ゴリラとパピーとブラックコーヒー


 

 大人になったと、そう感じる瞬間があっただろうか?


 ――アタシの場合は、コーヒーに砂糖を淹れなくなった時が、そうだったと思う。





   ●



 よう、ゴリラ女だ。


 つってもガサツだからって訳じゃねぇぞ? いやガサツなのは否定しねぇが、ゴリラなのは見た目な、見た目。


 ――変異って奴だ。


 アタシは小学校の低学年にエーテル大乱散が直撃した世代でな、大体クラスの半分くらいは変異したんだが、アタシの場合は両腕がゴリラになった。


 小学生くらいってのは純真な分残酷だからな、女子でゴリラなんてなったらそりゃもう男子は『ゴリラ女』とか言ってからかってくるわけでな。特にトラ系の変異した男子が悪ガキで、最初は無視してたんだが、あんまりにも目の前に出て来てゴリラゴリラ言うもんだから、足掴んで振り回してやってなぁ。


 変異してから初めて全力出したんだが、凄いなゴリラ。低学年にしちゃ大柄だったトラ男子をタオルみたいに振り回せてさ、ちょっと楽しくなってブンブンしてたら足が曲がっちゃいけない方向曲がってて焦った。


 とは言えそいつが変異してから文字通り虎になって暴れて問題起こしてたのは事実でさ、親とかも困ってたみたいだから私はお咎め無し。ただ、担任の先生が朝礼で、



「良いですか、ゴリラは基本的におとなしく優しい動物ですが、怒ればとても強い力を持っています、気をつけましょうね?」



 違うんです先生、ゴリラは怒ってたわけじゃ無くて、ただ頑丈なおもちゃで遊んでただけなんです。


 って言うかそこはアタシのフォローしろよ先生、いや、当時のアタシ、ふふんって得意気になってた気がするけど、多分その頃からゴリラであることにコンプレックスもクソも無かったんだろうな、ナチュラルボーンゴリラかよアタシ、やるじゃん。


 まあいいや、良く無いか? ともあれそんな事があれば男子もアタシにゃ一目置くわけで、女子からはパワー担当として頼りにされるようになる。利用されてる面もあるんだろうが、ゴリラキニシナイ、ゴリラは森の紳士だからな、あれ、賢者だっけか?


 調べて見たらどっちでも合ってるっぽい。ただ、賢者だとオランウータンやフクロウなんかも言われてるみたいだな、つまりゴリラはフクロウだ、残念だが飛べはしないがフクロウは虎掴んで振り回せねぇからな、ゴリラの方が上だ。



 何が言いてぇかっつーと、アタシはゴリラを気に入ってる訳だ。



 ガチの戦闘系種族に変異した奴みたいな例外除けば、エーテル適応系での模擬戦じゃ基本負けなしでな。――ああいや、高校での戦闘技術の教官には一度も勝てなかったっけ。背が低くて胸のデカイ、可愛い感じな人だったんだが、銃使いの筈なのに近接戦も超強くてな、本気で殴り掛かってんのにかすりもしない上に、気付いたら鼻先に銃口向いてんだぜ? バケモンだよアレ。


 だけどそんな訳だったから、自分は強いけど、普通なんだって、安心したんだよな。


 中学まではアタシに喧嘩で勝てるのって、男子でも竜とか、虫系の全身変異系とか、極少数でさ。――正直、進路も巨大植物探索の戦闘従事者とか、そっち系しかないんじゃねぇかって、自惚れ含みでそう思ってたんだよ。


 でも違った。世界にゃもっと強い化物みたいな連中がたくさんいて、アタシなんて全然普通な存在なんだって気付かされたんだ。


 その教官も、『確かにアンタは力強いっすけど、性格的に戦闘よりも人助けの方が向いてる感じっすから、進路に腕力活かすにしても、視野絞らない方がいいっすよ?』って言ってくれてな。ありがとう教官、でも笑いながらクラス全員相手に無双してたアンタに比べたら誰も戦闘向いてないと思うぞ。


 つーかあの教官、この前数年ぶりに会っても髪以外見た目変わってなかったんだが本当に人間か? なんか嫁と旦那が居るみたいな話も聞いた気がするし、うーん、謎だ。


 まあいいや、そんな訳でアタシは今、戦闘系にはならずに普通に就職してる。


 消防士、それもレスキュー隊って奴だ。


 腕の関係で室内とか狭い所はちょっと厳しいんだが、その分馬力があるからな、大人二人分くらいの幅で、大型重機並みのパワーが発揮できるアタシみたいな変異持ちはかなり相性いいんだよな。


 おまけにアタシはゴリラだ、ロープの上り下りはお手のモノだし、なんなら外壁壊して良いなら指食い込ませて直接壁を登れる位にはゴリラだ、あ? もうゴリラ超えてるだろって? ――いいか、ゴリラ(概念)だ。



   ●

 


 そんなゴリラパワーで人助けしつつ早数年、気付けばアタシも二十六になってる訳で、やれ同級生は結婚式だのなんだの挙げてるが、生憎こちとら独り身よ。


 女友達は職場にいい人いないの? って言ってくるけどよ、レスキュー隊って通常業務もハードな上に訓練が滅茶苦茶多くてな、同僚と結婚なんてしてみろ、お互いへとへとで家の事全部放置になるっつーの。

 今まで経験した中で印象的なのだと、配属初年度の頃、デカいビル火災で逃げ遅れた子供を屋上から壁伝って窓から飛び込んで救助したのだとか、災害救助の帰り道、バスとトラックの接触事故に丁度出くわしてノンストップでお仕事継続したりだとかな。――倒れたバス持ち上げて乗客下ろして、道路わきの川に半分落っこちたトラック引き上げて……アレ? これレスキュー隊って言うよりただの重機じゃ無いかアタシ?


 まあいい、ゴリラチカラツヨイ コマカイコトキニシナイ


 ――そんな感じで重機はメンテナンスがてら車庫の自宅に帰宅していくわけだ。

 職場に寝泊まり出来る部屋もあるし、女子部屋もあるんだが、明日は非番なんで流石に家に帰りたい。昨日の緊急出動でゴミ出し忘れたからな……プラスチックの日で良かった……。


 と、自宅までのちょっとした帰り道、ふと前を見れば、何やら道の隅で蹲っている姿が一つ。


 少年だ。制服を見るに恐らく自分の母校の高校生、犬系の変異持ちだろう、小型犬の様な耳と尻尾を生やした小柄な少年が、道路わきの側溝のグレーチング……金属製の格子状のアレな? に手を当てて蹲っていた。


 ……ああ、何か落としたかな?



「ん……ぐ………!!」



 何やら気合を入れて踏ん張っているが、見た所グレーチングはピクリともしていない。アレ、古くなってたりすると淵との隙間に入った土が固まって酷く硬くなるからな、本体や側溝自体も車の行き来で歪んだりするし、外すには力とコツがいる。


 子犬の少年も頑張ってはいるが、あの様子じゃバールでも持って来ないと動かないだろう。……しょうがねぇなぁ。


 

「おい、ちょっと退きなパピーボーイ」


「え!?」



 驚きの声を上げる少年を無視して、自分はグレーチングに右手を当てる。自分の手のサイズだと本来指を入れる隙間に指が入らないんだが、手に嵌めているグローブには重力制御の術式が掛けてあるので、それでグレーチングと指先を固定。


 このままゴリラパワーで持ち上げてもいいが、古くて癒着がきついと側溝側が壊れる事もある。故に軽く一度押し込み、側溝の向きに沿って少し揺らして馴染ませてから、片側を支点に梃子の原理で持ち上げる。

 コツとしては、力の向きを左右にずらさない事だ。側面が接している側に力が偏ると、僅かな引っ掛かりでも動かなくなりやすい。――ゴリラパワーの前には無関係だが。


 まあいい、ともかくそうしてグレーチングを傾け、重力制御を用いて片手で持ち上げ取り外す。



「――ほら、これで良いかパピーボーイ?」


「あ、ありがとうございます!」



 此方に頭を下げた少年が側溝に身を乗り出そうとした瞬間、それより早く、側溝の中から小さな影が飛び出して来た。



「猫?」



 そう、猫だ。やや土に汚れた三毛猫が一匹、ようやく出れたとでも言う様に伸びをしている。

 

 

「はい、何処か蓋が外れてる所から中に入っちゃったみたいで、ほら、此処は水流れて無いんですけど、この先は一段落ちてて水も流れてますから、――よかったぁ」


「なるほどな、それで必死に外そうとしてた訳か」


 

 ほっとした様に息を付く少年を眺めながら、自分はグレーチングを側溝に嵌め直す。若干砂が噛んで最初より浮いた気がするが、元々道より下がって居たから問題ない。――冬場浮いてると除雪車がブレードで引っ掛けて破壊するが、まだ夏だし、冬の除雪までには締まって下がるだろう。


 見れば、猫は礼でも言う様に此方に一鳴きすると、そのまま何処へとも無く走って行った。気楽でいいねぇ、と思いながら視線を戻せば、少年がハッとした様に此方を見つめ、



「あ、あの、ありがとうございます! た、助かりました!!」


「良いって良いって、これでもレスキュー隊所属だからよ、目の前で困ってるとつい手を貸しちまうんだよ。――何せこの手だからな、デカい分パワーが役に立つ」



 そういって腕を振りながら横を通り過ぎて行けば、背後から少年が呼び止める様に声を張り上げて来た。



「ま、まって下さい! 何かお礼を!!」


 

 少年の声に、自分は一度歩みを止めて振り返る。



「帰宅ついでにちょっと手伝った事に見返りなんかいらねぇよ。なにより、お前がそこでグレーチング外そうとしてなけりゃ、アタシは下に猫が閉じ込められてることに気が付かなかっただろうさ」


 

 だから、と、自分は少年に、彼がグレーチングと格闘して汚れた手を拭くためのハンカチを差し出して、



「私じゃなくて、お前がヒーローさ、パピーボーイ」


「――――!!」



 ……うっわ、何臭い台詞言ってんだアタシ!!


 緊急出動明けのテンションはイカンな、と、アタシは視線を前へと戻して歩き出す。



 背後、パピーボーイがどんな顔をしているのは分からないが、呆れてないと有難いな――!!





   ●



 数日後の土曜日、夜勤明けで同じ様に自宅への道を歩いていると、この間の側溝の場所で、じっと立ち尽くしているパピーボーイの姿があった。


 お? と此方が反応するよりも早く、その透き通る様な瞳が此方を見つめ、口元が弓を描いたかと思えば、勢いよく少年が駆けて来る。


 

「ま、まってました! ゴリラのお姉さん!!」



 んー、何一つ間違ってねえんだけど、改めて言われるとちょっと面白いな。


 ともあれなんだ、わざわざ待つ様なことあったかおい、さては私に惚れたな? ――無いな、それは無い。



「あの、以前、コレを返し忘れてたので……」



 そう言って差し出されたのは、アタシがこの前パピーボーイに渡したハンカチだった。


 正直そんなもの律儀に返さなくて良いのだが、わざわざ待ってくれていた相手にそれを言うのは、その行為と善意を無為にする事になる。

 それは消防士として、誰かを救う人間がするべきことではないだろう。故に自分は笑みを浮かべてハンカチを受け取って、



「ありがとうな、この炎天下の中でわざわざ待っててくれてさ」


「あ、いえ、その……助けて貰いましたし、お姉さんにもう一度会ってお話したいなって、そうも思ってたので……」


「おう? アタシに?」


 

 予想外の言葉に思わず素で問い返してしまった先、パピーボーイは慌てた様に両手を左右にワタワタと振りながら、



「あ、いえその、変な意味では無くてですね!?」


「変な意味ってどういう意味だよ? ――でもまあ、」



 と、自分はそこで言葉を区切り、少し進んだ所にある喫茶店を指さして、



「この炎天下で待っててくれたんだろ? 折角だし、冷えた所で飲み物でも飲みながら話そうぜ?」



 ぶっちゃけ、夜勤明けで空腹なのと、地味に眠気が凄くてな……カフェインぶっこまないと立ったまま寝落ちかねないんだな、コレが。




    ●



 趣味のいいアンティーク調の扉を開ければ、古き良き落ち着いた雰囲気の店内には、今はもう骨董品と言う様なレコードからクラシックの音色が響いている。


 掛かっているのは魔弾の射手か、喫茶店で聴く曲か微妙に疑問だが、マスターの趣味だからなコレ……。


 そのままカウンターの奥に居るマスターへと軽く手を振りながら、自分は隅に置かれたテーブル席へと腰を下ろす。ここは自分みたいな、ちょいと大柄の変異持ち用の座席で、椅子の両側が広く取られており、腕を気にせずくつろげるので色々気楽だ。


 席に座って一息を付けば、対面に座った少年が此方へと興味を隠さない視線を向けて、



「あの、此処へは良く来るんですか?」


「ん? ああ、昔、ちょいと進路悩んでた時に当時の戦闘訓練の教官に連れて来られてな、そっから進路相談がてら何度か世話になって、それ以来仕事帰りとかにたまに寄るんだよ、――意外か?」


「いえ、その……かっこいいな、って」

 


 僅かに頬を染めて言われれば、悪い気はしない。けれど同時に絶妙に照れくささも感じる訳で、自分はお冷を持って来たマスターへと片手を上げて、



「マスター、ブレンド濃いめ一つと、いつもの一つ。――パピーボーイはどうする?」



 問いかけた先、少年が慌てた様にメニューを見始めたので、こちらとしてはちょっと失敗、もう少しメニュー見る時間を上げるべきだったな、ゴリラ、反省。



「え!? あ、ええと、おすすめとか、あります、か?」


「んー、コーヒー、飲めるか?」


「……実は、飲んだ事無い、です」


 おっと、これはちょっと珍しい。一応この店も紅茶とか他の飲み物はあるし、マスターが凝り性だから全部一級品なんだが、初めてと言われれば折角だから、と言う思考もやって来る。


 とは言え、今までまともにコーヒー飲んだ事無い人間に、いきなりブラックを飲ませて美味しいと思えるかは微妙な所だろう。



「そうだなぁ……紅茶とかもあるけど、どうする?」


「えと、……折角ですから、コーヒー飲んで見たい、です」



 声が尻すぼみになって行くのは、此方がブラックを頼んだことへの気後れだろうか。――そんな事を気にする必要は無いのだが、同時に思春期で背伸びしたい少年が気にする気持ちも痛いほど良く分かる。

 それでも、変に意地を張らずに答えた辺り、この少年は素直な性格だなと、そう思うし、大人としてその選択は尊重してあげるべきだろう。



「オッケー、じゃあマスター、あれ頼むわ。いつもの奴とセットで」


「――かしこまりました、それでは少々お待ちくださいませ」



 ……おいマスター、アンタ普段そんなかしこまったお辞儀しないだろ、何かっこつけてんだよ? っと思ったが、言うと間違いなくこっちも指摘されるので言わない、それが大人のルール。


 ――でも今度一人で来た時にからかってやろう、そうしよう。




   ●



「――あ? じゃあ実家は結構遠いのか?」


「は、はい。どうしても今の学校に来たかったので、ちょっと無理言って親戚の家にお邪魔させてもらってるんです」


「なるほどなぁ……まあ確かに巨大植物の近くだけあって、あの学校は変異持ち多いし、エーテル関係の授業も充実してるもんな」


「それも有るんですけど……その、憧れの人が通っていた学校なので……」



 そんな風にしばらくの間、少年に此方の仕事の事を聞かれて答えたり、少年の話を聞いたりしていれば、カウンターの奥からマスターがトレイを手にしてやって来る。


 自分達の前に差し出したのは、少し大きめのカップに入ったホットコーヒーと、硝子の器に入った角砂糖。


 それから、生クリームとフルーツで彩られたチョコレートサンデーだ。


 

「――それでは、ごゆっくりどうぞ」



 明らかにいつもより畏まった仕草でお辞儀をし、カウンターへと戻って行くマスターに半目を向けつつ、自分は対面でサンデーを眺めながら固まって居る少年へと視線を向けなおす。



「はは、ビックリしたか? ――昔初めて来た時に教官に奢って貰ってさ、今でも此処に来るとつい頼んじまうんだよ」



 まあ我ながら意外だよなーと、そんな事を思いつつ、自分は先ずはコーヒーの入ったカップを手に取った。


 手のサイズが普通の人よりデカイので、取ると言うより人差し指と親指で摘まんで掲げ、香りを堪能してから音を立てずに喉へと通す。


 ほう……、と、熱が喉を降りていき、口の中に残る苦味と鼻に抜ける香りの余韻を味わって居れば、此方を見つめる少年が、自分の真似をする様にコーヒーカップを手に取って、



「――アチッ!」



 顔を真っ赤にして身体を硬直させる彼に、自分は苦笑。



「ちょっと勢い付き過ぎてたな、――落ち着いて、少し冷ましながらゆっくり飲めよ」


「は、はい……すみません」


「謝るなって、誰だって初めてはあるんだ、緊張するのは当たり前さ」


 

 エロいことじゃねぇぞ? と言う言葉は流石に飲み込んだ。つーかそれに関してはアタシも人の事言えねぇからな。


 ともあれ、少年は此方が言った通りに一度カップへ息を吹きかけ、ゆっくりと口を付け、



「――あ、」


 

 驚いたように、目を見開いた。


 その光景に、自分は顔に笑みが浮かぶのを自覚しながら、



「ここのコーヒーは基本的にマスターのブレンドなんだが、それぞれ豆の比率や煎り具合が変えてあってよ、――まあ毎回気分でやってるから極稀にスゲェ外したりもするんだが……」



 カウンターの奥からマスターが少年に見えない様に中指を立てて来たので、此方も机の影で少年から隠しつつ親指を立てて下に振る。



「――パピーボーイの奴は、浅煎りで豆の種類も苦味少ないのをブレンドしてるやつだから、酸味と甘みがあって飲みやすいだろ?」


「は、はい……口に入れた瞬間、香ばしい香りと酸味が広がって、仄かに甘い後味と、フルーツみたいな余韻が、凄い、です」



 おうおう、随分と舌が良いなと思ったが、犬系の変異持ちなら嗅覚は鋭くなっている筈なので、それを上手く活かしているんだろうな。


 ただ、幾ら浅煎りとは言え若干の苦味はある。それに少年が僅かに眉を顰めるのも気付いて居る訳で、自分は苦笑。



「無理せず砂糖入れた方が良いぞ、こういうのは自分の好みを探して行くもんだから、カッコつけずに好きな味を探せばいいんだよ。ああ、チョコサンデーを食べながら合間でコーヒーを飲むと、クリームの甘みを洗い流しながら香りが引き立ってアタシは好きだな」


「わ、わかりました……!」



 告げた言葉の先、少年が硝子の器から角砂糖をカップに一つ、二つ落とし、少し悩んでから三つ目を落として掻き混ぜ、ゆっくりと口にすれば、その顔は先程よりもずっといい笑顔に変わる。



「……美味しい」


「はは、その一言が聞ければ、アタシもマスターも冥利に尽きるってもんよ」



 見れば、カウンターの奥でマスターがガッツポーズを取っているが、アンタさっきからキャラが迷走してるが大丈夫――とっくの昔にもうダメだったなすまん。


 まあいい、目の前でサンデーとコーヒーを交互に口にする少年の嬉しそうな顔を眺めれば、自分も自然と頬が緩むのを自覚する。


 だからつい、自分は言葉を紡いでしまって居た。



「なあパピーボーイ。……アタシ、非番の日は結構な頻度でここで、この席でこうしてサンデーつつきながらコーヒー飲んでたりするからさ」



 一息、少しだけ頬が赤くなるのを自覚しながら、



「そこの窓から、アタシが見えて、気が向いたら入って来いよ。――コーヒーと軽食くらいは御馳走するからさ、パピーボーイ」



 それでも、この少年と語らう時間を、もっと楽しみたいと、――そう思ってしまったのだ。





  ●




 それからは、自分は非番の日はふらりと喫茶店に行く頻度が増え、月が一つ変わる頃には、自分は今度の非番を少年に告げる様になり、緊急出動が無ければ非番の度に少年と会う様になっていた。


 話す内容は変わらず、此方の仕事のエピソードを職務規定に引っ掛からない範囲で話したり、少年の学校での話を聞いたりと、そんな他愛のない事ばかりだ。


 けれど変化はあった。


 それは例えば、次第に少年がコーヒーへと落す砂糖の数も減って行く事であったり、例えば職場のシャワー室に、私物のシャンプーとコンディショナーを持ち込む様になったりしたこと。


 少年は犬系の変異と言う事で鼻が利く。最初に会った時の自分は仕事終わりにシャワーを浴びたとは言え、疲れていたからざっと洗った程度で、服は出勤した時のモノだったから、正直今にして思い返せば汗臭かったんじゃ無いかと思って結構恥ずかしいなコレ。


 その反動だろうか、ちょっと色々入ったお試しセットを買って、少年の反応を試してみたりもした。――流石に直接感想聞いちゃいないが、一度メントールの強い物にした時は僅かに微妙な表情をしたからそれは永久欠番となった。


 逆に反応が良かったのはフリージアで、気付けば愛用品になって居た辺りアタシも単純だな、フローラルゴリラってか?


 まるで恋する乙女見たいじゃねぇかと、何処か他人事の様に思っていた。


 数ヶ月が経ち、次第に景色に白の色彩が混ざり始めた頃、彼がコーヒーに落とす砂糖は一つだけになっていて、それが彼が子供から大人に近付いていっている証だろうかと、ふと思って、何かに気付きかけた思考を、自分は強引に振り払った。


 アタシは大人だ、そして、彼はパピーボーイ。


 それでいい、それでいいんだ、と、何に言い聞かせているのか分からない言葉を自分は思っていた。




   ●




 だけどある日、緊急出動の帰りの車の窓から、それを見た。――見てしまった。



 少年だ。その隣には同年代のハーピー系らしい変異持ちの少女を連れて、楽しそうに笑いながら歩いている。


 少女が何かを言って、それに少年が少し驚いた様に身を揺すりながら、けれど並んで歩道を歩いて行く。


 ――その少女の位置に、自分が歩いている姿を幻視してしまった。


 

 ……ああ、そうか


 

 アタシは、そこに居たいと、そう思ってるのか。



 まいった。


 なんだ、おい、大人だなんだと格好つけておきながら、実際の所はなんだ、アレだ、ホの字って奴か、あ?


 あ――――――――………


 どうしたもんかね、これ。


 あの少女とパピーボーイが付き合ってるのかどうかは、まだ分からない。だけど、片やゴリラのアラサー女で、片や同年代のハーピー美少女だ。


 ――戦うまえから負けてねえかコレ?


 戦闘なら負ける気はしないが、こちとらこの歳まで恋愛とは無縁で生きて来た様な女だ。なにより、今の光景を見て思い出したけど、パピーボーイの学校の話に、あの少女も出て来ていたのだ。


 確か、ちょっと意地悪な言い方をしたりするけど、何かと気に掛けてくれる優しい子って話だったか……うん、その話聞いた時も思ったけど、間違いなく『そういうこと』だよなー。


 まあ、ウダウダ悩むのは、アタシらしくねえわな。


 アタシはゴリラだ、強くて誰かを助けられる、そういうゴリラだ。だから本当なら、此処で身を引くのが、正解だと、そう思う。


 だけど、それでも、黙って身を引くってのは、それはそれでアタシらしくない。


 だから、明日の非番の日に、何時もの喫茶店で彼に言おう。『大人』として、子供の時間をこうして拘束し続けるのは良くないと、そう言ってさよならだ。




  ●



 次の日、アタシはいつもよりも一時間早く家を出た。


 早起きして、早朝から風呂に入って、ちょっといつもより念入りに体を洗って、服はあまり普段は着ない、けれどお気に入りのブラウスとハイウエストのスカートを合わせて変異持ち用にノースリーブになったコートを羽織る。


 普段は安い作業用を使ってる腕のカバーとグローブも、友人の結婚式で使うようなお洒落な物を選んでみたのは、まあ、彼の記憶の最後に残る自分の姿を、少しでも良い物にしておきたいからと、そんな悪足搔きだ。


 あの喫茶店に行く足がこんなに重いと思ったのは初めてで、引き返したくなる気持ちを強引に見ないフリして前へと進めば、数分もしないで目的地には辿り着く。



 ――少年が居た。



 雪の降り出しそうな空の下、何処か大人びた黒のジャケットを着た少年が、開店間近の喫茶店の前で立っている。


 思わず、躊躇う様に立ち止まって、踵を返してしまいそうな感覚に襲われた瞬間、声が響いた。



「――お、お姉さん!」



 彼だ。


 此方に気付いた少年は、営業中の札を持ってマスターが出て来るのを軽く視界に収めつつ、此方に駆けよって前に立つ。


 

「――あの、今日は、お話があるんです」



 此方を真っ直ぐに見つめるその瞳の、決意に満ちた視線に射貫かれ、自分は思わず言葉を失いそうになり、けれど、努めて普段通りに振舞って、



「そうかいパピーボーイ、奇遇だな、アタシもだ」



 声の震えが彼に届いて居なければ良いと、そう思った。




  ●



 店に入って、何時もの席に着けば、マスターがまるで分かって居たかのようにコーヒーを淹れて持って来る。


 僅かな朝の眠気を覚ます様な香りに包まれた中、互いにコーヒーを一口啜り、彼が何かを言うより早く、アタシは口を開いた。



「……なあパピーボーイ、もう、此処に来るのは止めとけよ」


「――え?」



 呆気に取られたような顔をした彼に、アタシは言う。



「正直に言うぞパピーボーイ、……アタシは、お前に惚れてる」



 彼が言葉を挟むよりも早く、アタシは言葉を放つ。もし、万が一にも彼が、アタシが望む言葉を言ってしまったら、アタシはきっと、さよならを言えなくなってしまうから。

 


「お前が好きな匂いのシャンプーを探して、試して、化粧は犬系のお前が不快に思わない様に無香料にして、服も、最近は前より頻繁に買う様になっててさ、どうしたらよく思われるかって、――好きになって貰えるかって、そう思ってた」



 だけど、



「アタシは大人で、お前はまだガキなんだ、パピーボーイ。おまけに公務員のアタシが高校生相手に手をだしたらかなり絵的にHANZAIだ。――何より、お前にはきっと、アタシみたいなガサツな女は似合わない」



 だから、と、自分は告げる。目の前の少年が、言葉に詰まる様に息を止めたことに頷きつつ、



「パピーボーイ、もうこの店には来るな。――ここはアタシの家に近いから、例えアタシが此処に来なくても、此処にいるお前を見ちまったら、きっとアタシはお前に会いたくて此処に入っちまう。……そう自分でもそう分かるくらいには惚れてんだ」

 


 頼むよ、と、そう吐き出した言葉の先で、少年は一度頷いて、此方の目を真っ直ぐに見返すと、



「――――嫌です」


 

 真正面から、否定の言葉を口にした。



 いいですか、と、彼は前置きを口にして、



「お姉さん、僕と初めて会った時のこと、覚えてますか?」


 

 覚えている、側溝に入り込んでしまった猫を助ける為にグレーチングを外そうとしていた彼を、自分が手伝ったのだから。


 けれど、彼は此方の思考を見透かしたように首を振ると、



「今年の夏よりもっと前、もう、何年も前に、僕はお姉さんに会ってるんですよ」


「……は?」


「……覚えてないのも無理は無いと思います。あの頃、僕はまだ変異してませんでしたから」


「……すまん」



 思わず頭を下げた自分に、いいんですよ、と、少年は首を横に振り、



「あの日、僕は母とデパートに買い物に行っていて、そしたら、急に火災が起きたんです」


「原因は電気系の劣化だったみたいですけど、運悪く火元が衣料品売り場で、消火装置が上手く動かなかった事もあって、あっという間に燃え広がっちゃって。――しかもそのとき、僕はちょっと母と喧嘩して、逃げて、隠れて、泣き疲れて眠ってしまってたんですよね」



 それで、と、少年は続ける。



「目が覚めたら、もうみんな避難して誰もいないし、階段の方から煙が上がって来ててパニックになった僕は、非常口じゃなくて外が見える窓際に走ってしまったんです。そしたらすぐ下に炎が見えて、……僕、腰抜かして、動けなくなっちゃったんですよ」


「……それって、まさか」


 

 自分の疑問の言葉に、少年は微笑を返し、



「下に居た人たちが、窓際に居た僕を見つけてくれたのと、強引に周りの人に連れられて避難した母が、避難した人の中に僕が居ない事を知って救助隊に伝えてくれていたから、梯子車に乗った救助隊の人が僕を助けようとして、――でも、下の階の火が強すぎて、近寄れなかったんですよね」



 だから、と、彼は続け



「子供心に、ああ、助からないんだなって思って、泣き出しそうになって、――だけど、不意に僕がいた所から少し離れた窓から、人が飛び込んで来たんです」



 それは、



「煤だらけで、全身所々焼けていて、だけど、こっちを見つけたその人は、とっても大きなその手で、僕の事を守る様に抱きかかえて、『――よく頑張ったな、もう大丈夫だぞ』って、笑ってくれて」


「その姿が、ヒーローみたいにカッコ良くて、その笑顔が、とても綺麗で、――ああ、うん、アレがきっと、僕の初恋でした」



 もう分ってるでしょう? と、そう言って此方を見つめる少年が、カップを摘まむ此方の右手にそっと触れ、



「お姉さん、僕、初めて此処に入った時に言いましたよね? ――憧れの人が通っていた学校に入りたくて、親戚の家にお邪魔してるって」



 知っている、覚えている。その時は『青春だねぇ』と聞き流していたけれど、いま、彼の言葉を聞いたのならば――


 

「猫を助けようと格闘してる時に、急に後ろから声を掛けられて、そこに憧れの初恋の人が立っていたんですから、驚きましたよ。――ハンカチまで渡されて、思わず思考停止して……返す為に洗濯する前に、匂い嗅いでしまったりして」


「――今アタシ、変態の自白聞いてるか?」


「い、言い方ぁ!!」


 

 悪い悪い、と、そう言いながら、ツッコミ入れてちょっと気持ちが楽になった自分は言葉をつくる。



「……あのさあ、アタシ、もう二十六だぞ? お前と八歳違うんだぞ?」


「でも僕これで卒業ですし、そうしたら法律的には問題無いですよね?」


「いや、ほら、あー……この前一緒に歩いてたハーピー系の子とか、アタシみたいなアラサーじゃなくて、他にいい奴いっぱいいるだろ?」


「貴女に告白してる人の前で、他の女の子引き合いにだすの、失礼じゃありません?」


 

 ごもっとも過ぎて何も言えん。



「それに、彼女にはその……今日、本当は僕からお姉さんに告白しようと思ってて、その相談に乗って貰ってたというか……」



 ……パピーボーイ、お前……



「……言っとくけど、多分その女の子、お前のこと好きだぞ?」


「えぇ!?」


 

 困惑の叫びを上げた少年が、けれどすぐに何かに気が付いてのか、『あー……』と視線を遠くに向けて、



「……何か思い当たる節でもあったのかよ?」



 半目で告げてしまう問いかけに、いやその、と少年は言い淀み、



「……お姉さんに告白するのに、何かいい案ないかな? って聞いた時、『簡単よ、ゴリラはバナナが大好物なんだから、アンタのバナナ鼻先に押し付けたらイチコロよ?』とか剛速球投げられたんですが、……あれ、『振られてしまえバーカ』っていう事ですよねえ……」



 どうだろうか、正直法が許せば喜びそうな自分が居るが……



「つーかそもそも、ゴリラがバナナ好きだってのは迷信だぞ?」


「そうなんですか!?」


「ゴリラの生息地、基本的にバナナ無いからな……一応被ってる地域もあるらしいが、野生のバナナって甘くねぇし、ゴリラが食っても実じゃなくて木の方らしいぞ?」



 まあバナナの場合、本当はアレ木じゃなくて茎なんだが、そこはまあいいだろう。というか、今の本題はそこじゃない。



「なあパピーボーイ……、良いのか? アタシで?」



 頬が赤くなっている事を自覚しながらそう問いかければ、此方の手に触れた彼が、コーヒーカップごと握り込む様にもう片手も重ね、



「貴女『で』じゃありませんよ?」



 はっきりと、言葉が届く。



「貴女『が』いいんです。お姉さん!」



 そう言って笑う彼の顔が眩しくて、つい視線を逸らしてしまった自分は、気が付いた。


 彼のコーヒーカップの横、何時も通りに置かれた硝子容器の中、角砂糖が減っていないのだ。


 思い出せば、さっきコーヒーが置かれた時、彼は自分と共に、それを直ぐに口へと運んでいた。



 ……ああ、そうか



 もう、子犬パピーとは、言えないな。



 視線を戻し、カップを摘まんでいないもう片手で彼の手を包む様に重ねながら、



「なあ、今更だけど、名前、教えてくれないか?」



 だって、



「――これから先、アタシが死ぬまで、呼ぶことになると思うからさ」







   ●





 あれから数年、結局名前で呼んでいるのかって?



 ――お父さんパピーって、アタシと娘にゃ呼ばれているよ。

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