泡となって消えた
唄川音
前編
こんな風にして、世界から魔法は消えた。
急勾配な山に見下ろされた小さな貧しい村に、ウィロウ・ウロロは生まれた。
魔法使いは自分の魔力の源である石けんを握って生まれる。ウィロウは村で初めて、石けんを握って生まれた子どもだった。
そのため当然、村人は誰も石けんの使い方を知らなかった。
ウィロウの母親は、石けんを入れる革袋を作り、ボロボロのワンピースの腰ひもに付けてやった。無くしてはならないものだということだけは、なんとなくわかったからだ。
長い間、その石けんは一切使われず、ただウィロウのワンピースの腰の辺りで、ぶらぶらと揺れているだけだった。
ウィロウが八歳を迎えたある日、村に旅人がやってきた。
身なりからしてとても貧しいようだ。そのため、親切をしても徳はないと思った村人たちは、旅人を相手にしなかった。
しかし、忙しい合間を縫って母親から愛情を注いでもらっているウィロウだけは違った。
ヤギの乳しぼりという自分の仕事を終えると、広場に座り込んでいる旅人にそっと声をかけた。
「……大丈夫?」
「……ちょっと疲れただけよ。ありがとう」
荷物に預けていた体を起こした旅人は、神秘的な黒色の目で、ウィロウをじっくりと見た。そして一瞬ハッとしたような顔をしたが、すぐに眠たそうな目に戻った。
「わたしはキュス・スルベス。あなたは?」
「ウィロウ・ウロロ」
「ウィロウかあ。素敵な名前ね」
そんなことを言われたのは初めてで、ウィロウは嬉しくなった。
「キュス、顔色が悪いよ。お水でよかったら持ってこようか?」
「お願いできるかしら。のどがカラカラなの」
ウィロウは大急ぎで家へかけて行った。自分の木のカップを持って川へ向かい、山からの雪解け水を入れてキュスのところへ戻った。
ゴクゴクと一気に水を飲みほしたキュスは、少しだけ元気になったように見えた。
「ありがとう、ウィロウ! 生き返ったわ!」
キュスに頭をなでられたウィロウは、ますます嬉しくなった。
最後に頭をなでてもらったのは、三歳の時だったからだ。大人たちは猫の手も借りたい程忙しく働いているのだ。
「親切のお礼に、いい事を教えてあげるわ」
「いいこと?」
うなずいたキュスは、ウィロウの腰にぶら下がっている革袋を触った。
「この石けんの使い方よ」
ウィロウは石けんを手の上に取り出した。花の香りがする、薄いオレンジ色の石けんだ。こんなにもじっくりと見たのは初めてだった。
「これを身体のどこかにこすりつけるの。そうすると、ウィロウは魔力を得たことになって、魔法を使うことができるのよ」
「……やってみてもいい?」
「もちろん! あなたの魔法、見てみたいわ」
ウィロウは石けんを左手の甲にこすりつけ、キュスを見上げた。
「その状態で、何かやってみたいことを想像してみて。たいていの事はできるはずよ」
やってみたいこと。いざ言われると、何も思い浮かばない。
黙り込むウィロウを見て、キュスはクスッと笑った。
「してあげたいことはどう? 誰かの助けになったり、喜んでもらえたりすること」
真っ先に母親の顔が浮かんだ。息つく間もなく働いている母親の仕事のほとんどが、まだウィロウには手伝えないものだ。
「……ミルクを、チーズにしたい」
「いいわね。やってごらんなさいな」
ウィロウはキュスと一緒に家のヤギ小屋へ行き、今朝搾ったばかりのミルクを運んできた。
もうすぐ別の仕事を終えた母親がやって来て、このミルクをチーズにしたり、バターにしたりする作業を始める。
「ミルクに手をかざして、念じてみるの。チーズに変われって」
コクッとうなずいたウィロウは、両手をミルクカンの前に出し、ジッと中を見ながら、「チーズに変わって」と願った。
すると、石けんをつけた左手からフワフワと虹色の泡が発生し、液状のミルクがどんどん固くなっていった。
キュスに「もういいわ」と言われて手を下ろすと、泡は消え、ミルクは紛れもないチーズに変わっていた。
「す、すごい! これが魔法?」
「そうよ。もっと難しいことも、ウィロウならできるわ。みんなを助けたり、喜ばせたりできる力よ。たくさん使ってね」
キュスはそう言い残し、旅立っていた。
それからというもの、ウィロウは家族や村人のためにどんどん魔法を使った。
一瞬で畑を耕したり、馬が引かなければ動かないような重たい荷物を運んだり、植物がよく育つように土に力を与えたり。
村人たちはウィロウの魔法に心から感謝した。
兄弟や村の子どもたちも遊ぶ時間を持てるようになり、ウィロウと顔を合わせるたびに「ありがとう!」と言ってきた。
しかし、ウィロウは「この魔法は農業や家事しかできない」とみんなに嘘をついた。恐らくやろうと思えば、盗みや殺人もできると、すぐに気づいたからだ。
「助けたり、喜ばせたりするために魔法を使ってほしい」
キュスのこの言葉が、ウィロウの心の中で光っていた。
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