電車が止まった日

七三公平

第1話 電車が止まった日

 それは、初めて訪れた駅ではなかった。普段、私が通勤の乗り換えで使用している駅で、仕事帰りにトイレに行きたくなり、いったん階段を上がって用を済ませた。そして、どういうわけか私は下りる階段を間違えた。六番線まである地下鉄の駅で、私が階段を下りた先の五番線、六番線のホームからは、私がいつも立っている一番線のホームが見えた。


 飾りっ気のない無機質な空間が、いくつかの線路と一つのホームを挟んで、すーっと向こう側まで見通せた。やたらと広い様でいて、天井が上から迫っている様で、埃臭い空気が冷たかった。ある時間帯になると、多くの人がホームに立って電車を待つ駅である。


 手を叩くと良い音で響きそうだが、寂しげに見える光景だった。私がいるホームに人が三人と、向こうのホームにも数人の人たちが、スマホを片手に立っていたり、設置されたベンチに座っていたり、電車が来るのを静かに待っている。話し声は、どこからも聞こえてこない。


 私も、一番近くのベンチに座った。六番線の方を向いているから、一本の線路の向こうは、すぐ壁である。私が乗りたい電車は、このホームには入って来ない。五番線に電車が入って来た。他にも電車が入って来た気配がしているが、何番線かは分からない。私は、どことも分からない虚空に目を向けていた。


 そのうちに、六番線にも電車が到着するが、当然ながら私は電車のドアが開いて閉じるのを、見ているだけだった。乗りはしない。私の前を、何人もの人が通り過ぎて行く。電車のニオイなのか何なのか、何度も嗅いだことがあるニオイが鼻先を掠める。生きた街のニオイである。


 いつも利用している駅のはずなのに、妙な感覚がしていた。何もない……理由なんて何も思い付かなかったが、私の中で電車が止まった。私が乗るべき電車は、この先ずっと来ないような気がした。また、周囲は静かになっていた。


 私は、この駅のホームでイケメンを見かけた時のことを、思い出していた。それは、私好みの爽やかなイケメンだった。その人を見かけたのは、それ一度きりだ。また、会えないかなと思っていたが、どこに行ってしまったのか、会うことは出来ていない。


 疲れたなと、思った。そうして気が緩んだのと同時に、私のお尻から空気が漏れた。軽快な高い音が二秒ほど続いた。――私だけ、だろうか? その音が、良い感じで周囲に響いた様に、耳に届いてきた。


 空気を包むような間が一瞬あった後、一番近くにいた人が、クスッと笑った。かと思ったら、笑いを堪えきれなかったのか、ゲラゲラと笑い始めた。二番目に近くにいた人も、釣られてお腹を抱えて笑い始めている様子である。


 私は、急に恥ずかしくなって、ベンチから立ち上がり、階段を駆け上がった。そして、再びトイレへと駆け込んだ。さっき、トイレに行ったばかりだが、まだお腹の調子が戻った感覚はなかった。


 冷たい便座が、身に染みる。私は、天井を見上げた。私の中にも、不意に笑いが込み上げてきて、一人で笑った。お腹の調子は良くないし、会社や日々の生活に退屈さは覚えているけれど、こんなことで気持ちが揺さぶられて、ホッとして少し心が軽くなったりするんだなと、いろんなことがバカらしくなった。


 一つ、大きく息を吐いた。目を瞑ると、電車がホームに入って来た音が、聞こえてくる。私が乗るべき電車は、私が自由に決めればいい。そんな風に思って、私は冷たい便座を、次の人のためにしばらく温めていた。


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