ある男の危機一髪

よし ひろし

ある男の危機一髪

 インターホンのチャイムが鳴った。

 ドキッとする。


(誰だ、こんな時に――)


 訪問予定はない。宅配便か? なら居留守でも――思った時、


「賢治、いないの~」

 聡美――友人三人と三泊四日の旅行中の恋人の声。


(なんで、明日まで旅行のはずなのに――)


 どうするか、迷う。が、彼女は合鍵を持っている。居留守を使うわけにはいかない。

 すぐに玄関に向かい、鍵を開ける。


「あ、やっぱいた」

 笑顔の聡美。

「どうしたの、帰るの明日じゃなかった?」

「仁恵が急用で帰ることになって、ならみんな一緒に帰ろうかってことで」

「そう……」


 なんて間の悪い。どうする、今部屋に上げるわけにはいかない。


「お土産、持ってきたのよ。上がっていい?」

 玄関に入り、ドアを閉めながら言う。が、これ以上はまずい。

「あ、えっと、今ちょっと、部屋の片づけをしてるんだ。それで、散らかってるから」

「片付け?」

「ああ、ほら、今度引っ越しするだろ。だから荷物の整理をしようと思ってね」

 結婚を前提に聡美と同棲することにしていた。さすがにこのワンルームでは狭いので、引っ越しのため部屋を探している最中だった。

「ああ、そうなんだ。――手伝おうか?」

「いや、二人だと余計なことして進まなそうだからいいよ。それに疲れているだろう」

「うん、わかった。あ、でもトイレだけ貸して。駅から我慢してたんだ」

 言いながら手にした紙袋を床に置く。

「トイレ――」


 あそこはどうだった? さっき入った時、余計なものはなかったはず。

 大丈夫、そのはず。


 聡美には靴を脱ぐとすぐそこのトイレの扉を開け、入っていく。


 大丈夫、大丈夫、落ち着け――


「ふうぅ~」

 大きく息を吐き、心を落ち着かせる。

 そこでふと聡美の持ってきた紙袋に視線が向く。

(お土産か――わざわざ今日持ってこなくてもよかったのに)

 何を買ってきたのか、袋の中を覗こうとした時、気づく。

 床の上の、紙袋のすぐ横にある長い黒髪。


(まずい――)


 拾おうと腰をかがめる。そこに用を終えた聡美が出てきた。

「ありがとう。じゃあお土産だけ置いて帰るね」

 慌てて半身を上げる。と同時に黒髪を右足で踏みつけ、隠す。


 聡美に見つかればバレる。

 親友の深雪の髪の毛だと。

 この部屋に彼女が来たことはない、聡美の知る範囲で。


 聡美の荷物についていたんだと誤魔化せるかもしれない。でも、疑い、家探しでもされたら――

「どうしたの、なんか怖い顔してる」

「え、いや、そんなことないさ。ちょっと寝不足なだけ」

 言いながら右足で髪の毛を引き、全体がうまく隠れるようにする。


 大丈夫、これならバレない――


「ふ~ん、そう、ゲームでもしてたの」

「あ、ああ、ちょっとね」

「ほどほどにね。――じゃあ、これ、生菓子だから早く食べてね」

 聡美が紙袋から箱を取り出し、差し出す。

「ああ、わかった。――今日は悪かったな、わざわざ来てくれたのに」

「いいのよ、急に来たんだから。――じゃあ、また」

「ああ、また、気を付けて」

 チュッと軽くキスをして別れる。

 扉が閉まるのをしっかり確認して、ほーっと大きな息を吐きだす。

 そして、足の下の髪の毛を手に取る。


 艶のある長い黒髪。


「……よかった、これが見つからなくて」


 まさに危機一髪。もしのこの髪が見つかって、部屋に上がり込まれていたら――


 部屋に戻り、窓際のベッドへと歩む。そしてベッドを覆っていたシーツをめくる。


 目が合った、深雪と。

 カッと見開かれ、恨めし気に睨みつける双眸。

 しかし、その瞳に生気はない。


「もし見つかったら、聡美も殺さなければいけなかったな……」


 髪の毛一本で変わる運命。

 危機一髪――誰にとってそうだったのだろう?

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ある男の危機一髪 よし ひろし @dai_dai_kichi

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