「美騎爾の示し」(その8)

 雹華が長姉、雪梅の部屋を覗いてみると、いつものように鞘に収まった愛剣を前に瞑想していた。


 「おいおい雪姉、まさか婆さんになるまでこんな生活を続ける積もりか」 


 普段の彼女であれば庭先で木剣を振るっている筈なのだが、王朝の瓦解以降はすっかりこの様子だ。


 剣術教授方という職位を失ったことを悲観しているのではない。


 少なくともそんな「言葉」に囚われる性格でないことは雹華はよく知っている。こういう時、雪梅は琴などを奏でることがあるのだが、その音色も同じ時期から聴かなくなった。常に正しい調律を保って起きながら、あの傍らにある琴は一度も鳴ることはない。


 鞘におさまる剣が、彼女そのものに見える。琴の弦が彼女を引き止める蜘蛛の糸のように見える。


 雹華はその様子を見ていてもどかしくなる。雪梅は自分と違って勝手気ままなところがない判っているが、なにゆえ自分を縛り付けるのかが理解できない。仮にも剣の鳳と呼ばれるのならば、いつまで枝葉に留まりつづけるのだろうか。


 「雪姉、入ってもいいか?」


 そんなことを考えながら、雹華はいつもと変わらない無神経かつ豪快な調子で言った。これ以上、雪梅の心に無用な重荷を増やしたくないという彼女なりの、まったく不器用な心遣いであった。


 「ああ、お帰り雹華。丈夫そうで何よりだ」


 そんな雹華が相変わらずの調子だとわかって雪梅は安堵した。今回の喧嘩修業の原因は、亡き母に関わるところもあったため少々心配していたのだ。


 「また考え事か雪姉、頭を使ってばかりだと上に伸びないぞ」


 ああ本当に相変わらずだ。雪梅は小柄な自分をからかうところなどは、まさにいつもの調子に見えた。


 「お前は奔放だから、どこもかしこも成長しているな」


 そんな風にいいながら雪梅は雹華の豊満な体つきをからかった。普段、武辺者を気取る雹華は、こういうところを褒められると急に年相応の乙女らしく恥じらう。まったくかわいい妹だ。


 「一体何を考えてたんだよ」

 

 そんなからかいのお返しに、雹華が雪梅にぱっと飛びついてじゃれようとすると、ぱっと身を躱す。普通の姉妹であれば、おそらく何でもない光景だろうが、どうもこの二人の身のこなしは傍目に見てただ者ではない。例えばそれは、得物が手元にあれば立派な立ち合いの一瞬のようにさえ見えた。


 雹華が「よし!」と雪梅を捕まえると、久しぶりに感じる姉の温もりからほお擦りしてしまった。こんな小さくてで暖かい、鳳どころか兎のような乙女が剣聖とは、身内とは言えなんだか不思議な可笑しさが込み上げて来る。


 雪梅としては、雹華の豊満な胸部に圧迫されて


 「雹華、その考え事なんだがな。剣を捨てようと決めたんだ」


 唐突な一言に、雹華はじゃれつく手を止めた。考えたどころか、剣を捨てることを決めたと確かに我が姉は言った。


 「どうして?」


 雹華にそれ以外の言葉が見つからない。 


 「この先に、どうやっても進めない」

 「この先?」


 先に進めない。進む必要があるのだろうかと雹華は思う。雹華は喧嘩修業では連戦連勝。たまに現れる腕試しの連中にも遅れを取ったことがない。だが、この十七年の生涯で経験した敗北がある。それはいずれも、雪梅と試合したものだ。


 「雹華、私は強いか?」


 はて、自分の姉は瞑想に耽る余り記憶が欠落したのかと思えるようなことを言い出した。強い、弱いという単純な領域にこの剣士は分類されない。


 雹華は剣術に興味は示さなかったが、腕に覚えありという人間と喧嘩修業の中で何度も対決した。時には、得意の方天戟ではなく刀剣での一騎打ちになることもあった。しかし、天賦の戦闘の才能で圧倒することができた。そして、戦った相手から技を盗んで独学で剣術を身につけて行ったのだ。


 なぜ剣術を姉の雪梅に教わらなかったというと理由は明白、雪梅の技からは何一つ盗めないからだった。彼女が振るう剣は技の先にある技、人々が「深奥」と呼ぶそこに彼女は立っている。それも龍虎が生まれ落ちたときからそうであるように、生まれながらにしてその領域に立つ人間だ。


 「当たり前だろ雪姉、この大陸じゃ既に相手になる剣士がいないじゃないか」

 「雹華、


 これだ。いつものアレが始まった。雪梅は例えば父の文延が時折見せるように、めんどくさい問答を始めることがある。

 正しくは、哲学とか思考の迷路というべきだろうが、雹華のような単純明快な人間にとって、それはめんどくさいものでしかない。


 例えば二番目の姉、香月はその思考の迷路を芸術という一面に昇華することができる。それは、この単純明快な雹華も薄々理解している。だが父の文延やこの雪梅くらいになって来ると、その代替手段では解決できないほどに、複雑な迷宮に捕われてしまう。


 よもやこの姉を自分の家出、もとい喧嘩修業へ連れていったところでそれは解決しないだろう。ならば父同様に漬物石にでもするか。うーむと頭をかきつつ、雹華は梅雪への用件でそれが解決できると閃いた。


 「それなら、扶桑之國で試して来たらいいよ」

 「何?」

 「そうだ。大陸にいなくとも、海の外にはいるだろう。きっと」


 雹華のいうことはもっともだと雪梅は思ったが、どうも気になった。それはその言い方が、まるで近々自分が渡航するような雰囲気だったからだ。旧王朝に関わった人間が、おいそれと海外渡航できるほど政情は単純ではない。


 「扶桑之國、そう言ったのか?」


 雪梅が聞き返すと雹華の表情から用向きが判った。何やら、自分が扶桑之國に渡る話が進んでいるようだ。しかし、目的は一体何だろうか。よもや亡命ということではあるまい。私一人を逃したところで、王朝がどうなるわけでもない。


 「なんでも、父上は向こうの陸軍学校に入れたいらしいぞ」

 「まさか、私は軍人になる積もりはない」


 雪梅はかつて王朝の陸軍へ出仕することを拒んでいる。自分の剣は、少なくとも戦争のために磨いた技ではなく、護りとなるべく磨いたものだという自負があるからだ。それは自らの名前が顕している。雪が降っても梅が無ければ、梅が咲いていても雪がなければ詩情を催すことも詠むこともできない。


 武術は畢竟暴力でしかない。ならば、その暴力を正しくあろうとすることが「武」であり、その理と同じであった。


 この毎度の如く語られるめんどくさい話に、雹華はまたうーむと頭を掻く。何となく、父の文延と司馬総裁の言っていたことと重なるような、重ならないようなと考える。


 「とにかく父上と話し合ってほしい」

 「なんだ、相変わらず雹華らしいな。ところで、父上は誰と話をしている?」

 「ああ、それなんだが・・・。見たら驚くだろうから、早く父上のところに行ってやってくれよ」


 見たら驚く。はて、誰だろうと雪梅は思う。王宮に出入りしていたころは、皇帝や皇后にも謁見するほどなので、それ以上の存在ではないだろうと考えた。まさか雹華が早合点して家出するきかっけとなった再婚相手ということはないだろうなと邪推した。


 「あと、父上は漬物石になるそうだ」

 「漬物石?」


 これは全く意味がわからなかった。近頃、歳のせいか塩分には気をつけろと主治医にこの間言われていたが、何かまた忠告を受けたのだろうか。虎将軍、王朝最後の名将と名高いが、アレで神経が細いところがあり血圧に病があるのだ。


 「わかった。一応は話を聞いてこよう」


 この答えのときは、雪梅が「はい」と言わないときだと雹華は思った。例えば父が持ってきた縁談のときも、こんなことを言っていた。だが、司馬総裁の同席とあっては流石の雪梅も承諾せざるをえないだろうと確信していた。


 「すると雪姉とは、秋頃まで会えないのか」


 今まで自分が喧嘩修業に出て行くこときも、姉と離れてはいたが必ずここに居てくれるということから不安はなかった。しかし、今度は扶桑之國へそんな彼女が行ってしまうのだ。


 政情が変われば、帰国できないということもあるかもしれない。ここで初めて、雹華は待たされる側の人間の気持ちがわかった気がした。豪傑の気性があるとは言え、十七の乙女が感傷的にならないわけがなかった。


 そう考えると急に気持ちがもやもやしてきた。そして雪梅が部屋を去った後、その気持ちを晴らす訳ではないが、そっと彼女の琴に触れてみた。


 ただ虚しく弦が空気を震わせる。その音色は、雹華の心の靄を一層深めるばかりであった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る