第7話THE BEST

 名古屋のプレーが荒くなってきた。

 よくわからないやつが途中出場してきてから、いきなり3点を返されたのだ。狼狽し、錯乱するのもわからなくもない。 


「リターン!」


 中盤よりやや前方で大吾はパスを出した相手に、ボールを戻すことを要求した。疲れている味方のパスは、わずかにずれた。それに触れようと大吾が足を延ばしたときに、業を煮やした敵に軸足を刈られ、激しく削られた。


――いってえ!


 思わず、その場に転び込む。

 メディカルスタッフが担架を掲げてやって来た。左足にやや違和感が残る。しかし、ここで退場するわけにはいかない。ルーキーである自分に、初年度に早々何度もチャンスがあるわけではない。しっかりと爪痕をつけて、向島大吾という存在をアピールしなければならないのだから。

 プロサッカー選手とは、個人事業主でもあるのだ。


 その敵にレッドカードが出される。スタジアム中に、名古屋サポのブーイングが鳴り響く。


 このまま敵が残れば、危ういところだった。デビュー戦で再起不能? とんでもない!


 メディカルスタッフが、ベンチに向かって手で〇を作って掲げる。そうだ、こんなところでいなくなるわけにはいかない。




 またもや、直接フリーキック。ただ、狙うには距離がありすぎる。だが、距離があるならあるだけ狙うためのキックの種類を大吾は持っている。


 本来のロングフリーキッカーである利根が、大吾に語り掛けた。


「ここからじゃ狙えんだろう。だが、大吾。やってみるか?」

 と優しい保護者のように尋ねた。

 反逆する被保護者の大吾は「大丈夫です」とまたもうなずく。

 利根は大吾のフリーキックの真骨頂・・・を、居残り練習を見ることによって知っている。


 大吾と利根は、身長差・年齢差を越えて勝利へ向かう道筋への同志となる。


 大吾はクリスティアーノ・ロナウドのように、ボールから五歩離れて仁王立ちをする。

 それを見ていたスタジアムの3万人の観衆は一斉に黙り込む。これから起こるであろうことを少し・・予測できたのだ。大吾はゆっくりと助走を開始する。そこから、四股を踏むように数歩下がる。


 スタジアム中が沈黙しだした。まるでこれから起こることを見届けるかのように……


 足を踏み出す。


 一歩……

 

 二歩……

 

 三歩……


 四歩……


 そして右足を振りかぶり、人差し指と中指の間で、ボールの中央よりやや下を振り抜いた。


 ボールは予測不可能な軌道をピッチの上に白い線で描きながら、ゴールへと高速で向かう。

 名古屋のゴールキーパー・河崎英五は反応し、体全体で防ぎに行った。しかしボールはナックルボールのように無慈悲に河崎をかわしてネットに突き刺さった。




 4-4!




 それもフリーキックによるハットトリック!


 新人としてはこれ以上ない、いや引退間近の者であってもこんな劇的な試合は夢にまで描くであろう展開を大吾はデビュー戦で飾った。


「あと1点!」

 大吾は叫ぶ。


――地球は今、自分を中心に廻っているんじゃないか……


 少なくとも大吾だけは傲慢にもそう感じ、スタジアムの雰囲気に酔いしれる。


 大吾は試合に途中参加したときの緊張を忘れ、普段通り、いやそれ以上に上手く行き過ぎなほどにプレーしている。

 フィジカルの弱さを補うボールコントロールとキック精度。これが大吾の武器であって、今のところ存分にその長所を見せつけられている。


『あの、38番なんなんだ!?』




※※※※※




「おまえ、帰って来いって!」


 すでにスタジアムを後にしたサポ仲間に、電話をかけている観客がいた。


「すげえことになってんだって!」


『いや、もうチケット捨てたし……』


「じゃあ、もう一度チケット買えばいいだけだろ!」




※※※※※




 後半は45分を周り、アディショナルタイム残り2分となった。


 アディショナル・タイムに入った。

 スコアは大吾のフリーキックによるハットトリックで、4-4の同点。


『どうやら、勝ち点1を持って帰れそうだ』


 向島博監督は、そう思った。




 大吾がまたもやボールを持つ。観客の目が一斉に向けられた。

 ゆったりとした動作から、急激にドリブル速度をあげる。チェンジ・オブ・ペース。

 

 スピードの最高速度自体はそれほど速くはない。だが、一瞬の加速力と、敏捷性アジリティ

 それはまた向島大吾というフットボーラーの良質な一面性であった。


 マークを引きはがした大吾は、兄の前方スペースへとスルーパスを出した。シュルシュルと芝との摩擦音が聴こえそうな鋭い軌道。


 真吾はそれを受け取ってワンタッチでシュートを打つ。河崎英五が元代表の意地を見せるかのように右手で弾き出し、左コーナーキックとなった。


 アディショナルタイムが終わろうとしている。

『このコーナーキックが終われば試合終了だろう』

『良い試合が見れた』

『まさか、フリーキックのハットトリックがJリーグで起きるなんて』

 引き分けだろうとだれもが思っていた。




 大吾は、試合の残り時間を気にせず、悠々とコーナーキックを蹴りにスポットに向かう。

 もはや若造の越権行為を誰も止めようとはしない。


「俺に合わせろ! 絶対上から叩き込んでやる!」

 左手をあげながら真吾がそう叫ぶ。

 残り30秒。これがおそらくラスト・ワンプレイになるであろう。




 一歩、二歩、三歩……


 大吾が左手を挙げる。

 助走を開始し、弓を引き絞るかのように、大吾は右足を振りかぶる。そして、ハンマーを振り下ろすかのようにボールに足をヒットさせた。


 助走を付けて右足で大吾が蹴ったコーナーキックは、雨上がりのピッチに虹を描いた。

 七色に光る弾道を残像として残したボールは、真吾の頭の上を越えて、ゴール右上隅のサイドネットに、そこが自分が元々居た場所であることを誇示するかのようにふてぶてしく収まった。


 スタジアムにいる全員が、それをスローモーションで見ていたかのように錯覚する。観客も、スタッフも、ピッチ内にいる選手でさえも。


 ただひとり、大吾だけがそのボールの残像を正確に追っていた。


 ボールは、すべてを飛び越えて、右サイドネットへと収まった。

 まるでそこにいるのが当然であるかのように。玉座に座った王様のように。


 テンテンとボールが跳ねて、主審がゴールを宣告する笛を鳴らす。そして、試合終了を告げる笛も同時に。





 オリンピックゴール!!!




 

 そしてゴールと共に試合終了の笛が吹かれた。




 5-4!




 岡山サポーターの奇声に近い喜声と、名古屋サポーターの断末魔のような、悲鳴と罵声による狂気の交響曲がスタジアム内に響き渡る。

 怒号と咆哮とも違う叫びが、スタジアム中をこだました。

 フィールドを漂う水蒸気が龍を形づくり、風に煽られ、半瞬ののち消えた。蜃気楼にしては観ていたものが、勘違いにしては気にするものが多かったかもしれない。


 それがひと段落すると、スタジアム中から拍手が巻き起こる。ホームとアウェイの垣根を越えた、破裂したかのような歓声。今度は敵も味方も関係ない。

 このサッカーというスポーツが好きなものであれば、だれもがこれに混じったであろう。


 大吾は交響曲のために用意されたスタジアムにて、ロックスターのように右拳を振り上げて揺蕩たゆたう。


 大吾の喉が咆哮をあげている。

 自分でも想像していなかった心の震え。

 魂が、自身の魂魄が揺さぶられているのだ。


 大吾はデビュー戦で30分の出場ながら4ゴール1アシストという凄まじい結果を残した。

 フリーキック4発は過去に例がない、史上初の出来事だった。


 完璧なまでのデビューがそこにはあった。





――向島大吾を見たか? 認識したか? 意識を改めたか? これがいつかバロンドールを獲得する日本人のプロ初試合だ……! サッカーに身長は関係ないと世界中に認めさせる男のデビューだ!



 雷鳴のような衝動が、大吾の五臓六腑に響き渡る。

 それが心を打ち震えさせ、勢いよく全身を循環する沸騰した血液が汗となって蒸発し、生きていることを実感させた。


 

 大吾は交響曲のために用意されたスタジアムにて、ロックスターのように右拳を振り上げて揺蕩たゆたう。


「大吾、よくやった!」

 監督である、父がそうねぎらう。

 おそらく次戦はベンチ外であろう。しかし大吾は確実に爪痕を残した。


――岡山が、Jリーグが、日本が、そして世界が。節穴じゃなければ、いつか必ず僕を必要とする! そのために、身長で苦しんだ時期を越えて僕はフットボールを諦めずに生きてきた。いや、死なずにきた。その証明をするフットボールのためだけに、今までの人生を費やしてきたんだ!


 大吾は握りしめた右拳から、親指を除いた4本の指を開いて掲げる。

 それが意味するのは、フリーキックゴールの4。


――僕を知ってくれ! 必要としてくれ!


 観客は『38番!』と声を枯らすほどに叫ぶ。


――38番なんて代名詞じゃあない、168cmの向島大吾という固有名詞をもっと知ってくれ!




『向島大吾! 名前覚えたけえのお!』

 ひとりの岡山コア・サポーターがスタンドからそう叫ぶ。


 大吾はそのサポーターの声がした方に向かって声をあげる。


 自由への咆哮


 大人になって、フットボールを生業にしても良いという証


 大吾はスタジアム中に響き渡る雄たけびを繰り出す。


 一度は身長によってフットボールを諦めかけた大吾にとって、それは最高の贅沢・至福の刻、または自分の生存意義を認識させたのであった。


 大吾は不遇であった時代の承認欲求を、この試合だけですべて満たそうとしてしまってもいた。

 自分を支えてくれたものへの感謝を念じ、そしてそれを飛び越えて自信が確信を越えて、凄まじい過信に陥った。


――サッカーを選んで、間違いではなかった


「僕が僕である理由がこれだ!」


 一度は身長によってフットボールを諦めかけた大吾にとって、それは最高の贅沢・至福の刻。または自分の生存意義を認識させたのだ。


 祝福に来たチームメートが大吾におぶさり、積み重なるようにして何重にも倒れこむ。

 小雨が舞っていたスタジアムはいつか止み、午後5時の夕空が大吾を祝福するかのように照らしている。

 仲間が上に重なり、彼はピッチに顔を埋める。

 今日起きたことが本当であったのか、芝生の匂いで確かめようとしたのだ。


 残酷なまでに追い求めていた、フットボールの香りがした。

 それはとても心地よくて、臓腑を駆けまわり、酩酊を引き起こし、これから先の人生を賭けるには充分な意義を感じたような気がした。


 気のせいでも、それはそれでいい。

 自分自身を鼓舞するには満足な、人間的な臭みすら感じた。




「小動物は人に好かれるからな」


 だれに聴こえるでもなく、真吾がそう呟く。







 試合終了直後、名古屋の元日本代表ゴールキーパー・河崎英五が開幕戦直後の会見をそのまま自身の引退会見場とすることがマスコミ各社に通達された。

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