ブルートパーズ
玉櫛さつき
第一章
その森には白い木々が生い茂っている。
満月の夜には月の光に照らされた白い木々が反射して森の中は不思議な光で幻想的な明るさになる。
そしてその森の奥には忌まわしい吸血鬼の一族が暮らしている、という伝説がある。
それは全く音楽の才能がない者として生を受けても才能を持つ人間と交わることで才能を少しもらうことができる人ならざる者達として存在するという。
そういった者達は、もらった才能を持ち帰り、生まれ育った森の奥にひっそりと暮らしていると言われていた。
昔々から言い伝えられているというけれど、それならば何故、吸血鬼の一族は人間達を頻繁に襲いに来ないのだろうか?
白い森は昼間は陽光を受けて静かに明るい光を放ち、小鳥が囀ずる声すら聞こえない。
吸血鬼というのは、ただの言い伝えに過ぎない、何かの戒めの為の大嘘なのかも知れない。
なんとはなしに、そう思っていた。
だけど、僕達が暮らしている家の前に大きく広がる砂利道の向こう側に、その伝説の白い森はあって母は、とても忌み嫌い、家を売って他の土地へ行こうと常々父に話していたが父は、ただの言い伝えだからと引っ越すことには乗り気ではなかった。
母は僕達が学校から帰ってくる時間には玄関の扉を開けて戸口に立ち待っている。
馬車から降りる僕達に駆け寄り、見えない何かから僕達を護るかのように背後に立って僕達の背中を軽く押しながら早く家に入るように急かす。
僕達…は、双子の兄弟で僕、エドワードと兄レイモンド。
レイモンドはピアニストを目指していて、その才能は弟の僕からみても本当に素晴らしかった。
僕自身も同じようにピアニストを目指してはいたがレイモンドには到底敵うほどの腕前ではなかったけれど、ピアノを弾くことが音楽が大好きだった。
そしてレイモンドは間違いなく一流のピアニストの道を歩んでいくと誰もが信じて疑わなかった。
レイモンド自身も。
あの日までは…
それは僕達が共に十五歳になった春先のことだった。
その頃にはレイモンドはコンクールというコンクールには出場し優勝して制覇していて、週末には有名なオーケストラに参加して演奏することも珍しくなく来年には外国の音楽学校へ留学する話も出ていた。
僕自身はピアノの教師になろうかと考えていてレイモンドとは違う学校に行き、ほとんど寮で暮らしていて時々気が向けば週末を家に帰って過ごす為、レイモンドと一緒に帰ってくることは殆どなかった。
久しぶりに週末に帰ろうとした僕は珍しくレイモンドと駅前で偶然に会った。
「エドワード、久しぶりじゃないか。母さんも喜ぶよ」
馬車の中で僕達は、とりとめのない話をして帰路についた。
家の前に着き、馬車を降りると珍しく母は玄関口には居なかった。
「そういえば今日は母さんは夜7時くらいに戻ってくるんだ。夕食は先に食べていてって」
レイモンドは帰る前に電話で母と話していたので伝言を僕に伝えてくれた。
話しながら家に向かう僕達の背後から不意に声がした。
「あのぅ…」
振り返ると白い森の入り口に見たことのない少女が立っていた。
黒いワンピースを着て髪は真っ直ぐで黒くて背中まであり、大きな黒いというよりは赤茶けた瞳はレイモンドを見つめていた。
「何か?」
レイモンドが少女に応える。
彼女は躊躇いながらも、形の良い赤い唇を開いて言葉を発した。
僕達と同い年くらいだろうか。
「あの、私…、この白い森の奥の家に住んでいるんですけど」
僕達は驚いて顔を見合せた。
人が住んでいたのは知らなかった。
なにしろ、吸血鬼が住んでいるとも言われていて母からは一歩たりとも森に入ってはいけないと言われていたのだから。
「住んでいるって、最近引っ越してきたの?」
レイモンドは面白がっているようだ。
僕は…息をのむほど美しいけど、何か気味悪い…邪悪な感じがして少女から目を背けていた。
「いいえ、もうずっと昔々から住んでいるわ」
僕達は再び顔を見合せた。
ずっと昔々から住んでいる?
「じゃあ、ご近所さん、ということだね」
レイモンドが魅力的に微笑む。
知らなかった。
森の奥に、どういう風に暮らしているのだろう。
もっとも母が学校から帰ってきた僕達をサッサと家の中に入れていたし、母自身も白い森の伝説を、何とはなしに信じていて森を見ようともしなかったのだから人が住んでいるとは微塵にも思わなかったのだろう。
「それで?ご近所さん何の用事だい?」
レイモンドが微笑みながら少女の話を聞こうとした。
彼女は真っ直ぐにレイモンドを見つめたまま、話始めた。
「実は、今夜一族が集まって演奏会をしているの。本当なら親族だけの集まりなのだけど、ピアニストがいないのもあって、それとあなたの腕前の噂を聞いて是非とも…。突然ですけど一族の者と一緒に演奏してもらえませんか?」
「僕達は母から森に入ってはいけないと言われているんだ」
レイモンドがもっともらしく少女に伝える。
「それは悪い噂があるからでしょう?聞いたことあるわ。でも、私達一族は、音楽を演奏するために集まったりしているだけだわ」
レイモンドは僕に視線を向けながら僕の肩に腕を回して家に向かった。
「来てもらえないの?」
「母の言いつけは守らなくちゃねぇ。それに僕達は遠いところから帰ってきたばかりで、腹ペコなんだ」
「一晩中、一族で演奏しているのよ。晩ごはんが済んだと思う頃に、また来るわ、お願い、考えておいて」
少女が遠ざかるレイモンドに向かって話していた。
レイモンドは僕に肩寄せながら囁いた。
「一晩中の演奏会だって。それも一族でって、なんだか凄いよな」
僕は黙ってレイモンドの囁きを聞いていた。
僕達は双子だけど、レイモンドは明るいシルバープラチナブロンド、とでも言うような明るい髪の色をしていて目は明るく美しいブルーだった。
僕は、といえば明るい栗色の髪でブルーグレーの目だったので同じなのは顔立ちくらいだった。それでも髪と目の色が違うだけで双子と思う人は、あまりいなかった。
レイモンドの美しい容姿は奏でるピアノと共に知られていた。
だから先ほどの少女もレイモンドの噂を聞いて見違うこともなく、レイモンドに真っ直ぐに話しかけたのだろう。
夕食を済ますとレイモンドはピアノを弾き始めた。
将来を嘱望されている兄の素晴らしい演奏を間近で聞けるのは嬉しかった。
「母さん遅いね」
レイモンドの演奏が終わったところで僕は声をかけた。
「…そうだな…なぁエドワード、僕はさっきの話の演奏会に行ってみたくなったよ。伝説の白い森の奥に住むという謎の一族の音楽会。話だけでも魅力的だ」
「え?でも…」僕はレイモンドの言葉に驚いた。
「母さんの言いつけ、だろ」
レイモンドはピアノを即興でポロポロと華麗な音を奏でながら話を続けた。
「あの森の奥に、そんな音楽一家が住んでいたなんて寝耳に水だ。しかも親族揃っての一晩中の演奏会なんて興味深い」
即興の旋律は物悲しく続いていた。
「そこに僕は一応、招待された。一晩中の演奏会だなんて挑戦してみたいし、僕が参加して帰ってきてから体験リポートで話せば白い森の伝説は嘘っぱちだったと納得するんじゃないかな母さんも、エドワードも」
即興の旋律は止まってレイモンドは立ち上がり僕を真っ直ぐに見つめた。
「それで御近所付き合いも始まる」
美しいシルバープラチナブロンドの髪がサラッと揺れた。
僕は黙ってレイモンドの話を聞いていたけど、あまり演奏会に行って欲しいとは思えなかった。
何か、とても嫌な感じがした。
先ほどの少女。
美しいけど、何か禍々しい。
一族の演奏会だというのに喪服のような黒ずくめ。
僕は思い出して寒気がした。
「レイモンド、止めておこうよ。行って欲しくないんだ。あまりにも突然過ぎるし、一応最初に母さんにも話した方がいいと思うよ。親族揃っての演奏会なら来年にでも、また機会があるだろうし今夜はやめておいた方がいいよ」なんとしても行って欲しくなかった。
「エドワードは心配性なんだよな。演奏会じゃないか」
レイモンドは僕の肩に軽くポンポンと叩き、自分の部屋に行った。
「レイモンド、行かないでくれるね?」
兄は何も答えなかった。
夜9時を回っていたが母は、まだ帰って来ない。
母は知り合いのオペラ歌手のコンサートに呼ばれていたのだ。
母の昔からの親しい友人らしく、そのオペラ歌手に呼ばれたら一晩は帰って来ないことも珍しくない。
レイモンドはシャワーを浴びてパジャマに着替えるとベッドに倒れ込んだ。
1週間ぶりの自分の部屋。
「レイモンド、行かないでくれるね?」
エドワードの声を思い出しながら天井を見つめていた。
吸血鬼が住んでいると言われていた白い森の奥には見知らぬ一家が住み、その一族が集まって演奏会を開いている。
吸血鬼伝説なんて、何処からきたのだろう。
さしずめ、さっき演奏会にと話しかけてきた少女は吸血鬼っぽく見えなくもない。
長く黒い髪に黒いワンピースを着て。
赤い唇。
ルージュだろうけど血のように真っ赤だった。
目は明るい赤に近い茶色をしていた。
レイモンドは起きあがり、窓に近づいた。
カーテンを閉めていなかったからだ。
窓からは白い森の入り口が見える。
月明かりの中で先ほどの少女が立って、こちらを見ていた。
レイモンドは息をのんだ。
一族が集まって一晩中、演奏会をしているの。
ピアニストがいなくて。
あなたの腕前の噂を聞いたの。
彼女の言葉がレイモンドの頭の中で繰り返した。レイモンドは着替えると、そっと部屋を抜け出した。
夜十時を過ぎていた。
母が帰ってきた形跡はない。
もしかすると今夜は例にもれず帰って来ないかもしれない。
レイモンドは階段を下りて静かに玄関の扉を開けて外に出た。
少女に近付く。
「来てもらえるの?」彼女が戸惑いながら、ぎこちなく訊いてきた。。
「…そうだね、演奏させてもらえなくても少し聞かせてもらうだけなら…」
「いいえ是非、演奏してもらいたいわ、一族の者達も望んでいるの。来て…」
少女は、そっとレイモンドの手をとると、白い森の中へ歩いて行った。
月明かりに照らされて白い森の中は明るかった。
しばらく歩いてから少女は立ち止まり引っ張っていたレイモンドの手を、そっと離した。
「ごめんなさい、本当に突然で。驚いたでしょう?」
「確かに突然だったね。でも興味深いよ。一族が皆、音楽家なの?」
「そう、そうね…皆、才能を持っているんだわ…」
「君は?何を弾くの?名前、教えてくれる?」
「アーリットよ。わ、私は何も出来ないの」
アーリットは、それが最も恥じることだと言いたげに目をそらし月明かりの中でも、それとハッキリ見て取れるほど顔を赤らめたのが判った。
悪いことを聞いてしまったのか、とレイモンドは怯んだが、すぐに気を取り直し、
「僕の両親は聞く専門だよ」と言ったが、アーリットは、
「私の一族では、それは…許されないの」と答え歩き始めた。
「そうなの?ずいぶん厳しいんだね。アーリットは、これから何か練習するの?」
「…ええ、そう、そうね…そうなるかしら…」
アーリットは微かな声で答えるのと同時に邪悪に微笑んだがレイモンドは彼女より少し後ろを歩いていて気づかなかった。
レイモンドは腕時計を見た。
十一時を過ぎていた。
森に入ってから1時間は歩いている。
「ごめんなさい、遠いでしょう…もうすぐよ」
こんな長距離を彼女は一人で歩いてきたのか。
僕達の食事が済んだ頃にまた来るって言ったけど…こんな距離では、彼女はずっと待っていたんじゃないのか。
今頃、母さんは帰ってきただろうか。
エドワードや母は僕が抜け出したことに気づいただろうか。
引き返そう、エドワードが言っていたように演奏会に参加するのは今夜じゃなくても…
「アーリット、悪いけど…」
言いかけたレイモンドは目の前に大きな建物が見えてきたのに気づいた。
月明かりに照らされた、それは、のっぺりとした大きな塔のような建物で重量感のある建物だった。
不思議なことに窓が、とても少ない。
アーリットは十歩くらい先を歩いている。
一晩中の演奏会。
なるほど、確かに微かに音楽が聞こえる。
淡い黄色でライトアップされた家は暗闇の中に不気味に聳え立っている。
アーリットが扉を開けて手招きしている。
ここまで来たけど…帰りたい衝動に駆られるものの参加させてもらわなくとも1曲だけ聞いて帰らせてもらおう、
レイモンドは、そう決めてアーリットに招かれるまま家に入って行った。
家の中には淡い黄色い光のランプが灯されていて薄暗さを強調していた。
ただ、ただ長い廊下をアーリットの後ろから歩いて行くと外からは微かに聞こえてくる演奏の音楽が外で聞こえてきた時よりも少しだけハッキリと聞こえてきた。
薄暗いランプに照らされた廊下の壁に突然、ドアが現れたように感じた。
ドアは微かな軋み音をたてながらもスムーズに開いた。
柔らかなウェーブの黒髪のハンサムな男が現れた。
レイモンドより少し年上だろうか。
「やぁ!ようこそ。待っていましたよ。よく来てくれました。レイモンドくん、だね。僕はアーリットの兄でチャールズです。お噂はかねがね。お会い出来て光栄です」
くっきりした大きな目は確かにアーリットとよく似ている。
チャールズは親しげに微笑みながらレイモンドと握手を交わすと、さらに人懐っこい笑顔になってレイモンドの肩を抱き寄せた。
「突然で驚かれたでしょうけど一族の楽しみの演奏会なんです。是非とも参加して楽しんでいってください。長い距離を歩かせてしまって、申し訳なかったです。帰りは馬車でお送りしますから」
チャールズは魅力的な笑顔をレイモンドに見せた後、急に冷たい目つきを傍に立っていたアーリットに向けた。
「アーリット、いつまで其処に突っ立っているんだ!お客様を部屋に御案内して演奏会に着て頂くスーツを用意して差し上げなさい。そんな簡単なことにも気が回らないなんて、どれだけ一族の恥さらしなんだ!」
アーリットはチャールズの言葉にビクッと体を震わせると身を翻して言われたことをしようとしたが、更にチャールズは物凄い剣幕でアーリットに怒鳴った。
「返事も出来ないのか!お前は」
まるで誰かの仇を見るような憎しみを込めたチャールズをみかねてレイモンドはアーリットの前に立ち塞がった。
「そんなに声を荒げたら誰でも怯えてしまいますよ」
チャールズはレイモンドに顔を向けると首をすくめた。
そして冷たく微笑むと更に冷たい言葉を発した。
「お見苦しいところをお見せしてしまい申し訳ない。ですがアーリットには何の音楽の才能もない一族の恥さらしなんです」
「そんな言い方はないでしょう」
レイモンドの言葉を無視してチャールズはアーリットの前に歩み寄った。
アーリットは震えていた。
「早くしなさい!」追い討ちをかけてチャールズは厳しい声で怒鳴った。
「は、はい…お兄様…お客様、こ、こちらへどうぞ…」
憐れになってしまうくらいアーリットは怯えて言葉が縺れている。
普段から、こんなに怒鳴られているのだろうか。
アーリットに案内されチャールズが出てきた扉の少し先に更に暗い廊下を少し歩いて行くと黄色いランプに微かに照らされた階段が現れた。
アーリットはうつむきながら階段を上って行く。
階段を上りきると、そこはほとんど真っ暗だったがアーリットが扉を開け部屋に通した。
部屋の中にも廊下と同じように黄色いランプが灯されている。
アーリットが蝋燭をつけた。
「暗くて、ごめんなさい…一族の者達は、あまり明るいのを好まないんです」
そう言いながらアーリットは蝋燭をつけた。
「こちらの服をお召しください。私は廊下で待っていますので」
「アーリット、君のお兄さんは、いつもあんな…」
「本当のことですから!」
アーリットは震える声でレイモンドの言葉を遮った。
蝋燭の灯りに照らされたアーリットの顔は涙で濡れて光っていた。
「お見苦しい所を見せてしまったけど…本当に本当のことなんです…私…ああ…ごめんなさい。廊下でお待ちしていますから」
アーリットは涙を浮かべると、そのまま廊下に出て行った。
レイモンドは、とても重たい気持ちになってため息をついた。
来るんじゃなかった…。
あんな…僕と同い年くらいの女の子が楽器が出来ないという理由で身内にヒドイ扱いを受けているなんて…
やっぱり帰ろう。
こんな気分で演奏なんて出来ない。
レイモンドは手にしていたスーツを元に戻すと廊下に出た。
アーリットは着替えずに部屋から出てきたレイモンドを見て怯えたように目を大きく見開き、しがみついてきた。
「着替えてください!」
「イヤ、悪いけど、とても演奏できるような気分じゃないんだ。せっかく来たけど…」
アーリットは激しく首を振るとレイモンドの両腕を強く掴んだ。
「お願いです!帰るなんて言わないでください!もし、帰ってしまわれたら、私、私…兄に…」
そこまで言うとアーリットは泣きながらレイモンドの足元にしゃがみこんだ。
レイモンドは静かに泣きじゃくるアーリットを見下ろし、微かに照らされた天井を見るともなしに見上げ深くため息をつくと無言で部屋に戻り渋々ながら着替えた。
着替えたレイモンドをアーリットは案内し、満面の笑みで迎えたチャールズは、一族の演奏が止むと指揮をしていた男に声をかけて何か言葉を交わすとレイモンドをステージに招いた。
ステージ全体は廊下を陰気に照らしていた黄色い光よりは明るく、やや温かみのあるオレンジの光に包まれていた。
大きなステージには、三十人くらいだろうか…様々な楽器を手に人々が座っていた。
オーケストラの拍手で迎えられたレイモンドはグランドピアノに向かった。
「こちらが、これから演奏する曲目です。続けて3曲演奏します」
チャールズが楽譜をセットした。
「こちらの者が楽譜をめくりますので」
そういうとチャールズは自分の席に着いた。
レイモンドは鍵盤に静かに指を置くと、一族の演奏と一体化して指は滑らかに音楽を奏でていった。
ピアノの鍵盤に触れて、さっきまでの不快感は吹き飛んでいた。
初めて顔を合わせ演奏するというのに、ピッタリと息の合う完璧な演奏だった。
どのくらい時間が経っただろうか。
レイモンドが最後の小節を弾き終わり、オーケストラの拍手が地響きのように鳴り響いた。
レイモンドは深々と御辞儀をしてステージを後にした。
アーリットがステージ袖に案内した。
「本当に、ありがとうございました。素晴らしい演奏でしたわ」
アーリットは静かに言った。
涙は止まっていたが、激しく泣いた為に鼻が微かに赤くなっていた。
暗い廊下を歩き、さっきとは違った暗い階段を上って案内された部屋にはベッドが整えられていた。
「お客様の着てらした服は、こちらに持ってきましたから。この部屋で少しお休みください」
アーリットは小さな、でもハッキリとした声でレイモンドに言った。
一族の演奏会には、もう僕はお役ごめんなんだな…
少し寂しく思いながらも、
会心の出来だった自身の演奏を思い出し興奮を覚えてレイモンドはベッドに腰掛けると目を閉じて息を吸い込んだ。
ゆっくりと息を吐きながら目を開けてベッドに倒れ込んだ。
フカフカな寝具に沈み込むような錯覚に陥る。
疲れた…色々な意味で。演奏は楽しかったけど。
もしも、来年も誘われるようなことがあればキッパリと断ろう。
きっと、アーリットは、また来年も…
あんなに罵られる女の子を見たくない。
再び目を閉じたレイモンドの上に何かがフワリと覆い被さってきた。
目を開けて見るとアーリットだった。
彼女は、ゆっくりとレイモンドの唇にキスをしてからレイモンドの上に跨がると服を脱ぎ始めた。
「ちょっと、待ってアーリット…」
レイモンドは本当に驚いて半身を起こした。
アーリットは無言でレイモンドの服も脱がしていく。
「アーリット!」
レイモンドはアーリットの手を払いのけ少し強く押し戻した。
アーリットはベッドの上にふわりと倒れた。
ゆっくりと顔を上げてレイモンドの顔を見つめる大きな目から、ゆっくりと涙が溢れる。
「嫌、ですか?」
レイモンドは動転していた。
「嫌も何も、こんな突然に…」
言いかけたレイモンドの唇に素早くキスで言葉を遮り、再びベッドに押し倒した。
「アーリット、こんなの良くないよ」
服を脱がしていくアーリットの手を振り払って再び押し退けた。
「でも私、私、こうしないと、お兄様に怒られます…それに、忘れたいんです。いっときでも何も出来ない自分を」
アーリットの目から涙が溢れ頬を伝って流れた。
…イカれている!
あの素晴らしい一族の演奏会に参加させてもらえたのは光栄だけど、あのチャールズという兄は何を考えているんだ!
「とにかく、僕は演奏会に招待されたから来たんだ。僕の出番は終わったからと言っても君と、こんなことをしに来たんじゃないし、したいとも思わないよ」
レイモンドはベッドから起き上がろうとしたがアーリットは物凄い力を発揮してレイモンドをベッドに押し倒し服を脱がすと、唇にキスをしてレイモンドの上に覆い被さり胸に頬を擦り寄せて囁いた。
「お願いです。嫌がらないで。悪いようにはしません。ここを、硬くしてくれたらいいんです…」
アーリットはレイモンドの股間に手をあてて撫でると再び覆い被さって唇にキスをした。
レイモンドは諦め、力を抜いてされるがままにした。
アーリットは綺麗な子だ。
こんな子となら、悪くない。
いきさつは、なんであれ、もういい…。
レイモンドは自分の上に乗ったアーリットの髪を撫でるとアーリットの体を下にして跨がり、
優しく唇にキスをするとアーリットに囁いた。
「本当に、いいんだね?」
アーリットは頷いて目を閉じた。
レイモンドは唇に唇から顎に首筋に乳房にキスをした。
アーリットは小刻みに震えて微かに喘ぎ声を発した。
微かにオーケストラの演奏が夜の月明かりに照らされた空間に滲むように鳴り響いている中、ベッドに仰向けに倒れたレイモンドの上でアーリットの喘ぎ声が奇妙にオーケストラの演奏と重なり合っていた。
レイモンドは自分の上で喘いでいるアーリットの姿を茫然と焦点が合わない感じで見ていた。
アーリットの上になりレイモンドは自分の身体全体から何かがアーリットに流れて行くような奇妙な感覚を覚えた。
それはレイモンドにしがみついて喘ぎ叫ぶアーリットの声が止まるまで続いて、ゆっくり消えて行った。
今までなかった感覚だった。
「あ、ああ…はぁ…はぁ…あ、あ…あ…」
激しい息遣いで体を震わせ、満足するとアーリットはレイモンドを見下ろして微笑み、首筋に長い長いキスをした。
首筋に痛みが走った。
「痛っ」
噛みついたのか…?
「ふふ、うふふふ…はは、あははは!」
先ほどまで怯えて泣いていたアーリットとは別人のように、冷たく意地悪さすら滲ませ笑っている。
唇から血を流していた。
やはり噛みついたんだ…何故?
レイモンドはボンヤリとアーリットの顔を見つめた。
「アーリット…何が、おかしいんだい?」
眠くなりながらもレイモンドは自分の首を手でさすった。ヌルッとした感覚が、血の感覚だと判った。ズキズキと痛む。
レイモンドは、首の痛みを感じながら、ゆっくりと催眠術にかかっていくかのように眠りに落ちていきながらアーリットの言葉を聞いた。
「ゆっくり眠るといいわ。白い森の吸血鬼伝説は半分は本当よ」
半分?
半分とは、どういうことなんだろう?
レイモンドは瞼が重たくなり、ベッドに自分の体が溶け込んでいくような感覚に陥る中でアーリットの声がハッキリと響くのを聞いた。
「白い森の吸血鬼、つまり私達一族はね、人から音楽の才能を吸い取るの」
オ ン ガ ク ノ サ イ ノ ウ ヲ ス イ ト ル ?
「そしてね、血も少ぉしだけ頂くのよ。そう、だいたいティースプーン一杯程度のね」
ふふふふふ、あはははは
アーリットの笑い声が、ゆっくりとフェードアウトしていった。
レイモンドは眠りに落ちていった。
アーリットは実は愚かなうえに冷酷な少女だった。
レースをあしらった見事な黒いドレスを着ると、
レイモンドのいる部屋から出るとドレスのスカートを捲り、自分の手で自身の股間を拭った。
鮮やかな赤い血がベットリと付いた。
自分の血を見てニヤリと笑うと軽い足取りで階段を下りてオーケストラの待つホールへ向かった。
廊下で佇み待っていたチャールズがアーリットを、そっと抱きしめる。
「アーリット、どうだった?」
アーリットはニッコリと笑うと血まみれの手のひらをチャールズに突きだした。
「私の処女の血よ。大成功よ、お兄様、全部吸い取ったわ、すべて私の物だわ」
アーリットはチャールズの腕を掴むと身体を後ろに反らして大笑いした。
チャールズの袖にアーリットの血がついた。
「全部だって?」
チャールズの表情が青ざめた。
「そうよ、めんどくさいもの。手っ取り早く全部よ、ぜーんぶ!」
アーリットは目をパッチリとさせ、さも当然だというようにニンマリと微笑む。
「アーリット、全部は…御法度だ。何かの間違いだろう?全部だなんて」
チャールズは、やっと言葉を出せた。
アーリットはチャールズから一歩下がると血が付いた右手を左手で、そっと包み兄に挑戦的な視線を向けた。
「なんだって言うのよ!御法度なんて古くさいわ!」
チャールズは妹に歩み寄ると肩を掴んで激しく揺すって振り絞るように話し始めた。
「御法度なんだ!全部吸いとられた人間は文字通り脱け殻になってしまう。取り返しがつかないんだ。昔々、全部吸い取った一族の者が…」
アーリットはチャールズの言葉を遮り、掴まれていた肩を振りほどいて半ば涙声で叫んだ。
「それがなによ?脱け殻ですって?私だって今まで、ずっと脱け殻のようだったわ。何もなかったのよ私には!」
何もなかった…
アーリットは踵を返すと堂々と胸を張り音楽ホールへ向かおうとした。
「アーリット!一族の者は皆、最初は何もないんだ!お前だけじゃない」言いながら、チャールズはアーリットを止めようと後ろから掴みかかったがアーリットが一瞬素早く身を翻し、チャールズを乱暴に押した。
押されたチャールズは、よろめいて壁に頭をぶつけ、その場にくずおれた。
「全部吸い取ったって、いいじゃない。練習なんて面倒な手間が省けるもの。どんな形にしても私は才能を手に入れたのよ。それも期待されている最高のピアニストの卵のよ。一族だって温かく迎えてくれるわ。今まで何もなかったんだから私には。ああ、もう凄くウズウズするわ…ピアノが、ピアノが私を待っているのよ!」
アーリットは勝ち誇った邪悪な微笑みをチャールズに向けると音楽ホールの扉を開けて優雅にオーケストラに向かっていった。
レイモンドが目を覚ますとアーリットの姿はなかった。
月は青白い光を部屋いっぱいに照らしていた。
何時くらいだろうか…
さっきのは夢?
アーリットと寝たのは夢だろうか…
レイモンドは自分が裸で横たわっているのに気付いた。
シーツにはアーリットの血が付いていた。
やっぱり夢じゃなかったのか。
僕は、アーリットと…
ピアノが聞こえてきた。
―?
ピアニストが居ないからと僕は呼ばれたハズなのに。
レイモンドは、起き上がり服を着ると部屋を出た。
階段を下りて長い廊下を歩いていくと、チャールズが頭から血を流して倒れ呻いていた。
「チャールズ、どうしたんです?」
レイモンドはチャールズの傍に跪いた。
チャールズは呻き声をあげると目を開けてレイモンドを見つめた。
「ああ、レイモンド、許してください、いえ、許してくださいなんて、虫が良すぎる…今夜あなたを呼ぶのではなかった…アーリットは、あまりにも愚かで…」
チャールズの目に涙が浮かんだ。
レイモンドは、さっぱりワケが解らないまま、チャールズを抱き起こした。
「アーリットが言った(全部)は、彼女の思い違いであって欲しい…そうでなければ我々一族は今夜、滅ぶことに…」
ゆっくりと立ち上がりながらチャールズはそう言うと、よろめきながら音楽ホールへ歩いていった。
レイモンドはワケが解らずチャールズに追いつくと彼を支えながら一緒に歩いて行った。
チャールズが音楽ホールの扉を開けるとオーケストラのメンバーと共にステージの上にピアノを得意満面で弾きこなすアーリットの姿が目に入った。
レイモンドは、目の前の光景が、理解出来ないでいた。
自分には音楽の才能がないと涙を流していたのは茶番だったのか?
なんのために?
こんなに見事にピアノが弾けるのに何故、チャールズは妹を一族の恥さらしと罵った?
オーケストラのメンバーは演奏せずにピアノを弾きまくるアーリットに驚愕の眼差しを向けていた。
誰一人としてアーリットの伴奏に合わせて演奏する者はいなかった。
ざわめきと驚愕の眼差しの中でアーリットはピアノを弾いていたが、不意に演奏を止めるとバーン!と乱暴に鍵盤を叩いて立ち上がった。
「なんなのよ?なんで皆、演奏しないのよ!」
アーリットはチャールズの後ろに佇むレイモンドに気がついて睨み付けた。
チャールズは息を吸い込むと一族に話し始めた。
「皆さん…長い間、何の才能もなかったアーリットは今夜、ついに念願の、それを手に入れました。ですが、彼女は一族の掟を破り、先ほど私達とステージを共にしたレイモンドから全てを吸い取ったと自慢気に私に話しました。皆さんもお気づきでしょう」
オーケストラのメンバー達から、嘆きのどよめきが起こった。
「常々、全部を奪い取ることは御法度だと我々一族の者は伝えてきました。アーリットには、どうしても理解出来なかったのは残念なことです」
アーリットはピアノの前で青ざめている。
チャールズはレイモンドに向き直った。
美しい目から涙が頬を伝って落ちた。
「レイモンド、言葉では言い尽くせないほど、あなたには、とても申し訳ないことをしてしまった…私達一族は責任を取って今夜、滅びます。それで責任を果たすワケではないし全てが許されるワケでは決してありませんが…アーリットが言った全部ではないことを祈り、あなたが絶望の中で生きていかないように願ってやみません」
「全部じゃなかったら一族が滅ぶ必要ないじゃない!」
アーリットが叫んだ。
「アーリット、お前には、その全部の感覚が解ったハズだ。それに私に言ったじゃないか。全部盗った、と」
チャールズは震えながら言った。
「皆の者!異存はないな?裏切り者のアーリットに粛清を!」
チェロを演奏していた女性が叫ぶ。
オーケストラの一族は楽器を置くと立ち上がり、一人、また一人とアーリットに近づき囲んでいった。
「なによ、やめてよ。私は嫌よ。ずっと脱け殻だったのよ惨めだったんだから!許してよ!」
アーリットを囲んでいく一族はアーリットを抑えつけていた。
身動きが取れななくなったアーリットは意味をなさない言葉を叫び、茫然としているレイモンドに憎しみの目を向けて叫んだ。
「冗談じゃないわよ!長い間、才能がなくて、みじめで脱け殻だったうえに、今夜好きでもない男と寝て股を開いて痛い思いしたのよ!」
「アーリット、これから先を才能を失って生きていくかもしれないレイモンドの痛みは、お前のそれは足元にも及ばない」
チャールズが冷たく言い放った。
「銀の剣を」
誰が言った。
アーリットが逃れようとしたが、一族の者達に抑えつけられて身動ぎできないでいた。
アーリットは激しく頭を振って泣き叫んでいた。
「いや!いやっ!いやぁああ!あ、あ、…」
銀の剣はアーリットの胸を深々と刺し貫いた。
アーリットの断末魔が音楽ホールに響き渡った。
アーリットの首は、はねられて、彼女の頭が鈍い音を立てて床に転がった。
チャールズは茫然と立ちすくむレイモンドの肩に手を触れると音楽ホールから建物の外へ連れ出した。
「レイモンド、この道を、ひたすら真っ直ぐ歩いて行ってください。明け方前には、あなたの家に着くでしょう」
「…どうか…貴方に少しでも残っていますように…」
チャールズは小さな声で言ったが全部は聞き取れずレイモンドを、そっと抱きしめてから、彼の顔を見ないで建物の中に向かっていった。
建物からは煙が出ていた。
しかし微かに演奏も聞こえていた。
煙と鮮やかなオレンジ色の炎は、たちまち建物を舐め尽くすようにして建物を飲み込んでいった。
レイモンドは目の前の光景が理解出来ないまま茫然と、その様子を見守り、なおかつ自分の身に起きたことも理解出来ないまま、チャールズに教えられた道を歩いて家に向かった。
明け方近く、レイモンドは森を抜けて家に辿り着いた。
混乱していたが色々ありすぎて疲れていた為、シャワーを浴びて着替えると自分のベッドに倒れ込み、これから始まる自分の悪夢を想像することもなく眠りについた。
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