第22話

   *   *


「魔王様はまだお戻りになられませんか……」

 トリーの近くに設けた野戦指揮所で、眼鏡の参謀レグラスはしばし考え込む。天幕を張って枯れ枝で偽装しただけの簡易な陣地だ。



「仕方ありません。第二防衛線は放棄します。犬人第二・第三小隊は罠を仕掛けて後退し、食事を摂ってください。負傷者がいれば後送して交代を」

「はい!」



 犬人の伝令兵が敬礼し、スタタタタと走り去っていく。

 レグラスは眼鏡を拭いて掛け直すと、地図の上に置いた犬人隊のマーカーを動かした。

「まずいですね、思ったほど時間稼ぎできていません」



『呪いの森』の細かな地形まで記入された地図には、敵軍が犬人や兎人たちの集落に迫っていることが示されている。

 レグラスは眉間にしわを寄せつつ、演習用の定規を地図に置いた。目盛は人間たちが一日に移動できる距離を示している。



「このままだと明日の朝、早ければ今日の日没前には最初の集落が発見されてしまいますね。一戦仕掛けるべきでしょうか。僕が行けばかなり損害を与えられるはずですが……」

 普段なら誰かに相談するところだが、今はウォルフェンタインもキュビもいない。他の魔族たちはあくまでも兵卒や官僚で、全体の指揮を執れるのはレグラス一人だ。



 傍らに置いていた上着を取るレグラスだったが、ふと手を止める。

「いや、勇者が出てきたら逃げる暇もなく殺されてしまいます。魔王様がお戻りになったときに状況を報告できる者がいなくなるのはまずい」



 じっと考えるレグラス。

「……出てはいけない。ここは耐えるしかないようですね」

 結論を下したレグラスは、すぐに犬人たちに告げる。



「ガル集落の犬人とモッフル集落の兎人たちに伝令を。西よりセイガラン軍が迫っているため、魔王の村に避難するように伝えるのです。他の集落にも避難準備の通達を」

「はいっ!」

 犬人たちは敬礼し、急いで天幕を出ていく。



 レグラスはトリーを振り返り、自分に言い聞かせるようにつぶやく。

「焦りは禁物です。魔王様は必ずお戻りになられます。お戻りになられなければ、そもそも我々に勝ち目はありません」



 そうつぶやきなら、レグラスは拳を握りしめる。

「ここはひたすら耐えて、魔王様の帰還まで敗北を先延ばしにするのです。『魔王様さえいれば何とかなる』という状況を維持するのが私の役目なのですから……」



 気持ちを落ち着けるために水を一口飲んだとき、天幕に猫人の斥候たちが駆け込んできた。

「たったった、大変です!」

「おや、あなたたちは『監視塔』の哨戒班ですね」



『呪いの森』には古代の遺構がいくつもあり、『監視塔』もそのひとつだ。もともとはもっと大きな砦だったと考えられているが、今は石造りの塔が残っている。

 かつては人間たちもこの森に勢力圏を持っており、彼らが建設したものらしい。



 猫人たちはニャーニャー騒いでいる。

「その『監視塔』がブッ壊されたっす!」

「なんですって!?」



 ようやく保たれていたレグラスの平常心がまたしても吹き飛び、彼は眼鏡を押さえた。

「えと、あれです。詳しい状況を」

 猫人たちは顔を見合わせて、それから口々に説明を始める。



「オレたちは命令通り、『監視塔』の周りに隠れてたんですけど」

「人間たちの軍隊が来たなって思って様子を見てたら」

「『監視塔』がいきなり崩れたんですよ」

「怖かったなー」

「危なくて近づけないからそのまま逃げてきちゃった」

「なので誰も死んでません」



 レグラスは深呼吸し、やや無理をして笑みを浮かべてみせる。

「誰も死んでいないというのは大変良い報告です。あの塔は猫人には無用のものなので近づかないように指示していましたが、命令通りにしてくれたのが幸いしましたね」

 猫人たちは周囲の樹上に潜んで偵察できるため、塔に登る必要はない。



「崩れ方や崩壊前後の様子で、気になることはありましたか?」

「えー? なんかある?」

「何かがぶつかったみたいだったかな……」

「ポケッチャを低めにスパブしたときみたいな感じだったね」



 わいわいとしゃべり出す猫人をレグラスは片手で制する。

「ポケッチャを低めにスパブするのがよくわかりませんが、猫人たちの的当て競技でしたね? 確か、積み重ねた小石を的にする」

「そうです! あ、オレは去年のポケッチャ大会のチャンピオンで」

「今それはいいです」



 両手で制して黙らせつつ、レグラスは考え込む。

「つまり投射兵器ということですか……。なるほど」

 猫人たちは尻尾を揺らしながら参謀の言葉を待っている。

「それでどうします?」



「思っていたよりも敵が手強そうです。全ての集落に避難準備を通達してください。最悪の場合、本拠地となる魔王の館も放棄します。そのときは森を出てヘンソン村に逃げましょう」

「えっ!?」

「ヘンソン村って人間たちの村ですよね!?」



 びっくりして毛が逆立っている猫人たちに、レグラスは冷静な口調で言う。

「心配いりません。あそこは魔王軍四天王のユーシアが育った村です。それに村人たちは辺境騎士団の団員で、高度な戦闘訓練を積んでいます。頼もしい味方ですよ」



「ほ、本当かなあ……?」

「オレはちょっと怖い」

「オレも」



 ざわついている猫人たちに、レグラスは手をパンパン叩いてみせる。

「ゴチャゴチャ言ってないで、伝令の仕事をしてきてください。この野戦指揮所も撤収の準備をします。地の果てまで逃げますよ」

「逃げちゃっていいのかな?」



 するとレグラスはにっこり笑う。

「とりあえず無事なら、敵を追い返せば元に戻せます。しかし死んでしまった者は蘇りません。命優先でいきましょう」

「まあレグラス様がそう言うなら……」

「うん、怒られるのはレグラス様だから気にしないっす」



 にゃーにゃー言いながら猫人たちも敬礼して天幕を出ていく。

 それを見送った後、レグラスは深い溜息をついた。

「まずいですね、投射兵器の運用は人間たちが最も得意とする戦術です。どうやって止めれば……」



 狭い天幕の中をうろうろするレグラス。

「弾道が低伸するか否かで有効な防御が変わってきますが、塔を崩落させる威力となると木材や土塁では防ぎようがないかもしれません。人員と時間を割く価値があるかどうか」



 そのときまた天幕に誰か入ってきたので、レグラスは言う。

「今度は何です?」

「友よ、人狼の嗅覚が働かぬほど疲労しておるようだな。余の匂い、忘れたか?」

 魔王ウォルフェンタインがにっこり微笑んでいた。キュビとユーシアも背後にいる。



「あっ!?」

 レグラスは目を輝かせると、幼なじみの元に駆け寄る。

「魔王様、お戻りになられたのですね!」

 返り血に染まったマントを翻し、魔王はレグラスの肩に手を置く。



「参謀のおらぬ余は一介の武辺者に過ぎぬゆえ、急いで戻ってきた。やはりおぬしがおらぬと調子が出ぬ」

「魔王様ぁ……」

 レグラスは安堵と疲労と感激で感情がごちゃまぜになってしまい、しばらくまともに話ができなかった。

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