第5話 ウィズ・リングス
アムラスの里。
二千人程度のエルフが住まうその地は、標高三千メートルを越える山々がつらなる連峰。その麓に広がる森の中央部に存在する。
里長の家族構成は父と娘の二人。
長にしては慎ましい家屋で暮らしており、それが二人の穏やかな性格を表しているようだった。
父は人が良い。
そして娘である、ウィズ・リングスは死が怖かった。
それは幼少期のトラウマが原因だ。
ウィズは幼い頃、母子家庭で育った。
無論、父は死んだわけではなく、単に離別しただけだ。
父も同じ里に住んでいるので、会おうと思えばいつでも会える。それどころか些か距離が近すぎて、両親からすると気まずいのかもしれない。かつてのウィズは幼心にそう思っていた。
少女ウィズには二つの宝物があった。
一つは母から渡された香水。
そしてもう一つは、とある言葉。
普段は寡黙な母が、その言葉を口酸っぱく告げるのだ。
「戸締まりを忘れないように」
留守番をする時でも、遊びに行く時でも、絶対に戸締まりを忘れるな。
母は仕事に出かける前に、ウィズに必ずそう告げた。
ウィズは言いつけを守った。
母の少ない言葉は、ウィズにとって宝だったから。
それに盗られて困るような物が家にあるとは思えなかった。
だからウィズは、自分を心配してくれているからこその言いつけだと信じて疑わなかったのだ。
その日は六階下の友達の家に遊びに行った。
もちろん、言いつけは守る。
宝物の存在を忘れるわけがない。
カギを掛け、ドアノブを捻って確認する。
──大丈夫。ちゃんと閉まってる。
もう一つの宝である香水を振りかけてお洒落もばっちりだ。
ウィズは走って友達の家へ向かった。
いつもと同じだった。
いつもと違ったのは、その日、里がモンスターの群れの襲撃に遭ったということだ。
ウィズは幸運にも助かった。
友達の父は兵士で、その日が偶々休みだったので守ってくれたのだ。
しかしながら母は違った。
母は自宅の前で倒れていた。
モンスターに追われ、カギが掛かっていた為に家の中に駆け込めなかったのだ。
トビラの前に落ちたカギ。
大きな爪に切り裂かれたような背中の深い傷。
友達の父がモンスターを倒してくれた時には、既に手遅れだった。
ウィズは泣き叫んで母にすがりついた。
お母さん。
お母さん。
死なないで。
一人にしないで。
良い子にするから。
呼びかけのお陰か、母は瞼を薄く開いた。
そして死に瀕する中、母は言った。
「あんたのせいで……」
それが母の最後の言葉だった。
その日以来、ウィズは外出を極力控えるようになった。
心を閉ざし、十重二十重の殻に閉じこもったのだ。
母が死んだ後は別れた父の元に預けられ、そして十七歳になった今も父の家に住んでいる。
ただし、戸締まりはしない。
それは、母の言いつけを守る必要が無くなったから、ではない。
もっと別の、残酷な理由があった。
ウィズは知らなかったのだ。
父の家が "普通の家" だったことを。
ウィズは勘違いしていたのだ。
友達の家が "変な家" だと。
母と一緒に住んでいた家は、ゴミ屋敷だった。
盗られて困るような物はない。
しかし、見られては困る。
だからウィズに戸締まりをするよう、強く言い聞かせたのだ。
思い返せば、母は香水の匂いがきつかった。
そしてウィズもそれを渡されていた。
ウィズの宝物はゴミだった。
二つとも。
ゴミの悪臭と、力いっぱい爪を立てた母に肉ごと搔きむしられていた腹に滲む血の臭いを、ウィズは外出する際、自分の手で欠かさず消していたのだ。
見上げれば、馬乗りになる母の姿が映る。
その爪の間には、自分の肉がぎっしりと詰まっていた。
白と赤が混じったような、気持ち悪い肉の色。
あの色味と痛みを、ウィズは忘れられない。
母から虐待を受けていたことに気付いたのは、それから数年が経過してからだった。
エルフは長命でありながら、人間に似たところがあり十二歳前後で生理が始まる。
そんな中で、ウィズは同い年の女子よりかなり遅れて生理が始まった。
そしてそれからというもの、頻繁に生理不順に陥った。
理由が分からず、ウィズは悩んだ。
だから迂闊にも、一人の女子にその悩みを打ち明けてしまった。
ウィズはその無神経な女子に告げられた。
治療院に掛かった方がいい、カウンセリングも受けるべき、と。
治療院は分かる。
だが、カウンセリングを受ける意味は分からない。
ウィズの困惑げな表情を見て、女子は心配そうに呟いた。
お父さんからは何もされていないのよね──と。
お父さんからは。
つまり、自分は母から何かされていた。
そこでようやく、母から虐待を受けていたとウィズは悟る。
母の死後も大事に保管していた香水を、家のゴミ箱に放り捨てたのもその時だ。
怒りが湧く。
憎しみが宿る。
それでもウィズは自分を責める。
母は自分のせいで死んだのだと。
父は慰めのような言葉を口にする。
違う、お前のせいじゃない、悪いのはモンスターだ、と。
失笑しそうになった。
臆病な自分でもそんな感情を抱けるのかと驚いたほどだ。
ウィズ・リングスは死が怖い。
自分が不幸だったと思い知らされるから。
罪悪感に囚われているから。
だから今も、先遣隊という命の危険がある一員の中に入ることを押し付けられても、嫌だとは言えなかった。
そして案の定、任務中に十メートル近い巨躯を持つゴーレムと遭遇し、隊は全滅した。
もはや生き残りはウィズだけだ。
ウィズは世界に絶望する。
──結局、自分の人生は何だったんだろう。
そう思いながらゴーレムの拳をもろに受け、ウィズは目の前が真っ暗になった。
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