腹痛のスパイ
蘭桐生
スパイの矜持に懸けて
コードネーム
機密文書の奪取、大統領を陰ながら護衛、独裁国家の中枢への潜入、裏組織のボスの暗殺etcetc......。
名が知れ渡るほど危険度が増す世界だが、俺は今まで任務を失敗したことはない。
そんな俺が今スパイ人生で一番と言っても過言ではない危機に直面している。
腹が、腹が痛い。トイレ行きたい......。
任務続きで中々自宅に帰れず、久々に帰宅した際に飲んだ牛乳が原因だろう。
賞味期限を確認しなかった俺の落ち度だ。
だが今は任務中だ。勝手な行動は許されない。
今回の任務はとある資産家の屋敷へ潜入し、そこから裏帳簿を盗み出すことだ。
でも腹は痛い。今もギュルルルルと危険な音で腹痛を主張している。
しかし行動は秒単位で突き詰められているため、自宅のトイレに向かうまで我慢する外ない。
この任務きっと完遂してみせる。スパイの矜持に懸けて!
まずは庭からだ。
防犯カメラの死角から有刺鉄線のある塀を乗り越えて敷地に入る。
広大な庭園はバラが咲き乱れ、大きな池や噴水まであった。
そして番犬としてそこかしこにドーベルマンが放し飼いされている。
建物の配置は情報通りだ。
俺は犬耳のついたボディスーツのポケットからスプレーを取り出し、自分に振りかける。
これはここで飼われているドーベルマンの一頭から抽出した体臭の香水だ。
動物病院の定期健診に紛れてサンプルを採取して作った。
真夜中ということもありこれであの犬たちは俺のことを仲間の一頭だと思い込むだろう。
身を屈めながら屋敷を目指して進んで行く。
夜風の寒さとこの体勢がさっきから腹にクルのでさっさと屋敷に入ってしまいたい。
そんな俺の焦りが行動に出てしまったのか、巡回を躾けられた番犬の一頭とかち合ってしまった。
本来の速度であればコイツが通り過ぎた後に俺がここを通るはずだったのだ。
僅か数秒の誤差による致命的なミス。
しかしまだ慌てるようなことじゃない。この程度のピンチはいくらでも乗り越えてきた。
俺はその場に蹲りきまぐれでここに来た犬のフリをする。
すると巡回中の犬は興味を失ったように再び前を見て進み始めた。
やはり体臭香水のおかげで仲間だと判断したのだろう。
特注したボディスーツの耳と尻尾も役に立ったのかもしれない。
犬が通り過ぎる直前で、乗り切ったことに安堵したせいか俺の尻からプスゥーと自然由来のガスが漏れた。
「! グルルルル!!」
屁の臭いで侵入者だと気づき、牙を剥いて威嚇する番犬。
ヤバイ! バレた! こうなればルートBに変更だ!
ボディスーツのポケットから犬用の特製オヤツを取り出すと、犬の鼻先に放り投げ、その隙に脱兎の如く走り去る。スーツのモチーフは犬だが。
そして目の前にあった池に静かに飛び込んだ。
冷たい!
保温性のあるボディスーツのおかげで行動に支障はないが、それでも夜中の水中は冷える。腹にクル。
池を縦断して泳ぎ切り、建物の影に隠れてボディスーツが乾くのを待つ。
速乾性もあるとはいえ、濡れた身体に夜風は冷える。腹にクル。
風除けにダンボールでも被りたい気分だ。
だがそのおかげで番犬は撒けたようだ。
次に同じことがあってはならないと、ヨガのガス抜きのポーズで今のうちに腹に溜まったガスを少しずつ抜いていく。
あまり強くするとガスだけでなく別のモノまで抜けると困るので程々で中断。
メイドとして屋敷の中に潜入している別の味方により、事前に解錠済みの窓から内部へと侵入した。
さて、後は屋敷の主である資産家の書斎へ向かうだけだ。
時計を確認するとルートBに変更したことで予定よりも早く着いてしまっている。
目の前にトイレがあるのが憎い。
小を済ませるくらいなら問題ないが、大きい方は無理だな。
いや、そもそも侵入した敵地で用便を行うなど論外だ。
腹痛から冷静な判断が出来なくなっている。
見回りの警備員に見つからないよう息を潜め、監視カメラの死角を掻い潜って目的地である書斎のドアに手を掛けた。
!?
触れたドアノブに違和感を覚え、咄嗟に身体を捻る。
すると次の瞬間にはドアが爆発し、俺は吹き飛ばされてしまい身体を酷く打ち付けてそこで意識が飛んだ。
ハッ! ここは?
目覚めると暗い部屋に居り、俺は全裸で手足を拘束されていた。
「お目覚めのようだな00Z」
「お前、メイドとして潜入していた
俺の目の前に居たのは今回の協力者である00Sだった。
赤いボンテージスーツに網タイツというSMの女王様のような恰好をして鞭を持っている。
その姿に一体何の
「はん! 裏切るなどとは笑止。アタシは元々この屋敷の影の主人なのさ!」
「ぶひぃ!」
00Sが座っている椅子に鞭を振るうと汚い豚のような鳴き声が聞こえた。
よくみると椅子だと思っていたものは屋敷の主である資産家で、ブリーフ一丁の姿に頭には目隠しとギャグボールを噛まされていた。
その姿は従順な豚そのものである。
しかしそんなことよりも俺が気になっていることは1つだけだ。
俺は気絶しているうちに漏らさなかったか?
それだけが気掛かりで仕方ない。
それで全裸なのか?
汚れてしまったから脱がしたのか?
「今回の裏帳簿は全てアタシの流した
「何も話す気は無いぞ......」
聞いてもいないのにペラペラと話してくれて助かる。
その調子で俺が漏らしたかどうかも教えて欲しい。
「へぇ。この状況でそんな口を叩けるとはね。何の情報も漏らさないってのは本当のようだ」
「……」
ん? 俺は漏らしてなかったってことか?
もしくは漏らしたと知っていて、敢えてそんな言葉で俺の羞恥心を煽ろうとしているのか?
「だったらカラダに聞くだけだよ!」
「っ!」
00Sの鞭がしなり、俺の身体を打ち据える。
身体に蚯蚓腫れが出来るがその程度の外部からの痛みには慣れている。
内部からの痛みには負けそうだったが。
何度となく鞭を打たれ、00Sの方も息があがりはじめた。
「ハァ、ハァ、強情じゃないか。流石伝説のスパイだけある。さて、どうやって口を割らせようかねぇ」
「……」
俺は静かに睨むだけだ。
俺たち二人の間に静寂が訪れた。その時。
ギュルルルルルルルル
俺の腹が腹痛を思い出したかのように警報を鳴らした。
「あっはっはっはっは! 伝説のスパイも寒さには勝てないようだねぇ!」
いや、寒さではなく俺を負かしたのは賞味期限切れの牛乳だ。
「惨めに漏らすがいいさ! それとも組織の情報を話すというならトイレに行かせてやってもいいんだよ?」
「!」
クソっ! ズルイぞ! いくら金を積まれても話すつもりなどないが、今この状況で最大の交渉カードを切りやがった!
鋼の精神を持つと言われているこの俺の心を動かすとは、やるなこの女。
しかし、今の言葉で確信した。
俺は無意識下でも漏らすことは無かったようだ。よくやったマイボディ。
「さっさと吐きな。この特大浣腸でもケツにブチ込んでやろうか?」
徐に部屋の奥から大きな注射器のような道具を持ってくる00S。
流石にあんなものを突っ込まれたら俺でも耐えることは出来ない。
万事休す。
「くくっ! アンタの伝説も今日でお仕舞い。クソまみれの人生を迎えな!」
00Sが俺のケツに浣腸を挿そうと近寄って来る。
この瞬間を待っていた。
「フンッ!!」
「なっ!? んぎゅ!!」
俺は右手首の関節を外し、手枷から抜き取ると右腕で00Sの首を締め上げた。
「は、腹が痛いのは、全部演技だったってわけかい!」
「そうだ。俺くらいになると腹音も自在に操る事が出来る」
勝手な勘違いをしてくれたが、俺の名誉のためにもその設定に乗っておこう。
コイツの裏に誰が居るのか調べる為にも殺すのはよくないだろうしな。
00Sを絞め落とし、他の枷に嵌った手足の関節を抜こうとした時、豚となっていた資産家がギャグボールや目隠しを取って立ち上がりこちらに近づいてきた。
「流石だね00Z。ああ、警戒しないでくれたまえ。私は
00Mと名乗ったその男は00Sの胸の谷間から鍵を取り出すと、残っていた俺の拘束を解いた。
初めて出会った相手に多少の不安要素もあるが、こちらは全裸。
相手はブリーフの中にまだ何か武器を持っている可能性がある。
「さて私はこいつを連れて行くよ。今回の任務は君という
気絶している00Sを鞭で両手足を縛り上げて担ぐと、00Mはそのまま部屋から出て行った。
どうやら俺の任務は完遂されたらしい。
俺は屋敷内で適当な服を拝借すると、回収に来たヘリコプターで帰路に着く。
ドカン!
大きな衝撃音と共にヘリが制御不能なほどに揺れる。
ロケットランチャーのようなもので狙われたようだ。
ビービーと煩い各種警告音と、パイロットのメーデーの声が機内に響く。
今日は厄日か?
そしてヘリは墜落した。
俺は墜落直前にパイロットを抱えて脱出に成功したが、落ちた地点は紛争地帯のど真ん中のようだ。
パイロットの持っていた簡易無線機に新たな指示が入る。
「災難だったな00Z。そのパイロットの女性はウチの幹部の娘でね。くれぐれも丁重に扱って二人で無事に帰還してくれ。健闘を祈る」
こうして思いがけず新たな任務が始まってしまった。
腹は痛いままだ。トイレ行きたい。
しかしやり遂げてみせるとも。スパイの矜持に懸けて!
腹痛のスパイ 蘭桐生 @ran_ki_ryu
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