迫りくる
イツミキトテカ
第1話
思えば朝からおかしかったのだ。なんだか嫌な、不愉快な感じ。はっきり何とは説明できない違和。
しかし、今日はどうしても外せない会議があった。
初めて任されたプロジェクトリーダー。その予算計画を経営陣に説明する大事な日。これが無事に通らなければ、メンバーのこれまでの努力が振り出しに戻ってしまう。終電で帰ったあの日々が無駄になってしまう。
だから、ちょっとした違和感になんて構っていられなかった。本当に些細なものだったから、その感覚だってすぐに忘れてしまった。
会議はかなり難航した。
「こんなに費用がかかるのか」
だから、3年後には採算が取れると説明している。ご丁寧にグラフまでつけて。
「うちにリスクはないんだろうね」
この世にリスクが0の商売なんかない。
しかし、笑顔で「ない」と返答する。経営陣はその言葉しか聞きたくない。何かあったときのスケープゴートは私だ。
スーツを着て椅子に座っているだけで年収いくら貰っているのだろう。コネでのし上がった奴に限ってこれまたくだらない質問をする。
彼らの仕事やってます感をめいいっぱい高め、会議はどうにか軟着陸した。就業時間は過ぎていた。
プロジェクトチームで軽く呑んだ。第一関門突破と新たな船出のお祝いだ。軽くのつもりだったが、そこそこの時間になっていた。
まぁいい。明日は休日だ。久しぶりにゆっくり休める。そう思い、ほろ酔い気分のまま、帰り道を歩いていた、その時だった。
グオォォ…
それは、まるで獣の唸り声のようだった。
思わず後ろを振り返る。我ながら、どうして後ろを振り返ろうと思ったのか分からない。だけど、とっさに後ろを確認したくなったのだ。
「ふぅ…」
後ろには何も無かった。灯りのついた街灯がぽつぽつと歩いてきた道を照らしている。人っ子一人、猫一匹見当たらない寂れた夜道は、いつもと何も変わらない。
「ふぅ…はぁ…」
突然襲ってきた寒気に身震いした。マフラーを整え直し、我が家へ急ぐ。
グルルルゥ…
それは、暗雲の中を轟く雷鳴のようでもあった。額から吹き出た冷や汗が首筋を伝い、背中を冷やした。歩いても歩いてもそれはすぐそばにいる。
(「早く帰ろう…!」)
ここから家までせいぜい15分。走れば当然なお早い。頭ではそう分かっているのに、足が思うように動かない。走るなんてとても無理で、競歩が限界。
カンカンカン…
目の前で、私鉄の踏切が閉まっていく。あと少し、あと少しなのに、足が、体が重たくて、どうしても走ることが出来ない。
踏切は目の前で無情に閉まりきった。
闇夜に浮かぶ警報灯の赤が薄気味悪い。呼吸はだんだん浅くなっていった。
「早く…!」
早くしないと追いつかれる。早く、早くっ!
なかなかやってこない電車に苛立った。
それなら踏切を閉めるのはもう少しあとでも良かっただろう!
立ち止まっているのが怖くてぐるぐるぐるぐる意味なく歩く。
気を紛らわすため、頭に情報をいれることにした。なんだっていい。気が紛れるなら。
円周率3.14159…もう分からない。
「踏切注意」、「無理な横断はおやめください」、「くぐるな危ない」、「線路に立ち入らないでください」。看板の文字という文字を読み尽くす。
ふと視線を下に向けると、遮断器の付け根に花束が添えてあった。白い紙で包まれた菊の花。花の真新しさがその死の新しさを誇張していた。
ゴオゥッ!
風を切り裂く音とともに電車が駆け抜けていった。はっと我にかえる。踏切が上がりきらぬうちに、足早に渡った。
電車の通過を待つ間、私にはある名案が浮かんでいた。いつもとは違う道。家までは遠回りになるが、途中にコンビニがあるのを思い出した。
唸り声は遠のいていた。チャンスは今だ。民家の心許ない明かりの中に、一際目立つコンビニの看板が見えてくる。もう少し。もう少し。絶望の中わずかな希望が見えてくる。
自動ドアの反応の遅れに苛立ちながら、ようやくコンビニに体を滑り込ませた。ざっと見渡すと、店内には列ができるほど多くの人がいた。
こんな時間に珍しい。近くで何かイベントでもあったのだろうか。
そのまま中に入ろうとした瞬間、一際大きな唸り声がそぐそばで響いた。
(「だめだ…逃げられない…追いつかれる…」)
額には脂汗が滲み、胃の奥から吐き気が込み上げてきた。口元を手で押さえながら、転げるようにその場をあとにする。
それからの私は無我夢中で走った。口で息をし、鼻水を垂らし、半狂乱になりながら家まで走った。
(「神様、仏様、お願いします。私がなにか恨まれるようなことをしたでしょうか!」)
走れば走るほど唸り声は迫ってきた。まるで逃げるものを追うハンターのように。捕まってしまえばおしまいだ。それ即ち死を意味する。
(「神様、仏様、お願いします。もう何も望みません。もう文句も言いません」)
ようやくマンションが見えてきた。嬉しさのあまり涎が溢れたが、マフラーになすりつけた。エレベーターボタンを連打する。
「神様、仏様、お願いします。早く! 早く!」
気づけば、声に出していた。願いが通じたのかすぐにエレベーターはやってきた。4階を連打し、壁によりかかる。頭を下に向け、肩で息をする。立っているのもやっとだ。
「神様、仏様…」
グルルル…グオォォ…グギュルル…
震える手で家の鍵を探す。いつでも挿せるように手に持っておく。エレベーターが開いた瞬間、外に飛び出した。途中誰かとぶつかり舌打ちされたが、それどころではない。
カチカチカチッ
震える手で鍵穴に鍵を挿す。ガチャリと鍵が開き、私は靴も脱がぬまま我が家に駆け込んだ。我が家の、トイレに。
「間に合った…」
あわや脱糞騒ぎになるところだった。もう迫りくるものはいない。社会的な死は免れた。困難を乗り越えたからか、すっきりしたからか、涙が一筋頬を伝った。
もうここには用はない。用は足した。さぁ拭こう。そう思い手を伸ばした先で、私は目を疑った。
「紙がない…」
迫りくる イツミキトテカ @itsumiki
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