魔法少女の休日

冬野原油

1話完結

雫の細い腕に増える傷を、あたしはずっと認めたくなかった。


「私が選んだ傘どうしたの」

「なくした。この雨じゃどっちにしろ意味ないし」

「うーん、そうかも?」

 通り過ぎて行く人たちの足元は大抵が膝のあたりまでびっしょり濡れている。不思議なもので、みんな揃って服の様子には無頓着なのにカバンはビニールをかけたり大事そうに胸に抱えたりしている。通勤時間だからだろうか、自分よりも仕事に使うPCや書類の方が重要なのかもしれない。あるいは服は乾かせば元通りだけど鞄の中身はそうはいかないとか。

「今度は合羽にしよっか。長靴があったほうがいいかも! せっかくだし、普段使いできるかわいいやつ」

「いらない」

「そっかぁ」

 穂波は頭から足先まで、多分このあたりにいる他の誰よりもびっしょり濡れている。髪の毛の先や指の先からぼたぼたと水滴が垂れているから、もはや雨に濡れるというよりも穂波自身から水が溢れ出しているように見える。雨粒が目に入って痛いだろうに瞬きもせず私のことをじっと見下ろす彼女の眉間にはいつもより多めに皺が刻まれている。そんなに力入れてたら頭痛がひどくなるからねと何度も何度も言っているのに昔からずっと直らない。私は穂波の頑固なところが好きで尊敬もしているけれど、自分のことはもっと大事にしてほしいと思う。

「今日も傘役ご苦労様です」

「それは雫も同じでしょ」

「じゃあ穂波も私のこと労ってよ」

 厭そうな顔で両手をコートのポケットにしまう。きっとそこそこ値の張るいいコートだろうに、水の重さですっかり形が崩れてしまっている。昔の穂波なら服の形が崩れるすぐに乾かせハンガーにかけろダメならクリーニングとうるさかったのにここ最近ずいぶん静かというか、何もかもが雑になっている。

「何度も言ってるけど」

「自分を大事にしろ、でしょ? わかってる、もう5億回聞いた」

「そんなに言ってなくない? これで29519回目だよ」

「そう」

 フーッと諦めたようなため息をついて目を逸らされた。穂波はどの角度から見ても様になる。学校内にはいわゆる「女子校の王子様」が何人かいるけれど、私としては穂波の険しい横顔が一番綺麗だと思う。じっと見ているとウザがられるからあまり見られない景色だ。

「そんなのよく数えてんね」

「そりゃそうに決まってるでしょ! 早く何とかしてここを出ないとだからね。記録は全部、取ってあるよ」

「忘れるのに?」

「忘れるからだよ」


 たぶん、もう、随分と前のことだと思う。穂波に初めて自分を大事にしてと言ったのが29518日前。それよりももっと前、もっともっとずっと前から、私たちはここに(たぶん)閉じ込められている。たぶん、というのは閉じ込められてしまったのか自分達からこの場所に足を踏み入れてしまったのかが分からないのだ。小さな住宅街の中の公園程度の広さの駅前広場。駅名は正方形をたくさん組み合わせたような、ギリギリ文字と認識できるような見たことのない何かで書かれており、改札から次々に人が出てくるのに電車が停まるのはおろか通り過ぎるのすら見たことがない。時計(たぶんあれは時計だと思う)はしっかり動いているものの景色に変化はなくて朝も夜もない。2時にだけ二度、がごん、がごんと鈍い音を立てる。そしてずっとひどい土砂降り。

 穂波と一緒に下校していたのは覚えてる。たしか昼休みの告白がうまくいったその日の夕方で、お互いに距離を測りかねていた。手を繋ごうか、繋いでよいものなのか、どちらから手を伸ばすべきなのか。たかが手を繋ぐだけのことによくもまあ、あんなに考えを巡らせたものだと思う。それで、少し俯いて歩いていたら「せっかくの恋人初日だってのに、つまんなそうな顔してる」と聞いたことないような甘い声が降ってきて、それで、私はそんなことない手を繋ごうかどうか迷っててって返して、それで、なんだそんなことかよと手を差し出されて、嬉しくって、その手を取ろうとして、それで、


 たぶんそれで、気が付いたら二人でここにいた。


 と、私は思っているのだけれどどうやら穂波の方はそうじゃないらしい。どこかからこの駅に私と一緒に来て改札前に立ち尽くし改札から出る人の波に押し出されて雨の下に晒されるという一連の流れを、本当に何回かは知らないけれど少なくとも29518回は繰り返している。穂波と同じくずぶ濡れになった私のコートのポケットには雨で随分とふやけているけれど頑張ればなんとか解読できる自分の日記が入っている。穂波曰く、どこかの時点からの私が数え始めたらしい。それが今日で29519日目になる。

「一日というか、24時間が経過しているのかどうかも怪しいけどね~」

「それももう聞き飽きた」

「って、穂波は言い飽きてるだろうに毎回言ってくれてるんだよね」

 ぐしゃぐしゃの日記を広げて笑いかけるとまた溜息をつかれる。約3万日、普通の人間の人生1周分近くをここで過ごしている。穂波はずぶ濡れになりながらも背筋を伸ばし、人の波に抗いつつ盾のように私を守ってくれている。駅から出た人が消えていくあのたった5m先。あそこから先に進んではいけないことを知っているのだ。雨の冷たさのおかげで、背に当たる体温が心地よく感じられる。日記によると私が代わるよと言ったこともあったようだけれど「こういうのは背の高い私がやるべきだ」と頑なに譲らなかった。穂波は王子様なんかじゃないのに。私のほうが、彼女を助けられる力を持っているのに。


 本当は、穂波がずっと泣いているのを私は知っている。けれどそれを隠すために駅舎から出てあえてずぶ濡れになっているのも知っている。だからずっと何も言わず、彼女に守られ続けている。












 本当はこのまま人の流れに沿って消えてしまえば、元に戻れることを知っている。なのにそうしないのはあたしのエゴだ。

 ここに来てすぐのころは、雫と一緒になって状況の分析にずいぶんと時間をかけた。人の流れに乗るのはマズいと判断して、なんとか流されないよう踏ん張った。彼らが消えて行く先が分からなかったから。それからしばらくして、たまに知り合いが改札の向こうからやって来るようになった。

 母が「大丈夫よ、このまま進んで!」と声をかける。

 父が「さあ帰ろう」と私の手を引く。

 友人が「早く帰ってきてよ!」と涙を流す。

 そして彼らはそのまま押し出され消えて行く。色んな知り合いが何度も来ては、言葉は様々に、だけど確実に「このまま進め」と私たちに促す。そのたびに雫はあたしの手をとって「行こう!」と言うけれど、あたしはそれを引き止める。


 はじめてのデートだったんだ。

 雫がつまらないんじゃなくて恥ずかしがって下を向いていることなんか分かってた。初めて手を繋いだんだ。もう絶対に離したくないと思った。いつも気付かないうちに勝手に死にかける。あたしの気も知らないで勝手にいなくなる。それで、いつか本当にあたしよりもずっと先に死んでしまって、だけどあたしは臆病だからそのあとも死ぬまで一人で生きるんだろう。

 それをようやく捕まえたんだ。細くて頼りなくて綺麗だったはずの腕が体が掌があたしの知らない速さで力強く傷だらけになるのが怖かった。それを、やっと、掴めたんだ。


 雨の下に出たのは雫の日記が破れていてもおかしくないと思わせるためだ。これまでに脱出を促された記録の部分はすべて千切った。聡い雫がそれに気付かないわけがない。それに、あたしと同じ条件下にいるはずなのに雫の記憶だけが途中からループするはずがない。はじめは同じ時間を共有していたのだから。おそらくここも元の世界も同じ時間が経っているのだろう、もう誰も「外へ出ろ」と言いに来なくなった。雫ははいつからか「あそこから先に行ったらどうなるか分からないし危険だよ。助けを待つしかないね」などと言い出すようになった。あたしのほうが背は高いから、雫が流されないように体温が伝わるくらいすぐ近くで支えていなければならない。ここにいる間だけ、雫は守られるべき人間で、あたしだけが雫を守るスーパーヒーローでいられる。


 雫はいつかまた「行こう!」と言うのだろうか。あたしはその時に「うん、行こうか」と答えることができるだろうか。それだけを何十年も考えながら、人の流れに逆らって立ち、迷惑そうな顔を向けられ、ずぶ濡れになりながら二人でずっとここにいる。

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