夜の改札
@zawa-ryu
第1話
ふと右腕に目をやると時計は4時ちょうどを指していた。
「なんだ、まだ余裕があるな」
意外と時間が進んでいないことに安堵したが、よくよく見ると、秒針はピクリとも動いていない。
まさかと思いスマートフォンを取り出すと時刻は5時5分と表示されていた。
椅子ごとくるりと後ろを振り返ってみても、オフィスにある壁掛け時計は、やはり5時5分を示している。
「……よりによってこんな日に」
思わず舌打ちする。今日はついていない日なのだろうか。嫌な予感が頭をよぎり、だんだんと膨らむネガティヴな感情が胸の辺りを重くする。
いや、たまたまだ。たまたま今日に限って山のように仕事が舞い込み、腕時計の電池が切れた。ただそれだけのことだ。今日は俺にとって良い日になる。いや、良い日にするんだ。
人生の何万分の一日か知らないが、その中でも最高の一日に。
「戻りましたよっと」
隣のディスクに鞄をゴトッと置き、同僚が営業から戻ってきた。
「お疲れ」
パソコンから目を離さず労う。
同僚は俺の机に山積みになったファイルを見て怪訝な顔をした。
「おいおい、何だよそれ。今から片付けるのか?」
ファイルの束をパラパラとめくる。
「ああ、昼過ぎに課長から頼まれた」
「マジかよ。お前、今日は大事な日なんだろ?あの子と初めてのデートだって言ってたじゃないか」
「そうだけど、仕事だからな。さっさと片付けるよ」
「あの課長、絶対わかってて嫌がらせしてやがるな」
課長は独身貴族を謳歌している。と言えば聞こえはいいが、どう見ても清潔感のカケラも無い小太りのアラフィフは、部下に浮いた話がでると決まって集中的に仕事を与えた。まあはっきり言ってモテない嫌な奴だ。
「とにかく、早く終わらせないとな」
今は苛立つ暇さえ惜しい。そう思いながらも焦る指はミスタッチを繰り返し、仕事は一向に進まない。
「良かったら手伝うぜ。何冊か貸せよ」
気のいい同僚はそう言ってくれたが、甘えるわけにはいかない。
「お前だって今日は娘さんの誕生日なんだろ?早く帰ってやれよ。今から営業日報も書かなきゃいけないんだし」
同僚はディスクに飾られた写真立てに視線を向けた。1歳になる愛娘を大事そうに抱く奥さんが、幸せそうな笑顔で額に収まっている。
「そうだな。お互い早く終わらそう」
「ああ」
オフィスにはひたすらキーボードを叩く音が響く。
もう何度夢にみたことだろう。一日が過ぎるたびカレンダーにレ点をつけ、朝起きるとホワイトボードに書いた数字を一つずつ減らしカウントダウンする。27から始まった数字がやっとゼロになった今日、ようやく待ち焦がれた日がやってきた。
半年前、私は35歳になった。SNSに届くお祝いのメッセージやスタンプは年々少なくなり、ふと周りを見渡すと学生時代の友人はみな彼氏や家族に忙しくしている。今まで恋愛云々に全く無頓着だった私は、ポツンと一人取り残されていたことにようやく気づき、急に焦りだした。
最初は乗り気ではなかったが婚活サイトや街コンに登録し参加してみた。徐々に慣れてくると積極的に繰り出すようにはなったが、少しも状況は変わらなかった。
SNSでは毎日のように友人たちの幸せそうな投稿がアップされ、私はそれを開くたび、内容を見ずに機械的に「いいね」を押した。
同じような境遇の人をネットで検索してみても、「負け組」「売れ残り」「行き遅れ」コメント欄に並ぶ辛辣な言葉を見るたび私の心臓はキリキリと痛んだ。
この世界で自分が一番不幸だとは思わないけれど、時々はそれに近い思いで、独りソファーに寝転ぶ夜もあった。
そんな私にもようやく神様が微笑んでくれる日がやってきたのだ。
ひと月ほど前、私の好きだった一昔前の流行作家が十数年ぶりに新刊を出し、私は久しぶりに聞いたその名前をネットで検索して、たまたま見つけたファンサイトを覗いた。
想像以上にサイトは活気づいていて、ファンの感想は完全復活だの歴代最高傑作だの称賛の声にあふれていた。もちろん私もすでに購入して読み終えていたので、とても面白かったという素直な感想を書き込んだ。
やがて、サイト内でファンが交流会を開こうという事になった。いわゆるオフ会というやつだ。「出会い目的」という頭はその時にはなく、ただ純粋に共通の話題がある人たちと語らう事を楽しみに、当日指定されたカフェに出かけた。
そこで彼に出合った。
参加者は10人足らずだったろうか。初めはみんな大きなテーブルにひとかたまりで、一番好きな作品は何か?などたわいもない話で盛り上がっていたが、気づけばテーブルには私と彼の二人だけになっていた。みんなどこに行ってしまったのだろうと周りを見渡すと、それぞれ数人のグループになっている人もいれば、同性同士で話し込んでいる人もいる。
カップルになっているのは私たちだけという事に気づいた私は、目の前にいるハンサムな男性に、私のようなモノが軽々しく話しをしてはいけない気がしてきて、急に緊張して喋れなくなった。突然ロボットのようにぎこちない態度になった私を見て、彼は飲み物を取ってくると言うとサッと席を立ってしまった。
ああ、やってしまった。私はひどく落ち込んで俯いた。情けなさと惨めさで今にも頬をつたいそうになる涙を無理やり押し戻すと、鼻の奥がひりひりと痛んだ。
「お待たせ」
彼の声がして思わずハッと顔を上げる。彼は飲み物を両手に持って戻ってきてくれた。
「さっき甘めのアップルティーが好きだって言ってたから砂糖を大目にしてもらったよ」
そう笑うと彼は私の前にアップルティーを置いてくれた。
最初に自己紹介をした時の私の言葉を彼は覚えていてくれたのだ。
私は今度こそ泣きそうになった。彼に気づかれないようにハンカチでそっと目じりを拭うと精いっぱいの笑顔で「ありがとう」と伝えた。
彼も素敵な笑顔で「どういたしまして」と返してくれた。
それから私たちはまたしばらく笑い合った後、お互いの連絡先を交換し、ひと月後にまた会いましょうと約束して手を振った。
駅舎の窓から見えるこの景色が神様のスケッチブックならば、今日という日の筆さばきは殊更会心の出来映えだったろう。長年ここで勤めていると、数年に一度はこういう光景を目にすることがある。日没間近の十月の澄んだ空気の中を、それまで我が物顔で空を牛耳っていた太陽が、ゆっくりと降りてきた夜に締め出されるように海の淵に沈んでいく。その数分間だけが見せる赤、紺、黒が入り混じった空と海のコントラストは、ただひたすらに美しくも、どこかもの悲しい哀愁を漂わせている。
若い人たちが観れば、すぐにSNSだか何かに投稿されて、いわゆる「映えスポット」として人気を博すだろう。しかしホームや改札口を出た先には木々が生い茂り、残念ながらこの見事な色彩画を見る事は出来ない。日本海が一望できる、駅の三階にある駅員室からでしか目にすることのできないこの夕暮れ時の光景は、駅に勤務する我々の特権といっていいだろう。
夏は海水浴、冬は海の味覚を求めて観光客でごった返す当駅も、今は束の間のオフシーズンで利用客も少なく閑散としている。改札を出た先の待合室には、酷い時にはベンチに座りきれない人の群れで溢れかえるが、それも今はまばらだ。
「十月、か」
齢をとると日が経つのが年々早くなるという感覚ですらとうに過ぎて、気がつけば年が明け、また気がつけば年が暮れる。還暦も近くなると、ただその繰り返しだ。
娘も息子も、どこで何をしているのか、連絡一つ寄こさないばかりか、家にも寄り付かないので長い事顔もみていない。まあ、どこかで忙しく暮らしているならそれでいい。
私は薄情だが、あいつが生きていたらきっと口やかましく叱ったことだろう。
「あんたいったいなにしとるんよ!電話ひとつ寄こさんで!」
そんな声が聞けなくなって、もう七年が経とうとしていた。
待ち合わせの時間は七時。昼過ぎからソワソワと落ち着けなかった私は、とうとうたまりかねて三時に家を出た。駅に向かう途中、私は何度もビルの窓ガラスに映る自分の姿をチェックして、不安になったり開き直ったりしていた。
彼とメールをしていくうちに、好きな作家以外にも私たちは色々と共通点があり、それを見つけては一人喜んでいた。年齢は私と同じ35歳。血液型も同じA型。好きな色は深緑。普段は推理小説をよく読む。クラシックはピアノ曲が好き。生魚が苦手。アルコールはたしなむ程度。タバコは嫌い。子供のころ絵画教室に通っていた。 そして、お互いの最寄駅が同じ。
普段仕事で忙しい彼は、なかなか返信もままならないようだったが、時間が空いた時には必ず返事をくれた。私はいつも彼からの返信を今か今かとスマホを握りしめて待っていた。
一度だけ、彼が私の名前を打ち間違えたことがあった。私がハテ?と思ってしばらくスマホの画面を眺めていたら、その時はすぐにゴメン!とメールがきた。どうやらちょうど妹さんとやり取りをしていたらしく、混同してしまったようだった。私はすぐに「おっちょこちょいなところも素敵だよ」と送ったが、その日メールが返ってくることは無かった。
十月の第三金曜日なら時間が取れそうだと彼からメールが来た時、私はすぐにカレンダーに大きく赤色のサインペンで丸印をつけた。ヘアサロンを予約し、デパートにある普段は気遅れして入れないようなお店で、店員に勧められるままにデート用の服を買った。
待ち合わせ場所の改札口に着いたのは、まだ四時前だった。あと三時間もあるけど、あと三時間経てば彼に会える。いや、忙しい彼のことだから、少しぐらい遅くなるかもしれない。それでもいい。少し遅れようが、一時間遅れようが、彼にとって私ができることは待つことだけだ。
私は何時間でも、いつまででも待つつもりだった。
定時はとうに過ぎて、時刻は六時半。
いつの間にか席を立っていた同僚が戻ってきて、俺の肩に手を置いた。
「お疲れ。コーヒーでも飲むか?」
「いや、いい」
「そうか。俺は上がらせてもらうが、あまり無理するなよ」
また月曜にと言って、同僚は鞄を掴むとドアに向かった。
「ふう」
軽く息を吐き目を閉じる。
肩を回し、伸びをすると暖かい物が腕に触れ、見ると机の上に缶コーヒーが置かれていた。
「サンキューな」
首を伸ばして声をかける。
閉まりかけたドアの隙間から同僚が片手をあげるのが見えた。
約束の七時を過ぎ、オフィスの時計は八時を少し回った。彼女に仕事が手間取っていることをメールしてから早くも1時間が過ぎている。
「了解。気にしないで」そう返信してくれた彼女の事を思うと胸が押しつぶされそうになる。
出会ってもうすぐ一カ月。メールでやり取りをするうちに、お互いのことも少しはわかってきたつもりだ。運命なんて言葉は信じてはいないが、あの日、たまたま参加したイベントで彼女に出会えたことは神様に感謝している。俺ももう気づけば三十代半ば。今まで生きてきて、振り返ってみても女性に縁遠い人生だった。
―ラストチャンスー
冗談ではなくそう思う。このチャンスを逃せば、彼女のような人とは一生巡り会えないだろう。
今日こそ掴み取ってみせる。そう意気込んで積み上がったファイルに目をやる。
あと少し、あと少しだ。俺はもう一度彼女にメールを送った。
しかし、しばらく待ってみても彼女からの返信は届かなかった。
駅に来る人々というのは、何も電車を利用する人だけではない。帰省する子供を今か今かと待つ親。旅立つ旦那を見送る幼子を連れた若い妻。
この改札口で人生の大切な瞬間を迎える人たち。それはドラマや映画のラストシーンのようであり、悲喜こもごも様々な結末を迎える。
だが、現実は続いていく。今日が終われば明日。明日が終われば明後日。次の日も、その次の日も、改札口を通ってそれぞれの人生は続いていく。
プラットホームに本日最終の列車が到着し、短いアナウンスの後、すぐに次の駅に向かって走り出した。
最終列車から飛び出してきた男性は、勢いそのままに改札を通り抜けると、辺りをきょろきょろと見回した。長い間ベンチに座っていた女性が改札口まで来て、背伸びをしながら同じようにきょろきょろとホームを見回している。
二人は目が合うと、お互いハッとしたような表情になったが、どうやら人違いだとわかると、再び距離をあけて離れていった。
男性は構内を、速足でうろうろと歩き回り、駅を出るとロータリーの辺りで、なおもきょろきょろと誰かを探しているようだった。
彼女はホームから、もう誰も降りてこないのがわかると、その場に呆然と立ち尽くしていた。しばらくの間スマートフォンを胸に抱えて俯いていたが、その肩はかすかに震えているように見えた。やがて俯いたまま駅から出ると、彼女はとぼとぼと夜の中に消えて行った。
入れ替わるように駅に戻ってきた彼は、ベンチに力尽きたように腰掛けると、髪をくしゃくしゃに掻きあげてうなだれた。「本日の運行は終了いたしました」私がそう書かれた看板を改札口にぶら下げると、充血した目で睨むようにそれを見つめ、やがてまたふらふらとロータリーに出て、タクシーに手をあげた。
お互い、待ち人には会えなかったのだろう。
引継ぎを済ますと、明かりが消され無人になった改札口を後ろにして、私も一人、誰も待つことのない我が家にと向かう。
浜から吹いてきた風が、私の薄いコートをバタバタと揺らした。
夜の改札 @zawa-ryu
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