その向こう側

八月 猫

第1話 テリー・プライス

──ドン


 僅かに低い音が聞こえた。もし今が授業中じゃなければ──もし、ほんの少しの喧騒の中にいれば聞き逃していただろう。


 それはただ単に小さな音が近くで聞こえたのではなく、かなり大きな音が、ここから距離があるために遮蔽物によって遮られたような鈍く──不快な音に思えた。


 しばらくは何事もなかったかのように授業は進んでいく。

 おそらくは教室内の生徒の大半がその音を聞いていたと思うが、特に気にするような事ではないと判断したのだろう。

 実際何の音なのか確かめる手段はないし、そうまでする理由もなかった。

 テリー・プライスはそう考えてすぐに講義に集中した。


 しかしすぐにその原因は明らかとなった。


 今度はすぐ近く――おそらくは廊下の突き当たりにある階段の辺りだろう。

 身体の芯まで響く爆発音と激しい振動が教室全体を襲ってきた。


「キャー!!」


 クラスメイトの悲鳴が上がる。

 何が起きているのかは分からないが、どんな事が起きたのかは分かる。


 ──何かが爆発した。


 その場の全員がそれを理解しパニックになった。

 事故か事件か。

 先程僅かに聞こえてきた音も別の場所で同じ事が起きていたのだが、誰もそこまで考える余裕はなかった。


 テリーの今いる教室は三階。爆発は廊下側で起きている。そちらには避難したくはないが、窓から出る事も出来ない。

 教師が大声で落ち着くようにと叫んだが、パニックに陥った生徒たちの耳には届いてはいないようだった。


 すでに廊下に飛び出した者もいて、それに気付いた者が後に続いた。

 皆爆発が起きた方向とは逆へと走る。

 多少の距離はあるが、そちらにも下へ降りる階段がある。

 周りの教室からも一斉に生徒が飛び出し廊下は我先にと押し合う危険な状態になっていた。

 先頭を行く生徒が階段にたどり着いたその時――三度目の爆発が起きた。


 その階段の真下、二階の廊下で激しい爆発。

 二階の教室から避難しようとしていた生徒が巻き込まれた。


 すでに下へ降りようとしていた者は爆風を受けて重なり合いながら悲鳴と鈍い音を上げ雪崩のように階下へと落ちていき、爆発の衝撃をまともに受けた者はその五体を壁に宙にと散らした。

 密集していたのが幸いしたのか、後方にいた者は大きな被害を受けなかったが、犠牲となった生徒の飛び散った血肉片が雨のように降り注ぎ、パニックに更に拍車をかけた。


 辺りは黒煙に包まれ、タンパク質の焦げた臭いと神経を直接刺激するような生臭さが充満した。

 三階からも後続に押されて落ちてくる者が何人かはいたが、その場の惨劇を目の当たりにし、転落の痛みを忘れ嘔吐した。



 二階で爆発が起きた時、テリーはまだ教室にいた。恐怖で動けなかったのではなく、親友であるアンソニー・ベンスンに手を貸していた。

 アンソニーは避難しようとしたクラスメートに押し倒され、足に怪我を負っていた。


「大丈夫か?」


 テリーはアンソニーに肩を貸して教室から出ようとした。

 廊下では階段から引き返してきた生徒達の悲鳴とも怒号ともとれる声が響いていた。皆逆走して始めに爆発のあった方へと走っている。

 確かに一度爆発が起きているのだから安全かもしれないが、誰もそんな事を思ってはいない。

 ただ恐怖に突き動かされて、その場から離れたい一心だった。


 アンソニーを助けようとして思考を切り替えられたからか、自分より混乱している人を見たからか、それともその両方か。テリーはこれからどうすべきかと考えられる程度には落ち着きを取り戻していた。


「何が起きてるんだろう……」


 震えた声でアンソニーが呟く。


「分からない。でも――かなりヤバイな」


 続けて起きた爆発。

 聞こえているだけで三回。

 最初の一回は遠くで、多分――他の校舎だろう。後の二回はこの校舎で起きた。

 これは事故なんかじゃなく明らかに事件だろう。しかもテロだ。


 テリーはそう考え、むやみに動くのは危険だと思った。


「テリー……逃げないのか?」


 アンソニーの身体は震えていた。

 自らの生命に危機が迫っているのを嫌というほど感じているのだろう。


「そうだな……」


 廊下は逃げ惑う生徒で溢れかえっている。この中をアンソニーを抱えて行くのは無理だろう。

 もう少し待ってからでないと──。


――パン!パン!パン!


 銃声──そして今まで以上の悲鳴が聞こえた。


 生徒達が再び教室に逃げ込んでくる。


「テリー……」


 今教室を出るのは危険だ。

 でも逃げ場の無いここにいても安全な訳ではない。

 生徒の中には窓から何とか下りられないかと身を乗り出している者までいる。


 その間にもどこかで爆発音と、近くで再び発砲音が聞こえた。

 一度は落ち着いた気持ちだったが、もうどうしようもないくらいに震えている。

 死にたくない!逃げ出したい!!

 思考は完全に停止し、ただそれだけを心の中で繰り返した。


 今にも銃を持った何者かが教室に入ってきて、その銃口をこちらに向けるのではないか?


「ね、ねえ……マチルダは……」


 アンソニーの言葉に意識が現実に引き戻される。


 気分が悪い。

 吐き気がする。

 耳の奥がぼおっとしているが、その名前だけは聞き逃さなかった。


──マチルダ・スタンガースン。


 テリーとアンソニーのクラスメートであり、幼なじみの少女。


 風邪をひいたのか、夕べから体調の悪かったらしい彼女は今朝はマスクを着けて登校していたが、この授業が始まってすぐに気分が更に悪くなったということで医務室に行っていた。

 医務室のある校舎は最初に爆発音の聞こえた方向にある。

 二人にとって彼女は幼なじみという以上に大切な存在だった。

 護らなければならない。

 こんな時だからこそ動かなきゃならないのに。


 ──ハァ!ハァ!


 呼吸が荒くなる。

 一瞬最悪の状況を想像して激しい眩暈に倒れそうになる。

 しかし、精一杯の勇気を振り絞る。


「アンソニー、これだけの騒ぎが起きてるんだ。すぐに警察が来る!それまではここにいた方が安全だ!」


「テリー、でも……」


「マチルダは俺が捜しに行く!!」


「危ないよ!」


 アンソニーの言葉を無視してテリーは走り出していた。



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