白馬に乗った王子さま
大村 冗弾
サンジェルマン
平穏無事と言えば聞こえは良いが、学校とバイト先と自宅とを行き来するだけの、平坦で平凡な毎日の繰り返しに、ミランダは飽き飽きしていた。
「あーあ、白馬に乗った王子さまでも現れて、どこかいいところに
人間は一定の年齢になれば、安定を欲し、平凡な毎日に満足するようになる。しかしまだ二十歳と若いミランダは、ドラマチックで刺激的な人生に憧れを抱く年頃であった。
「家にいてもつまんないし。誰か誘ってどっか遊びに行こうかな……」
ミランダはLINEで遊び仲間にメッセージを送ってみた。しかし……。
「ダメだー、反応がない……。既読にすらならないし……。みんな忙しいのかな、連休の中日だし……」
彼氏のいる友人はデートの最中で、いない友人は趣味に没頭しているか、家族と過ごしているか、あるいは寝ているかのどれかであろう。
しばらくするとようやく一人から返事が来た。
──ごめーん。彼氏とドイツランドにイルミネーション見に行く約束してるんだ。
「あー、やっぱり……」
ミランダはスマホをベッドの上に放り投げた。
「あーあ、つまんないな~。テレビやユーチューブなんか見てても面白くないし。……SNSで遊び相手募集しようかな」
何者か分からない不特定多数に対してのこのような行為は非常に危険であり、たびたび事件が起きていることはミランダも知っている。しかし彼女は今までSNS上で危険な目に遭ったことがなく、いささか警戒心が薄い。それに少しばかり冒険したいという気持ちもある。
──ヒマで死にそう。一緒に遊んでくれる人募集。@M市。二十歳女子大生。
ミランダは手を伸ばしてスマホを取り、こう言った文面で投稿すると、数分を経たずして続々とリプライメッセージが入ってきた。
「来た、来た。案外ヒマ人って多いのね……」
ミランダは自分と同類の人間が多いことに苦笑しつつ画面をスワイプした。
──デイジー・ランド・アンド・シー、どうですか? 当方二十二歳学生。
「定番。だけどデイジー・ランドはこの間行ったばっか……」
──今ネットゲームしています。一緒にどうですか。
「ネトゲか。つまんないな」
──ナッソー動物ランドにスナネコの赤ちゃん見に行きませんか。かわいいですよ。
「スナネコの赤ちゃんかあ。かわいいだろうな~。でもナッソーって栃ノ木県でしょ、遠いなー」
──S区のイタリアンはどうですか。すぐに予約取れます。
「イタリアンか。とりあえずキープ」
──ドライブに行きませんか。車あります。
「連休中だし、絶対渋滞にはまっちゃう」
──映画見に行きましょう。十八歳女子。
「映画~? 興味ないなー」
──プレジャーボートでナイトクルーズいかがですか? ベイサイドマリーナにオーナーボートあります。三十歳会社役員。
「ふーん。でも海に行くと髪がベタベタになるし」
──一緒に遊びましょう。
「遊ぶって、何して? 提案してくれない人はダメ」
数あるメッセージの中には、
──いくら?
とか、
──三万円。
とかと書かれたものもある。
「何これ、ばっかじゃないの。パパ活じゃないし」
ミランダは鼻で嗤い、次のメッセージを開いた。
──美味しいお店知ってます。
「美味しいお店かー。どこだろう」
簡潔な文面に心が惹かれたミランダは、このメッセージの送り主に返信してみることにした。
──どこのお店?
するとすでに文面を用意して待っていたかのように、男は数秒でメッセージを送り返してきた。
──M市内です。中央三丁目にあるサンジェルマンというお店です。
「えー、サンジェルマン? このあいだテレビでやってた店じゃん! 超ラッキー!」
ミランダは有頂天になってメッセージを書いた。
──何時頃会えます?
──会っていただけるのなら今から予約するので、それに合わせましょう。
──分かりました。お願いします。
返事が来るまでの間、ミランダはテレビで紹介していた高級フレンチ店の店内や料理を思い起こした。
(すごーい、あんなに高そうなお店に行けるなんて。ついてるわー)
数分後に返信が来た。
──七時に予約が取れました。六時半ころM駅前にあるブロンズ像の前でお会いしましょう。
──分かりました。
──わたくし長岡と申します。チャコールグレーのスーツにダークグリーンのネクタイを着け、同色のハンカチーフを胸ポケットに差しておきますので、すぐお分かりになられると思います。
──分かりました。着いたらお声がけします。
──お待ちしております。
「やったー。すごい丁寧だし、いい人そう。もしかして王子さま?」
ミランダは時計を見てまだ時間は十分にあることを確認すると、長岡と名乗る男とのデートの支度を始めた。
約束の時間の少し前に駅前に行ってみると、男はすでに来ていた。
女性の裸像の前に立ち、タクシーやバスが停まっているロータリーの一点をまっすぐに見つめているその男は、痩身だがスーツの上からでも分かるほどがっちりとした体格をしている。若干栗色がかった黒い短髪をきれいに整えたその姿は、遠目に見るとイタリアかフランス辺りの俳優のような雰囲気を醸し出している。年の頃は三十代半ばといったところであろうか。上背はかなり高く、一メートル八十センチはありそうだ。
「へー、結構かっこいいじゃん」
変な男だったらそのまま立ち去ろうか、とも思っていたが、ミランダは意を決して爽やかなイケメンの背後から声を掛けた。
「こんばんは……」
「ミルクショコラさんですか」
男は驚く素振りを見せずにゆっくりと振り向き、笑顔を浮かべてミランダのハンドルネームを口にした。
「はい、そうです。初めまして……」
「長岡と申します。よろしくお願いいたします」
「こちらこそ……」
「ではさっそくサンジェルマンに参りましょう」
長岡はそう言って、右手でタクシー乗り場を指し示した。
白い平屋建てのサンジェルマンには五分ほどで着いた。
店内にはロマン派ピアノソナタの生演奏が流れ、先客が小声で談笑をしながら料理を楽しんでいる。
二人はスタッフの女性に案内されて、薄い水色のクロスが掛けられた奥よりのテーブルに案内された。椅子の前には三角帽のように折られたクロスと同色のナプキンが置いてあり、その両脇には金色に輝くカトラリーが並んでいる。ナプキンの下には白い厚紙に書かれた今日のコースメニューがさりげなく敷いてある。
Le menu du jour
Aperitif.
Amuse.
Entrée: Marinade de saumon cru.
Potage: Soupe à l'oignon et aux carottes.
Poisson: Teriyaki à loup de mer.
Viande: Viande de lapin crémeuse.
などと書かれたその紙片をミランダは手にしてみるが、彼女には単なるアルファベットの羅列に見えるだけで、どういう意味なのか全く分からない。
ワインのボトルを開ける時には、
「ポメリー・キュヴェ・ルイーズ、一九九六年の物でございます」
とか、
「シャトー・マルゴー、二〇〇〇年でございます」
とか、あるいは料理が運ばれてくる時も、
「ヴィヤン・ドゥ・ラパン・クレムーズでございます」
などとウエイターに告げられるが、それも何が何やらさっぱり分からない。
薄くスライスしたサーモンのマリネ、タマネギとニンジンのコンソメスープ、シーバスのテリヤキ風、口直しのシャーベット、ウサギ肉のクリームあえ、シェフ特製のサラダ、様々な種類のチーズ、ピーチのアイスクリーム、ラフランスとシャインマスカットの盛り合わせと続き、カフェ・ウ・テと、プティ・フールとしてラズベリーが乗った小さなタルトが運ばれてきて、やっとコースは終わった。
ミランダには、その料理やビンテージワインの味が美味しいかどうかは分からなかった。
──でもまあいいわ。暇つぶしにはなったし、こういうお店を知ることもできたし……。でも居酒屋さんの焼き鳥やサワーの方が私の舌には合ってるような気がするわ。何だか疲れて肩も凝ってきちゃったし、早いとこ家に帰って寝っ転がりたい……。
ミランダはホッと小さく溜息をつき、分厚い布ナプキンをテーブルに置いた。
「ごちそうさま」
「いかがでしたか」
「とっても美味しかったです……」
「それは良かった。では駅まで送っていきましょう」
長岡は柔らかな笑顔をミランダに向けてそう言い、軽く手を上げてウエイターに合図を送った。
「タクシーを一台お願いします」
タクシーは数分で来た。
「どうぞ、レディーファーストですから」
長岡が笑みを浮かべながら手を差し出すと、ミランダは特に何も考えることなしに後部座席の右側に坐った。
長岡は乗り込むとすぐに運転手に一万円札を渡し、行き先を告げた。
「──ホテル・グランドユニオン」
「グランドユニオン、分かりました」
ドライバーは頷き、そそくさと紙幣をワイシャツの胸ポケットにしまった。
「え?」
ミランダは小さく声を出した。
「駅じゃ……」
ホテル・グランドユニオンは隣町にある高層ホテルで、M駅とは逆の方角になる。
「最上階に部屋を取ってあります。夜景でも楽しみませんか」
「あ、いえ、結構です」
「あなた、食い逃げはいけませんよ」
長岡の低く威圧感のある声を聞いて、初めてミランダは自分の身に危険が迫っていることに気が付いた。
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