象牙多層球
フクロウ
壱話 四苦八苦
芸術とは時に不思議な錯覚を呼び起こす。同じ一枚の絵が人によって視点によって男性にも女性にも見えるものや、静止絵にも関わらずぐるぐると動いているようにも見えるもの。有名なところではエッシャーのペンローズの階段。降りていると思っていたら上っている。上っていると思っていたら降りている。
この
例えるならば惑星の公転周期に似ている。あれは今度は途方もない大きさがあるが、それを非常に微細にしたものが象牙多層球と言えるかもしれない。
芸術は、素晴らしく感動的なものばかりとは限らない。吐き気を催すほどの嫌悪感を覚えるものから目眩がするものまで、とにかく言葉に消化できない存在が芸術だと思う。言葉を尽くせば語り切れるのであれば、それはもはや芸術とはならない。
──そんな思索に
「あっち行こう! ユズ! ごめん、ちょっと生理的に耐えられないからさ! あっちの人形の方が面白そう!」
「んっ……わかっ──」
──た、という前に手を引っ張られると
白地に小さな赤い明朝体で書かれていた作品名は「四苦八苦」。名前だけはインパクトがある。
「ねぇ、なんか怖い……かも」
結愛は掴んでいた手を一度離すと、指を絡めるように握り直してきた。私は不安そうな気配を感じ取って指先に力を込める。
「四苦八苦──仏教における苦の分類だね。なんだっけ、
「へぇ、詳しいんだねお嬢さん」
突然声を掛けられて後ろを振り向けば、黒のシルクハットに黒紋袴を着たツギハギな格好のいかにもな男がいつの間にか後ろにいた。
「……作者?」
「あっご明答。よくわかったね、お嬢さん」
男はシルクハットの下でにへらと笑った。背は高く180以上はありそうだ。
「わかるよ。だって、そんな変な格好をしていて急に女子に声を掛けられる人なんて展示品の作者ぐらいしかいない。それに、妙に言葉が古風だしね」
「あーなるほど、なるほど〜」
「それにお嬢さんって……まあ、年配の方はそう呼ぶかもしれないけど、私達、高校生だから」
「あらら、これは失礼」
男は握っている私と結愛の手をちらりと見ると、馴れ馴れしく背中を押した。
「お詫びに作品の説明を。四苦八苦をテーマに八体の日本人形を造ったのね。それで四苦は今貴方が言われた通りで、残りの四苦は──」
「ちょ、ちょっと!」
「なになになに!?」
強い力で背中を押される。まるで無理矢理展示室の中へと入れようとするかのように。結愛はすっかり怯えてしまったのか、目をキョロキョロとさせながらさらに手に力を込めてきた。絶対に離さないぞ、とでも言うように。
「
ドンッと背中を強く押されよろけそうになりながら付いた手は、ショーケースに触れていた。虚ろな表情をしている人形がこちらを睨んでいる。
パアンッと大きく掌が叩かれる音が聞こえた。
男は言った。
「さぁて。ようやく集まりました。運命か、はたまた偶然か、ここに集まった皆々様方、八名が今宵一晩限りの人形遣いとなって、賭けますは己の命、はい血と涙と汗を絞るに絞って死合う死合えと興じて頂きましょう。阿鼻叫喚の地獄絵図、まさに四苦八苦の有り様をここに咲かせて、あぁ頂戴〜」
男が歌舞伎の真似をしてふざけた見得を切った。冗談だろうと笑い飛ばしたい。でも、シルクハットの深い影に覆われた真っ黒な双眸は決して笑ってはいなかった。
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