4時52分、始発で。

紗也ましろ

4時52分、始発で。


――新しいものを取り入れるためには、過去を手放さなければならない。


 そんな言葉を、以前どこかで耳にしたことがある。

 当時はその言葉の真意を理解することはできなかったが、今ならよくわかる。


 彼女のため、生まれ育ったこの地を離れると決断した今なら。




 ▽ ▲ ▽




 都会の街は夜を知らない。鳴り止まない音楽と酒に溺れた人々の喧騒。星空なんてものは都市伝説なのではないかと疑うほどに明るい通り。そんな雑多を掻き分けながら、目的の場所へと足を進める。

 街の中心部から少し離れた薄暗い路地の一角。ネオンサインが輝きを放つそこは、未だ健在だった。夜の帳が下りきった22時56分、ノックもせずに目の前の古びた木製の扉を押し開ける。ほのかに香るアルコールの匂いとともに現れるいくつかのテーブルと小さなカウンター。奥の棚には高そうなボトルが並んでいる。一見何処にでもありそうなバーのように思えるここは、他のそれらとは違い閑古鳥が鳴いていた。そんな残念な状況が以前から変わってないことに、若干の同情と安心感を覚える。


「――は?」


 アンティーク味のある椅子に座って誰もいないカウンターに肘をついたところで、ガシャンと後ろで何かが割れる音がした。


紫雨しう……?」


 ぽつりと呟かれた私の名前。その呼びかけに応えるかのように私はゆっくりと身体を反転させる。


「久しぶり」


「な、何でお前が」


 振り返った先には、割れたグラスと私を見て呆然と立ち尽くすマスターの姿があった。

 細身の身体に高めの背丈、スーツを着こなすには肩幅が足りていないところは相変わらずで。それでも、彼の周りに漂う厳かな雰囲気に自然と背筋が伸びる。そんな彼が、何度も目を擦っては瞬きを繰り返している。まるで幻でも見ているかのように。


「どうしたの。そんな幽霊でもみたような顔をして」


「……っ!どの口が――」


「変わってないね」


 続く言葉を遮るようにそう呟くと、彼は一度大きく息を吸い込んでから、何事もなかったかのように椅子ひとつ分をあけた席に腰を下ろした。


「……それはこっちのセリフだ。髪も顔も、それにその黒い革のジャケットまで、あの頃そのままだ」


 苦虫を噛み潰したかのような表情でカウンターの先を見つめる彼。私は何と返したらいいのかわからず、口の中で幾つもの言葉を転がす。


「……容姿なんて、そうそう変わるものじゃないでしょ」


「その青メッシュの位置と色まで全く変わってないのに驚いてるんだよ」


「……割れたグラスはそのままでいいの?」


「後で片付ける」


 そうぶっきらぼうに告げた彼は、椅子から立ち上がってカウンターの向こう側へと移動した。

 カウンターの下から取り出したグラスにロックアイスを入れ、すぐ傍にあったビンから液体を注ぐ。その洗礼された一連の動作は、彼のこれまでの努力と経験を示唆していた。


「飲むか?」     


 差し出されたグラスとその問いかけに、静かに首を横に振る。


「……そうか」     


 私の返事を聞いてから、彼はグラスを持って席に戻ってくる。そして行き場を失ったグラスをしばらく眺め、そのまま呷った。


「バーテンダー、サマになってるね」


「……」


 なんとなく軽口を叩いてみても、彼は口を開かない。しばらくの沈黙の後、ただ、ぽつりと一言。


「お前がいなくなってから、いろいろあったよ」


 その声は先程のものよりも幾分か弱々しくて。私は軽く顎を引いて話の続きを聞く意志を示す。


「お前と一緒に始めたこのバーだって、今じゃ客足が伸びなくて赤と黒の反復横跳び状態だよ」


「そりゃ、こんな辺鄙なところじゃね」


「いやここ借りたのはお前だろ」


「そうだっけ」


「そうだよ。お前が俺の妹にいいとこ見せるんだとか口幅ったいこと言って、一緒にバーを……」


 彼の言葉はそこで途切れた。まるで何かが喉の奥につっかえているかのように。


 再びこの場を沈黙が包む。空になったグラスの中の氷が弾ける音だけが、カランと響いた。


「なあ、何で。何でだよ」


 譫言のように呟かれた問いが、私の脳内を掻き回す。


「何で諦めたんだよ」


「――ごめんね」


 刹那、彼はカウンターを叩きつけながら立ち上がる。しかし、それ以上何かをするわけでもなく、数秒後には再び椅子に座り直していた。


「悪い、感情的になり過ぎた」


「……うん」


 壁に掛かっている木製の時計が23:00を告げる。それからひと呼吸おいて、彼は口を開いた。


「お前が大変なことになってるって耳にした時、それでも俺は、俺たち兄妹は大丈夫だ、お前はならきっと戻ってくるって……そう信じてた。信じて待ち続けた。だってそうだろ?お前が妹をほったらかしにして何処かにいくわけがないもんな。それなのに、それなのにお前は……」


 怒りか悲しみか、震える声でそう語りかけてくる彼は、悔しそうに唇を噛んでいる。それは今にも噛みちぎってしまいそうなほどに。


「……でも私は逃げた。いや、本当はそんなつもりはなかったんだけど、結果としてそう受け取られても仕方がない、か」


 そんな私の呟きに、彼の顔つきは一層険しくなる。


「……何で今更、また現れた」


「……」


 たっぷり十数秒、使えるだけの沈黙を使ってから、私は喉から音を絞り出す。


「……妹さんは元気?」


「やっぱり、そうだよな」


 気が抜けたかのように息を吐きだすマスター。その様子から、彼が私の目的をなんとなく理解していることが窺えた。


「お前が今更ここを訪ねる理由なんて、それくらいしかないよな」


 先程までの険しい顔を崩して、心無しか安堵しているかのようにも見える。


「それで――」


「悪いがお前に教える義理はないな」


 ただそんな雰囲気とは裏腹に、彼の答えは淡白だった。


「……何で?」


 突然の拒絶に思わず息が詰まる。ただ、それでも何とか彼の言葉に喰らいつく。


「さっきも言った通り、妹を置いて居なくなった奴に今更話すことなんかないってことだよ」


 再び氷がカランと弾けた。


 ……仕方のないことなのかもしれない。不可抗力とはいえ、彼の妹さんを傷つけたことは事実なのだから。


「……そう、邪魔して悪かったね」


 喉奥を渦巻く葛藤を飲み込みながら席を立つ。そしてそのまま、店の外に出ようと扉に手をかけたその時。


「待て、何処に行くんだ?」


「何処って、もう用事が住んだから外に」


「店に入っておいて、何にも頼まずにか?」


 それは暗にお金を落としていけと言っているのか。


「……生憎、無一文なんだよね」


 ポケットをわざとらしく広げて、持ち合わせがないことをアピールをする。しかし彼はそんなことは関係ないといった様子で席に戻るように催促する。


「代金は俺の話し相手ってことでいい。もう少し話していけよ」


 その言葉の端に、少しの焦りが見えたような気がして。渋々、私はカウンター席に再び腰を下ろす。


「それじゃあ妹さんの――」


「悪いがそれはナシだ」


 何だそれは。そっちから話をしようと言い出したのに、この話題はダメなのか。


「……はぁ」


 彼にバレないように小さく息を吐いてから、私は適当な話題を広げる。


「最近、この辺どう?何か変わったことはあった?」


「何だ、親戚の叔父叔母みたいな話題の振り方だな」


「失礼だな」


 そんなやりとりに、お互い小さく笑う。


「あぁ、あったよ、変わったこと。絶賛起こってるよ」


 何処か遠くを見つめる彼の瞳には、薄く水膜が張っていて。ああ、何だ。そういうことか。私の欲していることについて頑なに話そうとしない彼の行動の真意を、やっと理解する。


「……お互い老けたね」


「馬鹿言え、まだ3年だろ。それにお前は変わってない。恐ろしいほどにな」


 なんとなくわかっていた。彼がその話題を避ける理由が。きっとその話、妹さんの話を終えてしまったら、私がまたいなくなってしまうから。いや、これは私がそうであってほしいと願っているだけかもしれないが。それでも、この空間を、懐かしい会話を、お互いに心地よく感じているのは確かだった。


 だから。だからこそ、最後にもう一度。


「妹さんはどうしてる?」


「……知るか」


「そう」


「……アイツは、お前ほどやわじゃない」


「知ってる」


 得意げにそう告げてしまうのは、彼女のことを誰よりも理解している自信があったから。それは実の兄である彼よりも。


 カラン、と最後の氷が弾けた。


 何度目かわからない沈黙の後、私はゆっくりと席を立つ。彼はそれを止めようとはしない。

 そのまま、外へと繋がる重い扉を引いて薄暗い夜の世界に足を踏み出す。


「紫雨!」


 それから少し歩いたところで、また呼び止められる。それも大声で。


 半身で振り返ると、そこにはマスターが立っていて。そのまま彼は大きく振りかぶって何かを投げてくる。そういえば、彼は昔野球をやっていたんだっけ。


「二度と帰ってくるなよ!」


 そんな言葉と共に私の前に放り出された錘のついた紙切れ。そこには、簡単な情報と住所らしきものが殴り書きされていた。


「マスター、ありがとう」


 もう彼は何も言わなかった。そして、私も彼に応えるかのようにそのまま歩き出す。


 これが彼なりの激励なのだろう。私は胸の奥に少しの温かさを感じながら、メモの住所を目指して歩みを進めた。




 ▽ ▲ ▽




 メモを元にしてたどり着いた所は、小さなアパートの2階の角部屋だった。表札には「楠木」と書かれている。間違いない、ここだ。おそらく彼の妹さんが現在住んでいるであろう場所。


 時刻は0時12分。ここまで来たはいいものの、よくよく考えればこんな夜遅くに人を訪ねるのは非常識だ。どうするべきかと頭を悩ませること数分。


「……すみません」


 突如かけられた声に、身体が硬直する。


「そこ、うちなんですけど何か用ですか?」


 鈴を転がしたような、でも何処か凜としているその声に、視界が滲む。ただ、今はそんな感傷に浸っている暇はなく。

 そうか、彼女が外出しているというパターンもあったのか。それは想定外だった。しかし、今のこの状況は非常に不味い。彼女からしたら、自宅の前で夜中に誰かが不審な行動をしているのだ。なんなら通報されてもおかしくない。さて、どうするべきか。そんな1人問答をしていると、微かな呟きが耳に入ってきた。


「紫、雨……?」


 ああ、やっぱり。彼女に名前を呼ばれるだけで身体中が燃え上がるように熱くなる。


「うそっ、そんな、え、あ」


 そんな懐かしさを噛み締めていると、私以上に慌てふためく声が聞こえてきたため、改めて彼女と向き合って声をかける。


「久しぶり、ゆう


 3年振りに目にした彼女は、以前よりずっと綺麗になっていた。








「えっと、優?」


 パニックになっていた優を落ち着かせること早1時間。ようやく状況を理解できたらしい彼女は、私を部屋に招き入れる――ことはせずにそのままアパートの通路で私に迫ってきていた。


「ほん、もの?」


 恐る恐る私に触れようとしてくる彼女の手から素早く逃れる。その瞬間、彼女は身体を震わせた。それでも、すぐに表情を取り繕って厳格な雰囲気を漂わせるあたり、あのマスターと兄妹なんだなとしみじみと思う。


「今更、何?」


 まあ、そんな雰囲気も彼女のふわふわとした可愛さの前では意味をなしていないのだが。

 背は私より低く、垂れ目気味でぱっちりとした目元にウェーブのかかった長髪。色は以前と違って明るく染めているが、それでもかつての面影がしっかりと残っている。


「えっと、会いに来た」


「……何で」


 私から距離を取って、対話をする姿勢をとる優。その目には微かな警戒心が宿っているように見える。


「……お兄さんに聞いた、大学辞めたんだって?」


 あのメモにひとつ書いてあったこと。彼女はどうやら3年前に大学を中退してしまったらしい。


「それが何?」


「何で辞めちゃったの?デザイナーになるんだって、あんなに頑張ってたのに」


「……別に、本気でなれるなんて思ってなかったし」


「じゃあ今は何してるの?今日だって帰りが遅かったみたいだけど。ただ遊んでただけ?それならいいんだけど……いや、よくはないか。それとも仕事?こんな遅くまでやってる仕事なんて、絶対ろくなものじゃないと思うけど。それから――」


「うるさい!」


 突然の彼女の叫び声に、言葉が止まる。


「私のこと、恨んでるの?だから私の元に現れたの?」


「恨む……?」


 彼女は何を言っているのだろうか。


「優、いったい――」


「やめて!やめてよ!その顔で私に話しかけないで!」


 あからさまな拒絶に、私の身体は動きを止めてしまう。何故、どうしてそんなに怒っているのか――いや、当然か。3年前に居なくなった、それも特別な関係だった人が急に現れたらこうなるのが普通か。

 マスターが最初に妹さんに私を会わせようとしなかったことは正しかったのかもしれない。この再会は彼女に、そして私自身にも嫌なものをべったりと植え付けてくる。


「ねぇ、優」


「うるさい!うるさい!」


「……あんまり騒ぐと近所迷惑になるから」


 耳を塞ぐようにその場にうずくまる彼女の姿に胸が締め付けられる。私が彼女をこんなに傷つけてしまっているのか。それだけ、私という存在が彼女の中では大きかったのか。その事実に、少しだけ嬉しいと思ってしまうのは不謹慎か。


 ただ、私にはそんな彼女に伝えなければならないことがある。


「私、明日にはこの街を離れる」


 その言葉を発した瞬間、うずくまっていた彼女がはっと顔をあげる。


「……え?どういう?じゃあ、何で、今ここに?何の、ために?」


 見開かれた瞳と譫言のようにポツポツと紡がれるその疑問に、私は答えることはしない。


「明日、というか今日の朝4時52分。始発の電車で行くから」


 ただ、それだけを告げて彼女に背を向ける。


「え……?待って、待ってよ!」


 彼女の悲痛な叫びを聞くたびに、振り返ってそのままキツく抱きしめたくなる。ただ、今はその衝動を懸命に堪えて歩く。遠く、遠くへ。


 月が雲に隠れ、薄暗くなった街道。街の白い灯りが照らす私に、影はない。


 時刻は2時03分。私がこの街を去るまで、あと169分。




 ▽ ▲ ▽




 月明かりが薄れ、火光が空を覆う準備を始める頃。駅のホームで五感を研ぎ澄ませば、微かに感じられる夜明けの匂い。

 それでもまだ暗いこの場所には、人はおろか、生き物の気配すら感じられない。まるでここだけ外の世界から隔離されているかのようで。


 そんな世界にヒビを入れたのは、改札方面から聞こえてきた足音だった。


「……来てくれたんだ」


 そんな私の呟きに答えるかのように、その足音はどんどん近づいてくる。


 時刻は午前4時47分。


 次第に大きくなってきた足音は、私の右方に来たところで止んだ。


「……ねえ、紫雨」


「なに、優」


 お互いに顔は合わせないまま。傘一本分もない距離で、横並びで言葉を交わす。


「……本当に、紫雨なんだね」


「うん、優の知ってる紫雨だよ」


 言葉に力のない優しいやり取り。


「……正直、未だによくわかってないけど」


「うん」


 小さく相槌をうつ。彼女が懸命に紡ぐ言葉を、一言一句聴き逃さないように。


「紫雨は、私に会いに来たの?」


「そうだよ」


 迷わず肯定すると、彼女から震える吐息が溢れた。


「それは、何で?」


「……優に、過去に囚われてほしくなかったから。前に進んで欲しかったから」


「別に私は――」


 遠くから聞こえてくる踏切の音。


 ああ、時間だ。伝えなくては。


「ねぇ優。聞いて欲しいことがあるんだ」


「やだ、聞きたくない」


 そんな即座の否定に、私の言葉は喉に詰まってしまう。それでも――


「優は今、幸せ?」


「……そんなわけないじゃん、ばか」


「……そっか。あのね優、優はもう幸せになっていいんだ。いや、幸せにならないとダメなんだよ」


「でも――」


「もし優が私に対して罪悪感を感じているなら、幸せになって。それが私への償いになるから」


 彼女の言葉を待たずに、私の伝えたかったことを告げる。その瞬間、彼女から震える吐息が吐き出された。それは、何かを堪えているかのようで。


「……言わなければ、認めなければ。もしかしたら、ずっといてくれるんじゃないかって。でも、そんなことはないんだね。その言い方からして、紫雨はもう、決めてるんだね」


「うん」


 途切れ途切れでも、確かに伝わる優の言葉。


「なら、紫雨が安心できるように、認める」


「うん」


 度重なる肯定に、ついに堰き止めていたであろう嗚咽を漏らす優。それでも彼女は、懸命に次の言葉を探している。

 ここで私はやっと優と向かい合う。彼女の瞳は涙で溢れていて。それからどれくらいの時間が経ったのだろう。いや、実際には数秒も経っていないのかもしれない。ただ、私の中ではこの瞬間が永遠にも感じられて。

 苦しそうに、でも何かを決意したかのように一度大きく息を吐きだす優。そして彼女は、震える声で真実を告げた。







「紫雨は、もうこの世にはいない」







 私は今、どんな顔をしているのだろうか。きっと微笑んでいるのだろう。そうだといい。だって、彼女が有るべき今を認められたのだから。


 3年前の悲惨な出来事が頭をよぎる。あの日、些細なことで優と喧嘩をして。そのまま家を飛び出していった彼女を追いかけていた時、私は事故にあった。


「でも、会えて嬉しかった」


 突如彼女の口から発せられた言葉に思わず目を見開く。その目尻から流れる大粒の涙で頬を濡らす彼女は、とても綺麗で。


「あの日はごめん、ごめんね、紫雨。私も大学で上手くいってなくて気が立ってたの。そんな私を慰めてくれてた紫雨に八つ当たりして、それで――」


「大丈夫。ちゃんとわかってる。それに、こうなったのは私の不注意が原因だから」


 そう言って彼女の頬に手を添える。その手が彼女の涙を拭うことはなかったが、その気持ちだけでも伝えたかった。その手を、愛おしむように掴もうとする彼女に、私の胸が痛くなる。


「もう大丈夫」


 そう告げて私から少し距離を取る彼女に、寂しさを覚えながらも安堵する。


「よかった、ちゃんと割り切れて。優が心配だったから」


「本当に私のことが心配で出てきたの?」


「そりゃ、もちろん」


「……背追い込むのは紫雨の方のくせに」


 言い返す言葉もない。あの事故の後、私は一度だけ目を覚ました。ただ、優に嫌われた、嫌な思いをさせてしまった、会いたくない、そんな感情が先走って、再び目を瞑ってしまった。結局私は、その命を自ら投げ捨てて逃げたのだ。


「ねぇ紫雨、私も一緒に行くのは、どう?」


 そう告げて、私の方に一歩近づいてくる優。


「それは、駄目だよ」


 そんな彼女から、私は一歩遠ざかる。


「……だよね。知ってた。だって紫雨だもん」


 私の言葉を、優は寂しそうに肯定する。


「ねぇ、優」


「なに、紫雨」


 さっきとは逆の問いかけ。ただ、私が告げる言葉は――


「早く新しい人みつけるんだよ」


「……ひどいよ、紫雨は」


 涙を流しながら微笑む優の姿は、これまでに見たことがないほどに美しくて。それは彼女が全てを受け入れ、前に進もうとしていることに他ならなかった。そして、ぽつりと一言。


「たまには、顔出しに来て」


「いや未練たらたらじゃん」


「当たり前でしょ。大体、そんな簡単にのりかえられるわけないじゃん。電車じゃあるまいし」


「優は電車の乗り換えすら出来てなかったもんね」


「今は出来るし」


「私が教えたからね」


「……そうだね」


 優は線路の先を眺めながらを細める。


「紫雨は、何処に行くの?」


「この都会から離れた、どこか、遠いところかな」


「そっか」


「うん、詳しくは私にもわからないんだけどね」


 優が拳を強く握る。そんなに強く握ったら爪で傷ついてしまうのに。


「……また、会えるかな」


「どうだろうね」


 肯定することはしない。してしまえば、また彼女は私に囚われてしまうだろうから。


「まあ、時間はかかるかもしれないけど、きっと優なら大丈夫」


「……何が?」


「色々と」


 風に乗せるかのように呟いた言葉は、静かに空へと昇っていった。


「紫雨はさ、私に紫雨のこと忘れて欲しい?」


「んー、まあそれで優が幸せになれるなら」


「で、本当は?」


「……数年は引きずってほしいかも」


 でも、それはもうこの3年間で充分だから。そう私が告げるより先に、優が笑顔で言い放つ。


「安心して。絶対に忘れてやらない。30年は引きずってやる」


「えぇ……それだとせっかくの優の人生、勿体ないよ」


「紫雨のせいだからね。私の人生を台無しにしたことを一生後悔すればいい」


「それは、困ったな」


 そんなやり取りの後、2人で笑い合う。きっとこれが、最後になってしまうだろうから。


 それから数秒後、構内アナウンスがホームに流れる。


 それは私たちの別れの時間を意味していて。


「時間だね」


 私がそう呟く。


「そう、だね」


 再び震え出した声に、私の胸は強く締め付けられる。


 やがて列車がやってくる。それは静かに、でも確かにそこに存在していて。

 私は俯いたままその列車に乗り込む。躊躇うことはしない。私に触れようとする彼女の手から逃れるために。それに、今彼女の顔を見たら引き返したくなってしまうと思ったから。


「じゃあね、優」


 それだけ告げると、扉が音を立てて閉まり始める。


「紫雨!」


 それは扉が閉まり切る直前だった。その叫び声に思わず顔をあげる。


「――――」


 完全に閉まり切った扉の向こう側。隔てられたこちら側とあちら側ではもう声は届かない。それでも、彼女が何と告げたのか、私にははっきりとわかった。


「ああ、私も。大好きだったよ、優」




 ▽ ▲ ▽




 窓越しに振り返ることはしなかった。別に、引き返したくなるからとかじゃない。本当に、もう思い残すことがなくなったから。

 揺れる列車の窓から臨むのは、流れゆく景色だけ。


――新しいものを取り入れるためには、過去を手放さなければならない。


 実はこの言葉には続きがある。それは「そうすれば天使が人生を変え、さらに良くするのを助けてくれてるだろう」というものだ。


 優は固執していた過去を認め、手放すことができた。それなら、もう心配はいらないだろう。


 ある日、路地裏に迷い込んだ優を案内したことから始まった私たちの物語。それは雨の日の喧嘩で幕を下ろしてしまったけれど。それでもこうして、3年越しにエピローグを綴ることができた。

 あとは、いつかどこかで彼女と再会したとき。そのときに彼女の口から後日談を聞けることを楽しみにしておこう。


 願わくばそれが、遠い未来の話でありますように――

 

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4時52分、始発で。 紗也ましろ @sayama_07

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