フラグを回収した日
一枝 唯
フラグを回収した日
それは楽しみにしていたコンサートを翌日に控えた夜だった。
最後の確認として、私は明日乗る電車の時刻を家人と打ち合わせた。
「開場と同時だと混んでいてなかなか入れないだろうし、少しゆっくりでもいいんじゃないかな。電車さえ遅延しなければ大丈夫でしょ」
仮に遅れていても、動いてさえいれば時間は読める。そのときは早めに出るなどの対策を取ればいい。万一予定の路線が止まってしまっても、自宅からは別の路線へも行きやすい。
軽口を叩きながらも私はそうしたことを考えていた。
もっとも、心配は杞憂に終わるだろう。
そんなタイミングでの事故は、そうそう起きないものだからだ。
――と、まあ、昨夜のやりとりが盛大な「フラグ立て」であったことを知るのは当日の移動中であった。
最寄り駅を出て二十分ほどだろうか、ホームからなかなか電車が出発しない。待ち合わせか。いや、この電車は先に出るはずだ。
首をかしげたとき、そのアナウンスが響いた。
「お客様にお知らせいたします。○○駅にて人身事故が発生いたしました」
車内はしんと静まりかえった。顔を見合わせる私と家人。漫画のように頭を抱えて後ろにのけぞる、目の前に座っていた人。
どうしよう。どの程度の事故だろう? すぐ動くだろうか。それなら待っていてもいいが、アナウンスの声にも緊張が走っている。
「この電車は行き先を変更します」「振り替え輸送を行います」「行き先は□□駅になります……失礼しました、**駅にて車両変更をいたしますので、お乗り換えを……」。情報がはっきりしない。まだ混乱している。
どうやらすぐは無理、三十分でも済まない、一時間で早いレベルだろう。待つのは無謀だと判断した。
「どうする?」
スマホを操作する私。まずは現地で待ち合わせる友人に連絡。先に行っててもらう。
それから乗り換え案内系のアプリ。まだ事故の情報が載っていないから、ただ検索したらこの路線が案内されてしまう。経由地を考えないと。
家人とそれぞれが考え、スマホに助けを求める。
戻る側の電車は動いてる。いったん最寄り駅まで戻って、別の路線へ移動するか? だいぶロスになるが、いま動くならそれしか――。
「あ、△△駅から歩いて××線!」
家人が気づいた。そうだ、最寄り駅まで戻らなくても、少し歩くが別の路線に行ける駅があった!
それだ、と言う私と、明らかにハッとした顔を見せる周囲の人。家人の言葉は近くの人をも救うことになったようだ。
決まれば即座に電車を降り、反対側のホームへ。やってきた電車に乗り、アプリで経路と時間を確認。普段使わない路線なので、見当が付かない。
不安。間に合うだろうか。
大丈夫。いくらかは余裕を持っている。
自分に言い聞かせる。
家人とそれぞれ調べて結果をつき合わせると、しかし全く同じではない。ホームの移動時間などの取り方がアプリやサイトによって違うことがあるのは知っているが、今回は乗り継ぎの駅が違って指示されていた。
「どうする?」
何度目だったか、不安の吐露を兼ねた相談をする。
普段使わない路線。聞いたことのない駅は、大きさの規模がわからない。乗り換えは同じホームの反対側なのか、それとも階段を上ってたくさんある路線から探して降りるタイプ、或いは同じ駅と言うのが詐欺みたいに歩かされる系?
とは言え、アプリの移動時間はたいてい充分なほど取られているはず。現地の最寄り駅に着く予定時刻が一番早いルートを取ることにした。
まずは最初に降りる駅。たぶん普段以上の人が降りて移動していく。
「振り替え輸送のお客様は……」
改札前で駅員さんが説明している。あっ、そうか。振り替え輸送って形になるのか。
でも話を聞いて何かしている余裕がない。ええい、電車賃は普通に払う! そのまま普通に改札を出て、同じように歩いて近くの駅に行く人々について行った。
この道は、だいぶ昔に一、二度通ったことがある。でも確か、向こうからこっちに乗り換えたんだ。こちらからは歩いたことがない。
でもみんなについていけば大丈夫。こういうとき、人波は安心要素だ。
時刻は黄昏時を越え、町は薄闇に覆われていく。近頃目が悪くなってきた私は、コンサート用に持ってきた眼鏡を装着した。慣れた通路なら裸眼で行けるけど、見知らぬ場所は不安だ。単純に、案内板の文字が読めなくても困る。
ぞろぞろと一団は別の路線の駅にたどり着く。上り下りの行き先をよく見る。不慣れな場所は心配になってしまう。まさかここで逆方向に乗ってしまうような過ちは犯せない!
慎重に確認し、やってきた電車に乗り込む。次の乗換駅は――。
「うん? 乗り換えの移動時間、多くない?」
多めに見積もられているとは言え、移動七分はなかなかだ。
「でもこれが結果的に早いなら、まあ、歩こうか」
初めての道は、長く感じるもの。
まっすぐな通路をひたすら歩く。階段を上る。更に歩く。少し外が見える。エスカレーターを進む。更に歩く――。
人の多い時間帯であることが幸いだった。みんな歩いているから慣れない道でも不安にならない。これがひとりふたりしかいなかったら、何度も地図を開き、案内板を確認して、地味に時間と精神が削られたことだろう。
結局、そこが最後の心理的ハードルだった。
予定から数十分は遅れ、現地にたどり着いてから入場までの時間はかかったものの、開演には無事に間に合って友人とも合流。気持ちの余裕が出るのに少々かかったが、座席に落ち着けばもう問題は何もない。
私たちは思いがけない危機を乗り越え、すばらしい演奏を楽しむことができたし、いまとなっては笑い話だ。
それにしても、まさしくフラグを実感した出来事であった。
今後はうかつなことを口にしないよう、注意した方がいいかな。
―終―
フラグを回収した日 一枝 唯 @y_ichieda
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