ある男の高校時代の想い出

薬味たひち

回想

 小さい時から内気な子どもだった。なかなか人に話しかけられず、一人でいることが多かった。だからその分、人一倍いろんなことを考えた。外界に干渉することがないので、誰かに嫌われることもなければ、特別好かれることもない。そんな幼少期だった。


 高校生になり、私は初めて恋というものをした。どこが好きだったのかと問われても、うまく答えることはできない。だが、その時の私はたしかに彼女を好いていたのだ。彼女に会うことそれ自体が、私の毎日の楽しみだった。


 私は彼女に、人生で初めて告白をした。だが、それは成功しなかった。私はすべてを失った気持ちだった。その頃の私はなぜか、愛は与えれば必ず返ってくるものだと信じていた。今にして思えば、誠に勝手な思考である。だから、その行為が彼女にとって好ましくないとは、少しも考えなかったのだ。しかし現実はそうではなかった。私の独りよがりな愛は、彼女にとって、危険以外の何ものでもなかったのだ。


 私は泣いた。だが恨みはなかった。そして、もはや彼女に対して何の興味も抱いていない自分に気がつき、失望した。私は悟った。結局、私は自分のことしか考えていなかったのだ。愛とは対極にあるもの。自己中心的な心だった。


 この一件は、私に自己の浅はかさを自覚させ、そして心の空白を与えただけだった。この空白はなかなか埋まらなかった。何をしても心から楽しめない。ごはんを食べていても、友人と話していても、映画を観に行っても、気がつけばどんな喜びも感じず、ただ虚しさを感じる自分がいた。こうして、何もない日々がしばらく続いた。


 そして高校一年の冬。今度は初めて、私は人から想いを寄せられた。いや、もしかしたら今までにもいたのかもしれない。そうではなかったのかもしれない。だが、私に気がつく形でというのは初めてだった。彼女は私に告白したのだ。


 私はためらわずに承諾した。だが、私は彼女に興味があったわけではない。心の空白が埋まるかもしれない、そんな打算があった。


 彼女との交際はとても楽しかった。彼女といるのが楽しかったのか、彼女といる自分を眺めることが楽しかったのか、それはよくわからない。だが、少なくとも心の空白は埋められた。幸せな日々だった。


 しかし一ヶ月後。その関係は突如終わった。彼女にもっと好きな人ができたのだという。彼女は別れたいと言った。私は引き留めなかった。人の気持ちは他人の力では変えられない。以前の経験から、それを学んでいたから。


 この時も、私に恨みはなかった。悲しみ。いやそれも違う。そうなることがわかっていた。というより、既に人生に何の期待も抱いてはいなかったのだ。だから傷つかなかった。涙は流した。だが、そんな自分をどこか楽しんでいる自分さえいたのである。捨てられるという悲劇。そんな人生に対するあきらめのような喜びとでも言おうか。悲劇のヒロインとしての自分が好きだった。そして、そんな自分に恐怖した。


 空白は、よりいっそう私を苦しめ続けた。生きる意味。そんなものは遠い幻想のように思われた。「学校めんどくせ~」などと言いながらも、そこそこ楽しそうに生きている人々が信じられなかった。彼らにも空白はあるのだろうか。知る由もなかった。だが少なくとも絶望はしていない。それだけはたしかであるように思われた。


 二年生になり、クラスが替わった。特に関心はなかった。だが一人、私と関わりを持とうとするものがあった。その男は山田といった。彼と面識はなかった。だが、彼は以前から私を見ていたという。彼は私と話がしたいと言った。あまり気が進まなかったが、私は承諾した。


 放課後の教室に二人。外は曇っていて薄暗かった。異様な雰囲気だった。山田は私に問うた。


「生きることは喜びだと思うかい?」


 ゾクッとした。それはまさに私の人生の悩み。だが、なぜそれを赤の他人であるわたしに聞くのだろう。私は彼に嫌悪した。


 彼の目を見る。灰色だった。鏡で見た私の目と同じだった。私は彼の質問に答える気にはならなかった。この男との会話の先に道があるとは思えなかった。むしろ、空白が広がって生きる価値を本当に見失ってしまう気がした。私は生きる喜びは知らないのかもしれない。だが死にたいわけでもない。生が喜びでなくとも、それを否定したくはなかったのだ。


 私は沈黙した。山田がため息をついた。


「君とならいい議論ができると思ったんだけど。見当違いだったみたいだ。貴重な時間を奪ってしまい悪かったね。忘れてくれ」


 帰り道。私は考えていた。生きる喜び。それはずっと、私が探していたものである気もするし、目を逸らしていたものである気もする。私にとって生きることは、いわば作業だった。一日をいかにやり過ごすか。時間のある限り、何かをしなければならない。だが、何をしたいわけでもない。空白を持つ人間にとって、時間は一日をやり過ごすという目的の前に立ちはだかる障壁だった。休日は特に苦しかった。朝から晩まで何をするか自分で選択しなければならない。そんな毎日に喜びなどあるだろうか。答えは明白だ。だが辛いかと問われると……。時間は少しずつでも確実に流れる。すべてを放棄し何もしなかったとしても。そういう意味では時間は優しい。永遠を用意しなかったから。それだけは天に感謝した。この話をさっきの答えとして、明日山田に話そう。


 次の日。私は山田に昨日の答えを話した。――山田は私の話を聞き終えると、こう言った。


「なるほどね。よくわかった。つまり君は死ぬために生きているんだね。時間から完全に逃げ切るための手段として」


 私は何も言えなかった。それは最も恐れていた結論だった。そして、否定できない自分が、ただただ腹ただしく、悔しく、悲しかった。だが、私の心は言っていた。「生きたい」、と。その声に私は従おうと思った。私は生きる目的を探すことに決めた。


 絶望する人間には二種類いると思う。一つは辛いことがありすぎて、未来に苦しみしか見いだせなくなった人間。そしてもう一つは、楽しいことがなさ過ぎて、未来に喜びを見出せなくなった人間である。私は後者の人間だった。生きる理由もなければ、死ぬ理由もない人間。だが理由はなくとも、それでも私は生きたかった。そんな気持ちを支えてくれる何かが欲しかった。これをするために、私は生きていると言える。そんな何かが。


 その日から、私の私に対する見方が変わった。今、私は何をしたいのか。そんな問いを何度自分に向けたかわからない。少し頑張った時には達成感があり、楽なことに逃げた時には後悔もした。だが、いずれにしてもその先にあるのは虚無だった。こんなことをして何になる。そんな気持ちがじわじわと私を襲うのだ。周りにいるすべての人間が、私より有意義な時間を過ごしているように思えた。そして、その気持ちは次第に劣等感へと変わった。もはや周りの人間を見ることさえ辛かった。私の毎日は、さらに暗くなっていった――。


 私は孤立していった。隔離されたのではない。自分が逃げたのだ。周囲のものすべてが、私の生を否定しているように思えた。私の頭にはもう山田の言葉はなかった。何を悩んでいるのかすらわからなかった。学校をやめようにも、家でやりたいこともない。逃げ場はなかった。「生きたい」の気持ちが、少しずつ薄れていくのを感じた。それが恐ろしかった。


 そんなある日のこと。山田がまた転校することになった。あの日以来、彼と話すことはなかったが、最後に別れの言葉を交わした時、彼の目はやはり灰色だった。彼も私と同じように苦しんでいるのだろうか。今の苦しみを彼に打ち明けたらどうなるだろうとも思ったが、そんな気分にはならなかった。


 そして、入れ替わるように転校生がやってきた。大人しそうな女の子だった。彼女は人見知りなのか、なかなか他の人に話しかけられないようだった。そんな彼女が最初に話しかけたのが――おそらく一人でいることが多かったからだと思うが――私だった。


「職員室の場所がわからないから案内してくれない?」


私は彼女に言われた通り、職員室まで案内した。彼女からはこちらが申し訳なくなるほど感謝の気持ちを告げられた。


 その日から、彼女は頻繁に私に話しかけるようになった。それにつれ、私の毎日はだんだん明るくなっていった。


 彼女からはたくさんの話を聞いた。親の仕事で転校が多く、なかなか友達ができなかったこと。本を読むのは好きだけど、運動は苦手なこと。そして、遠距離恋愛をしている彼氏がいることなど。その事は、むしろ私を安心させたのだが。


 彼女と話せば話すほど、私の中の喜びはどんどん大きくなっていった。それはどうしてなのか考え、そして気がついた。自分は誰かに必要とされたかったのだ。自分を誰かに肯定して欲しかったのだ。それなのに、私は生きる意味を求めて自分ばかりを見つめていた。そんな人間に、誰かが興味を持つはずはない。誰かに必要とされる人間になること。誰かのために何かをすること。すなわち愛。私の生きる道は決まった。もう、迷わなかった。

 

 彼女はまもなく転校していった。私は彼女に精一杯の礼をした。この先、一凡人である私に何ができるのかはわからない。だがどうすれば誰かの力になれるのか。それを考えるだけで、私の人生は少し輝く気がする。


 私は新たな一歩を踏み出した。

 


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ある男の高校時代の想い出 薬味たひち @yakumitahichi

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