第7話 借り入れますか

 分厚い四肢を見せつける猿熊。


 長い腕の先に伸びた鋭利な爪は、巨木を容易に切り裂くイメージを浮かばせる。全身の筋骨はしっかりしており、自然界における凶器に相応しい。

 しかも悪いことに、猿熊達の精神状態は正常ではなく、ひどく恐慌しているらしい。理由は不明だが、目が一様に怯えの感情に染まっているのだ。

 それに輪をかけて最悪なのが、猿熊達は群れで行動しているということ。


「獣じゃない!? いや、それよりも数が多すぎる!」


 バリーは身構える。

 襲ってくるのは間違いない。その恐怖と殺意に濁った瞳を見れば明らかだ。

 実際、猿熊の群れはバリーの事など眼中にない様子で、一直線に突進してきた。

 それはまるで、何かから逃げるために大移動をしているような動きだった。


「おのれ! どこから湧いて出た!」


 バリーが恨み言を吐き捨てた、その時──。



《借り入れますか》



「は……?」


 突然、丸トカゲが背後から意味不明なことを宣告してきた。

 バリーは思わず振り向きそうになる。


 ──こんな時に何を言っているのか。

 問い質したい気持ちは強い。気を逸らされたことに対して苛立ちも湧き上がる。

 しかし、辛うじてそれは耐える。

 今はバリーの命が危機に晒されており、言葉を交わす余裕などない。


 猿熊どもが、目と鼻の先まで迫る。


 バリーは即座に、襲いかかってくる猿熊達へ【竜拳】を解き放つ。

 今度は先ほどのように加減はしない。慈悲はない。握り締めた拳を全力で打ち込む。


 暴虐ともいえる巨大な力が荒れ狂った。


 直接拳を叩き込んだ先頭の猿熊は腹に風穴が空き、瞬時にその命を散らす。さらには生じた余波によって、後続の猿熊達は十匹単位で方々へ吹き飛ぶ。


 ──自分の力は十分通用する。


 これならば何とかなるかもしれない、そう思って表情が歪みかけた時、バリーは目を見開いた。

 まるで巣をつつかれたアリのように、木々の奥から次々と猿熊達が突進してきたのだ。

 バリーが吹き飛ばした猿熊達など、物の数ではない。


「恐れはないのか!」


 猿熊達は錯乱しているのだろう。回避という遠回りな選択を排除して、真っ直ぐに突っ込んでくるばかりだ。


「所詮は獣か。いいだろう! 俺の魔力が尽きるか、お前らが死滅するかの殴り合いだ!」


 高らかに吠えると、連続して【竜拳】を打つ。

 脳漿が飛び散り、臓腑が弾けて、血の雨が降ってくる。

 生物だった欠片がバリーの体表を汚し、不快感を覚えるが、振るう腕を止めることは出来ない。


 そんな中──。


《借り入れますか》


 喚き立てる丸トカゲ。

 不安を煽るように、甲高い音声は繰り返される。


《借り入れますか》


「やかましい!」


 拳を突き出しながら、バリーは叫ぶ。そのせいで口の中に猿熊の血が入った。気持ち悪さから唾液ごと吐き出す。


《借り入れますか》


「い──」


 いらん、そう言おうとして押し止まる。

 また口内を汚されたくなかったというのもあるが、それ以上に、ここで拒絶すれば永遠に "借り入れる" ことが出来なくなるのではと、バリーは直感したのだ。


 "借り入れ"、というのが何なのかは分からない。

 連想されるのは負債。重い利息が課せられ、返さなくてはならない金は嵩む。

 破滅への第一歩だ。


 しかもそれだけではない。

 バリーは思い出す。成長速度1000倍のまじないや、幸運のまじないを貸与すると、丸トカゲが言っていたことを。

 あの時は許可など求められなかった。丸トカゲに勝手に押しつけられたのだ。これくらいは何でもない事だと言わんばかりに。


 対して、今回は違う。

 わざわざこちらの意思を確認してきている。


 ──それは、バリーが許可しなければならないほどの巨大なリスクが生じる、という事なのではないだろうか。


 猿熊を殴り飛ばしながら、バリーは底知れない嫌な予感を覚える。

 それに何より、これを承諾すると、バリーの明確な意志によって丸トカゲと何らかの契約を結ぶことになる。



 怨霊との取引。



 ロクなものでは無いと思われる。


 やはり拒絶するべきだ。

 バリーは確信する。


 ──とはいえ、だ。

 とはいえ、先ほど軽はずみな行動をしてしまった事が、バリーの頭を冷やしてくれた。


「今は……。そう。今はいらん!」


 一時的に拒否する意思を示すと、バリーは再び猿熊へ【竜拳】を打ち込んだ。





 激闘だった。


「はっ、はっ、はっ」


 荒い息が吐き出される。バリーの肺は懸命に働き、新鮮な酸素を取り込もうと短い間隔で呼吸を繰り返す。


「勝った、か……」


 血に染まった大地。

 そんな表現が過剰ではなく、適切だった。


「うぷっ……!」


 落ち着いてくると、異常なほどの血の臭気に気付かされ、バリーはえずく。


「どこか、遠くで休まねば……」


 汗と返り血にまみれた体を、ふらりと動かす。

 水場だ。

 水場に向かわなくては。

 そう思った時。


 群れが通ってきた跡から、一体の猿熊が歩いてきた。


 バリーは目を見張る。

 明らかに別格。この猿熊はボスの風格を漂わせている。


「おの、れ。ここまで、きて……まだ歯向かってくるか……」


 もはや魔力は尽きかけている。

 放てる【竜拳】はあと一回が限界だろう。


「その前に、俺の体が倒れる……か?」


 それほどの疲労感だ。本当は今すぐにでも突っ伏してしまいたい。体にはガタがきており、もう限界だと悲鳴を上げている。

 心が揺れかけたバリーは、しかし己を奮い立たせるように奥歯を噛み締める。それから猿熊のボスを強い眼差しで刺す。


 くたばれ──


 そう、掠れた声で言うことは出来なかった。

 唐突に熊猿のボスがぶちゅりと潰れる。


「なっ……!」


 バリーは思わずあえぎを漏らす。

 一体何が起こったのか。

 それはバリーの視線の先を辿れば瞭然だ。


 石塊で構成された、十メートル近い巨大な怪物。

 それが猿熊のボスの背後から現れ、そして熟した果実のように叩き潰したのだ。


 バリーは絶望と共に見上げる。

 石の怪物は、脇に人型の種族を抱えていた。

 その耳は尖っており、恐らく女性だと思われる。どうやら気絶しているらしい。捕縛されたのだろう。

 ただ、そんな事はどうでもいい。


 ルドルフや廃竜を想起させる巨体。自分との圧倒的な体格差に、バリーは震え上がる。


 常識で考えれば分かる。

 大きさとは力なのだ。身長二メートル程度に過ぎないバリーが、その五倍以上の巨体を誇る怪物に勝てる道理などない。


 事実、猿熊のボスは目の前で瞬殺された。


 バリーの脳裏に、猿熊の群れの様子が思い出される。

 あの恐慌を引き起こしたのは、この石の巨体ではないだろうか。猿熊のボスを殿とし、逃げてきた先にはバリーが居た。

 挟み撃ちの格好だ。したがって猿熊は即座に比較する。

 石の巨体より、バリーの方が与し易い、と。


 ──逃走するべきだ。

 そんな考えがバリーの頭をよぎる。

 満身創痍なのだ。ここで意地になって死んでしまっては元も子もない。


「いや……」


 バリーの全身から、ふっと力が抜けていく。

 気付いたのだ。石の巨体を撒くためには、長い距離を走る必要があると。


 極度の疲労によって膝が笑う。もしかすると、精神的なものも重なったのかもしれない。

 弱気が浮かび、バリーの心の隙間から都合の良い考えを生む。


 きっと味方だ。

 石の巨体は、バリーの代わりに猿熊を倒してくれたのだ。

 自らに貸与されたもう一つの力、幸運のまじないの効力が発揮されたに違いない。

 そんな願望が浮かんだバリーは、震える自らの膝を見た。


 ──ふつふつと怒りが湧き上がる。

 お前は廃竜を、王子達を、そしてルドルフを恐れている、そう言われているような気がして。


 バリーは右の拳にありったけの魔力をかき集める。


「諦め、られない」


 バリーは憎悪を滾らせる。

 疲れが何だというのか。負傷はない。手も足もまだ動く。

 なら、たかが石くれで出来ただけのデカブツに殺されてやるわけにはいかない。


「ふざけるな……。ここまで来るのに、十年かかったんだぞ。それが、こんな最初の一歩で終われるものか。──奴の喉を引き裂くのは俺だ。奴は……ルドルフは、俺が殺さなくてはならないんだ!」


 大声を張り上げて、バリーは跳躍する。


 力み過ぎて体幹がぶれた。

 空中で体勢が崩れる。

 これでは体重の移動がうまくいかない。

 力を完璧に伝えられなければ、これほどの巨体を持つ相手に対して損傷を与えることなど不可能だろう。


 それでもバリーは、血が滲むほど強く拳を握り締める。前方を睨み付け、石の巨体に肉薄すると、無様な構えから──しかし今持てる全ての力で、石の顔面に【竜拳】を叩き込んだ。




 石の顔面は粉々に砕け散った。




「──は?」


 巨体が背中から沈む。

 そのまま血の大地に激突すると、全身が瓦礫となってバラバラに弾けた。


 跳躍していたバリーは勢い余って、腹から地面にぶつかる。

 鈍痛が体の内側から広がってきた。


「…………」


 伏せる形になったバリーは、血の大地に両手をつく。

 亀のような鈍間さで立ち上がり、無言で瓦礫の山へと歩く。

 疲労に苛まれている為に少し時間がかかったが、目的の場所へ到着した。


 バリーは瓦礫の山を見上げる。

 呆然と眺めるばかりになっていたその時、瓦礫の上の方から石ころが転がってきた。ちょうどバリーの足元で止まる。生死を確かめるように石ころを軽く蹴る。


 石ころは飛んでいった。


 しかし反応はない。

 ぴくりとも動かない。


「……本当に死んだ? 弱っていた、のか? 再生とかはしない?」


 呟きに応える声はない。


「……あ。あいつはどこに行った? あいつが石の怪物を弱らせていたんじゃないのか?」


 バリーはキョロキョロと辺りを見回す。

 石の怪物が腰に抱えていた女。あの耳長女と石の怪物が一戦交えていたからこそ、バリーが一撃で倒せたと考えるのが妥当だろう。

 もしそうでなければ【竜拳】が強すぎるだけだ。別にバリーが威張れることではない。


「……居た。死んでないだろうな」


 少し離れたところに耳長女は倒れていた。バリーは足を進めて女の前に到達すると、その姿を観察する。


「……何者だ?」


 金髪に尖った耳をした女だ。

 弱々しいというか儚いというか、薄幸の美女という雰囲気がある。

 そのせいか、どうにも情欲が湧いてこない。


「まあ、好みというものがある。それに血だらけだしな」


 周辺の大地は猿熊の血で濡れている。

 その為に全身が赤く染まった女を、バリーはぐらぐらと揺らして起こす。

 無論、助けるつもりはない。この世界の情報を引き出そうと考えたのだ。

 幸運にも周囲には誰もいない。口封じは容易い。


「おい。起きろ、女」

「ん、んぅ……」

「ちっ。さっさと起きるんだ」


 肩を掴んで揺さぶると、女は少しずつ瞼を開き始めた。


「ん……あ、あれ? ここは……?」


 女の言葉が理解出来るのは、大陸共通言語とやらを刻まれた影響だろう。

 バリーは女の肩から手を離す。


「ここがどこかは俺の方が知りたい。いや、待て。そんなことより、俺がお前を助けてやったんだ。今はそれだけ把握しておけばいい」

「そ、そうなの? ありが……違う。えっと、感謝いたします」


 女は身を起こすと、丁寧にお辞儀をする。

 見知らぬ者の言葉をすぐに信じるなとか、血だらけな事に何かしら反応は無いのかとか、色々と突っ込みどころはあったが、ひとまずは飲み込む。


「お前、名前は」

「う、ウィズ。ウィズ・リングスです。エルフで、年は一七で、アムラスの里出身です」


 エルフというのは種族名だろう。それにアムラスの里という地名も聞いたことが無い。

 異世界に来たという実感がようやく心に染みる。


(異世界での初めての名乗りとなるわけか……。ここは気合いを入れねばな)


 バリーは威勢良く自分の名前を告げようとして──閉口する。

 今の自分はゾッド家から弾かれた存在。姓を名乗るわけにはいかない。

 ただ、振り返って考えてみれば、それはむしろ望むところだ。

 姓とは違い、名の方は母からもらった宝なのだから。


 バリーは溜まった疲労を隠して、堂々と胸を張る。


「それじゃあ、こっちも名乗るとしよう。俺の名はバリー。ただのバリー。見ての通り、竜人だ」

「──え?」


 エルフの女──ウィズは首を傾げた。

 その反応にバリーは眉根を寄せる。


 何か変なことを口走っただろうか。

 バリーが少し不安に思っていると、ウィズは心底不思議そうな表情で尋ねてきた。











「──あなたは、人間じゃないの?」



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