166 憎しみとの訣別
星野side
「うぐ……」
両耳に衝撃を感じ、膝を地面につく。
僕は耳が奪われるんですか。白石さんの耳なし芳一の話は託宣だったようですね。
『あぁ……間に合わなかった、ごめんな』
「え?あ、芦屋さん!?」
抱き抱えたままの悟くんは、芦屋さんの声色で喋り出した。彼が目を瞑ったまま、眉が下がる。
『鬼一さんとアリスが耳を奪った奴を追いかけてる。現実の体は暉人が守ってくれていたのに、耳だけが隠り世と現世が繋がってるから……本体からも失われてしまってるんだ。星野さん、少しかかんで』
「はい……ぅ、む……」
『ごめんな、痛いな。距離が離れてるから、少しずつしか癒せない。もう少し我慢してくれ』
「いえ、大丈夫です。分霊を飛ばしてくださったのですか?」
『うん……ごめん、今日動くはずがなかったんだが……卜占を初めて外したみたいだ。俺が関わったら事態が良くない方に進むって出てたんだけどさ』
「あっ……もしや芦屋さんの味噌肉そぼろを食べさせたからでは?
子供におにぎりを食べさせました」
『俺が作ったものもダメだったのか……うわぁ……判定厳しいな。事が起きたから干渉したけど、油断した』
「そうですね……あの、芦屋さん、もしかしてさっきのを見ましたか?」
『……うん』
私が抱いたままの悟くんが瞼を開く。その瞳が……茶色から黒へと染まった。光のなくなった昏い眼は、間違いなく芦屋さんの目だ。
「あ、あれは、きっと幻です!!」
『ううん、真実だよ。俺は、みんなの生まれ変わりを知っている。むかーし昔に伏見のお父さんから、血を辿る占いを教わっているからさ』
「そんな……芦屋さんのご母堂の生まれ変わりが陽向くんなのですか!?そ、それを知っていて、あなたは……」
『うん、俺は陽向が大好きだ。心から愛してるよ。可愛い可愛い一人息子だからね』
ふんわり笑う芦屋さんは、屈託のない笑みだ。僕は、耳の痛みよりもそっちの方が衝撃すぎて……受け止め切れないでいる。
だって、芦屋さんのご母堂は、彼女は何百年経っても芦屋さん自身が幸せになれない呪いを残している。
今もそのトラウマに苦しんで、颯人様だってそれが解けるのを待ち続けているのに。
「生まれ変わりだとして、陽向くんは何も悪くないのかもしれませんが……でも、でも……」
『初めて記憶を辿ったときは、驚いたし、ショックだった。
まさか……一番最初におかあさんが俺の所にやってくるなんてな』
「……」
『
だから過去を辿ったけど、知らなきゃよかったなとは思った』
「そう、でしょうね」
『でも……陽向がさ、笑うんだ。俺が触ると、本当に幸せそうに笑ってくれる。
生まれ変わった人の魂が同じだとしても、今目の前にいる陽向を愛さずにはいられなかった』
「…………可愛い子です、陽向くんは」
『うん、そうだな。颯人の顔をしてるから余計可愛いよ』
「芦屋さんは颯人様のお顔、好きですよね」
『んっふ……うん、そうだね』
二人してため息を落とし、沈黙が訪れた。……ここが隠り世だとして、僕の試練は何だったんだろう。
出てきた人たちを思い返しても首を捻るばかりだ。耳を盗られるだけ盗られて、理不尽な気がする。
「星野さん、お兄さんのお墓……作ってあげたんだろ?」
「はい。房主様がそうなさいと仰いましたから。私は彼を供養する気はありませんでしたが」
「許せない、か」
「はい。ただ中務にいただけなら、グーパンチで済ませてあげられましたが。
あなたを傷つけたことによって本当に許せなくなりました」
「…………うん」
芦屋さんは俯き、何を言ったらいいのかと思い悩んでいるようだ。
この方の瞳を昏く染めた原因は、颯人様を失う瞬間を見ていたから。それだけではなく、その後ご自身が蹂躙されてしまったからだ。
私の兄が与えた苦痛はご母堂の与えた過去と重なり、より罪深い物となっている。
私は、兄だったあの人を許してはいけない。赦してもいけない。彼を深く傷つけたのは間違いなく兄なんだ。
私は……毎年お正月の宴会が終わった後、颯人様と共に昔の中務だった人たちのお墓参りをする、芦屋さんを知っている。どんな気持ちで、どんな意味でそうしているのかは正確にはわからない。
私が妻を亡くした後、当たり前のように暖かく家族として迎えてくれた仲間たち。それぞれが幸せな気持ちで眠る、一年の始まりの日に……静かに墓に向かって頭を下げる姿を見て来た。
「俺は、兄弟がいなかったからさ。なんて言っていいか、わからない。
星野さんは本当に優しいから……俺を傷つけたお兄さんを許せないんだとわかってるよ。その気持ちを嬉しく思う俺が、許せなんて言えないけれど」
「……はい」
「憎しみを持っているうちは、それが執着になる。許すんじゃなくて、もう……忘れていいんじゃないか?
憎むって事をしてみてわかったけど、あれは本当に疲れるよ。ずっとずっとやってたら心も身体も壊れちゃう」
「…………」
「俺は、そうやって母への憎しみは消したよ。いや、陽向が消してくれたんだと思う。そのために、陽向は俺の元へ来たんだ」
芦屋さんがじっと見つめてくる。私は目を逸らし、ぎゅっと瞼を閉じた。
失われた両耳から痛みが消えて、そのまま暖かい手のひらがそっと顔を包み込む。
「星野さん。俺、耳がいいんだよ。鼻は清音さんほどきかないけどさ、勘がいいって言うのは五感が優れてるってことだと思うんだ。だから、聞こえちゃった」
「…………」
「大社でお兄さんと縁を切った後、謝ってくれただろ?あれは俺への思いだけじゃなかったよ」
「……っ、……」
胸の奥底が、ずきりと痛む。忘れようとして深く深くに閉じ込めた……小さな頃の思い出が次々と湧き出でて、体が震えた。
寺にやって来たばかりの私は他人が怖かった。兄は、あの頃は誰とでも仲良くできて……すぐに友達ができた。
みんなと遊ぶ姿を遠巻きに見ている私を、何度も何度も繰り返し輪の中に入れようとして、私が反発して……初めて暴力を振るってしまったのは兄だった。
赤く腫らした頬を気にせず、暴れる私を抱きしめて……耳元で『大丈夫、兄ちゃんがいる。俺は痛くないからな』と言い続けた。
薄い粥を分け合う中で、一人分の粥をよそうときに溢してしまい自分の分を諦めた。兄は『半分こしよう』と笑顔で言って、一口食べただけだったのに残りを全部私にくれた。
みんなと同じくお腹が空いてぺこぺこだったのに、迷いもせず、当たり前かのように。
私が目が悪いわけではないと、兄はおそらく知っていた。人と目を合わせて話すのが苦手だと知り……早朝に、晩にと新聞配達をしてバイト代を稼ぎ、眼鏡を買ってくれた。
『これは、魔法のメガネだよ。普通のメガネよりいいやつだ。
康晃はよく見えないから、人が怖いんだ。これをかけたらみんなの笑顔が見えるだろ』
と、私自身に魔法をかけてくれた。
兄が言っていた事で、間違っていなかった物もある。
私は確かにこの悲田院で親のDVから逃れたが、本当に貧しい暮らしで……給食がなければまともに成長などできなかっただろう。
飢えて死んでしまった可能性もあった。
兄が言っていた『偽善』と言うのは現実的には正しい。人を囲って助けようとするのならば、囲う側の人間はその人の全てを請け負う。
ならばこそ、自身の財を築かなければならない。人を守るために、生かすために。
その義務が果たせないのであれば、幼子を無限に囲い続けるのは偽善にもなりうるのだと。
「星野さん。あのさ……俺の耳、あげたいんだけどな」
「……!?だ、ダメです!!」
「そう、言うだろうなとは思った。妃菜も、伏見さんも、星野さんも……みんな俺が無理にあげたらきっとずっと苦しんじゃうからさ。ダメだよな。
だから……これを受け取って欲しい」
芦屋さんが私の顔から手のひらを離して、空虚から何かを掴み、そっと差し出してくる。
「これは……どうして……」
「ごめんな、どうしても捨てられなかった。お兄さんがくしゃくしゃになったメガネを見て泣いてたのを知ってしまったから。あの涙は、綺麗で本物だったから」
「…………」
芦屋さんの手には、私が自ら壊して兄に突き返した魔法の眼鏡が……あの日、あの時亡くしてしまった兄の唯一残した物があった。
「お兄さんの魂は、ずっとここにいる。長年成仏できずにいて、彷徨い果ててここに辿り着いたんだ。
可愛い弟のために一生懸命頑張って買った、思い出の眼鏡に」
芦屋さんの言葉が胸の中に染み込んでくる。震える手で眼鏡を受け取り、ひしゃげたままのその形を見て……私は自分のようだと思う。
自分を守ってくれた大切な兄を捨て、正義を成し、たくさんの幸せと共に歩んできた長い年月。いつも、いつも……心のどこかにずっとあった後悔の証。
変わってしまったその姿が涙でぼやけ、必死で拭っていると芦屋さんが抱きしめてくれる。
「昔の思い出まで穢さなくていい。お兄さんの思いや真意はわからないけれど、大人になって変わってしまったかもしれないけれど、小さな頃の星野さんを思う気持ちはかわらない。これも、真実だ」
「……はい」
「正義って、大事だと思う。自分の心の中に掲げる灯火みたいな物だろ?
でも、その灯の影にいる人も……星野さんなら救ってあげられる。星野さんは、優しい人だから」
「…………っ、すみませんでした。芦屋さんを、私の……私の兄が傷つけて、本当にすみませんでした!!」
芦屋さんはただただ微笑み、優しく頷いてくれる。北海道でしてくださったように、額をくっつけて、ほうっと吐息を吐く。
「お別れをしよう。今、ここで。お兄さんも、星野さんも、もう苦しまなくていい。全ては遠い昔の、泡沫の出来事だ」
「…………芦屋さん……」
私は子供のように泣きじゃくり、小さな悟くんに宿った世界一優しい女神を抱きしめた。
━━━━━━
「できました」
「お疲れ様。じゃあ、はじめようか」
私と芦屋さんは揃って虚空に向かい、二拝二拍手一拝を取る。
葬儀の時は柏手の叩く音を出さず、忍び手と言う無音の拍を打つ。
お互い、葬式は山ほどやって来ましたから慣れた物ですね。
鼻から息を吸い、口から吐き出して……書き上げた奉書を手に、
神道の葬儀では、祝詞ではなくこの
亡くなった方は、家の守り神になると言うのが決まりですからね。
その人の生い立ち、学歴、職歴から始まって趣味の事まで祭詞に含める。
私はここぞとばかりに中務に所属して、兄が行った暴虐の限りを書き込み、『もうするなよ』と忠告を入れた。
そこを読み上げると、芦屋さんが苦笑いになる。すみませんね、そこは譲れないんです。
――
幽世
夜の守り日の守りに守り恵み
慎み敬ひ
『康晃……』
誄詞を奏上終え、頭を上げると目の前に兄が現れた。よりにもよって、小さい時の……私が大好きだった兄の姿で。
そう言うところがずるいんですよ。
膝を折ってヤンキー座りになり、じーっと小さな兄を見つめる。
「兄さん、
『ほ、欲しい!康晃に貰えるのなら、是非に……』
「あなたの諡は、
「ちょっ、星野さん!?それはやめようよ!!」
「ふんっ。ああ、ダメですね……私の一番尊敬する方と同じ文字をつけたくありませんから」
ヒトガミ様である芦屋さんはすぐそばで「星野さん!」と再びツッコミを入れてくる。
仕方ない……冗談はここまでにしましょう。
「私は
『星……守……』
「名前の通り、私を守ってください。そして、私を守ると言うのがどう言うことかわかりますよね?
私が出会ってから一番大切に思っている方を守って欲しいんです」
こくり、と頷いた兄はいつの間にか青年の姿になっている。神が諡をつけてあげれば少々祓いになるでしょう。
イザナミ様にご迷惑をお掛けしたくありませんからね。
『康晃……すまなかった。人神様も……申し訳ありませんでした』
芦屋さんと二人で頷き、両手の平に乗せた眼鏡を空に掲げる。
何もない虚空だった空は、だんだんと移ろい星空になっていく。
現世に、戻って来ましたね。
「……さよなら、兄さん。今度生まれたら、人非人にならないように……私がとってもとっても厳しく教育してあげますからね。……また、会いましょう」
手のひらの上で舞い散っていくそれは、暗闇の虚空に光を刻み……星のように輝いた。
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