リードはしても軽蔑はしない。優位に立っても僕を立てるように導いてくれる。

 キスなんてしながらこんなこと考えていたら伝わってしまうかも、という考えが及んだのと、がっと固い感触が首に触れたのは同時だった。

 無粋な思考にお仕置きが来る。身構えたとき、頬にぼすんとシーツの感触があった。ごろりと天井を向いた拍子に目を開けてしまい、大きく目と口を開いた奇妙な表情の彼女と対面する。とろけた表情でも、機嫌を損ねた時の焼くような目つきでもない。気持ちとか駆け引きとか、そういうものは一切なしの、うつろなのにまっすぐな、ただの生き物の眼球だった。

 開かれた口が降りてきて頬を包む。やたら濡れた手が鼻と耳をとっかかりにして顔を押さえて、そのまま頬肉をかじり取った。

 抵抗とか痛みで暴れるとか生き物としての反応を削り取られてしまっていた。首に触れたあの固い感触は、今顔を押さえつけている手とは違う。

 顔の横でぐちゃぐちゃと咀嚼音を立てる彼女の首。その向こうに、赤い切り株のようなものをのせた男の体がある。僕の顔に食らいつく彼女の背中で、だらりとすべてを預け切った腑抜けた体。

 呆気にとられて目の前を見つめるしかない僕の首を、顔を上げた彼女が抱えなおした。真っ赤に汚れて、口元の血を舐めとりながらもう片方の頬に目を向ける。

 軽蔑も哀れみも何もない。ただ見たままに引き寄せられて、残った頬肉にかぶりつく。デザートのティラミスよりたやすく、舐めとるかのようにあっさりと顔を剥ぎ取られる。

 僕が動かせるのはもう脳みそだけだとようやくわかったとき、不意に腹落ちするものがあった。もう腹はつながってないんだけど。

 つまり、このために誘ってくれたのか。ご飯に行こうって、そういうこと。僕が舞い上がっていたのは、君のご飯に付き合う前のつなぎの時間だったのか。

 敵わないな、本当に。

 思わず笑ってしまったつもりが、頬が削れてて唇がついてこない。目元が細められて、息が漏れただけだった。でもそれを聞きつけた彼女がゆっくりを身を起こした。

 ごくり、と肉を呑む音がする。ぷは、と開いた唇の端がゆがんで、いつものように目が細められる。

 気でも狂ったわけ。

 笑ったと伝わったのだろう、彼女はそう言って、目を細めた。

 どこまでもお気楽だね。

 低い声ですっぱりと言い捨てて、哀れみと、軽蔑の目で見下ろす。でもその目が、次に食らいつく場所を探している。飲み下した味を恋しがるように唇を舐める。もうつながってないのに、背筋にぞくりと電気が入った気がした。

 その瞬間僕の体が動いた。垂らしていた腕が白い胸を掬い、細い腰に巻き付く。 驚愕して目元を険しくする彼女の虚を突いて、つながったままの腰を跳ねさせ叩きつけ始める。顔をつかむ手がぐっと力んで、ばたつかせようとした足がシーツを滑る。がっちり抱きしめられているせいで重心を僕に預けることになった彼女が、目を泳がせてもがき始める。なのに、僕の首はしっかり持ったままだ。

 しゅ、と髪が一束動いて、胸をつかんだ手首に巻き付き、そのまま切り落とす。 ああ、首に巻き付いたのはあれだったのか。

 納得するしかない僕に比べて、彼女の仕事は減らない。腕は巻き付いたまま、僕の体は動きを止めない。髪は何束も鎌首をもたげ、体じゅうを切りつけ始める。足も暴れさせて何とか抜け出そうとする。それでも僕は彼女を離さない。彼女も僕の首を離さない。

 手を使って抵抗はしないのかな、それともよっぽど僕の肉がおいしかったのかな。のんきのそんなことを考えていると、彼女の力みすぎた指が右目に刺さった。 ああ、それはもったいない。

「食べて、全部食べて」

 声にはならないし、口もまともに動かせないけど必死に告げる。せっかくなら、君の中に入りたい。

 ぎっと黒い目で睨みつけられ、ばきんと顎が外された。間抜けなくらい開いた口から舌に噛みつかれて引きずり出された。なんて的確にしゃべる手段をつぶしてくれるんだ。容赦のないやり口が彼女らしい。

「そのまま食べて、全部食べて」

 と言うつもりで吐き出す。僕ごときが言うことなんて、全部彼女はわかっててくれる。黙らない僕の頭をとうとう彼女が叩く。そのまま髪の毛をつかんで、ぼろぼろの顔の皮を引っぺがしてしまう。残った片目を潰さないでくれたのは感謝しないと。

 真っ赤に汚れて、揺さぶられながら、僕を壊して食べようとする彼女。女神のように甘い夢を見せて、荒々しいしつけで手懐けて、心底惚れさせてから食い尽くす。見下して絶望させながら、僕の肉の味に夢中で気もそぞろな彼女。

「かわいい」

 まだ息を漏らす僕に怒りと呆れ、わずかに揺さぶられる声を上げて、とうとう片手が拳を作った。力を入れるために握りしめた手を振り、肘で思いっきり僕の体を押しのける。体のほうは、少し前から動きを止めていて、抵抗もなくずるりとベッドに倒れる。やっと解放された彼女。うなりには殺意と空腹がないまぜになっている。

「愛してる」

 そう言い終わらないうちに残った片目ごと髪束が脳天を貫いた。たわごとなんてぶった斬る、いつも通りの彼女の一撃だった。


 うるさくなくなってずいぶん時間がたった。部屋には何の音もしない。声もない。気配だってない。この時間は満腹感を堪能してベッドに脱力する至福のひとときだ。なのに目の前の肉の残骸は、吐いたものと混ざり合って居座って、ベッドを占領している。舌打ちしたとき、生温いものが股を伝った。

 拳を叩きつけた肉塊が冷たい。腹が立って何度もそれを叩くけど、それはもう黙らない。二度としゃべらないから、黙らない。それなのに、うるさい。


 こんなことなら、と考えかけて、掻き消すように喉を振り絞った。黙らせられず、二度と話せない。こんな間抜けと知っていたなら選ばなかった。

 ここまでの馬鹿だと知っていたなら。

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