鬼ごっこ
志賀恒星
第1話 スタート
「クソ!」
「畜生め!」
江波慎太郎は怒っていた。
世の中に。目に映る事象全てに。
と言っても、世間の狭い彼にとって、世界はTVのニュースとネットの嘘か真実かわからない呟きで構成されていたのだが。
怒りながら彼は走っていた。夜の道を。
別に友人を助けるためでもなく、何かの約束があるわけでもない。
ただ走っていた。
走っていると、気持ちが落ち着き、気分が良くなることを彼は知っていた。
だから走るのである。
1kmも走ると、息が上がり、少し汗ばんできた。
夜の9時を少し回ったあたりである。
11月の夜風は冷たいが、今は気持ち良く感じる。
走り慣れた道は工業団地の中を一直線に伸びている。昼間は工場に出入りするトラックや商業車で混雑する通りも、この時間になると車の数はまばらだ。途切れることなく続く歩道にも人影は見えない。
誰もいない歩道を、慎太郎は一定のリズムで走っている。
既に怒りはおさまっていた。というか、走ることに集中してそれ以外のことを考える余裕がなくなっていた。
政治家のスキャンダルや芸能人のハレンチ行為などどうでも良くなっていた。それよりも、右膝の違和感が気になる。
ランニングウォッチに目をやる。
1km5分のペースで走っていることがわかる。心拍数は130程度なので問題はないが、少しペースを落とすことにする。
「フン」という声が聞こえた気がした。
子供の声のように聞こえたが、夜の9時である。しかも人通りのほとんどない工業団地。気のせいだろう。それでも少し周りを見回し、子供どころか人っこ一人いないことを確かめる。
ペースを5分30秒まで落とす。息が楽になる。右膝の違和感もほとんど気にならない。
走ると悩みを忘れるのは、単に苦しさで気が紛れるだけかもしれない。どんな悩みも歯の痛みには勝てないように。
走る苦しさから少し解放されると、慎太郎は今日読んだネットの記事を思い出していた。記事のタイトルには
”ランニング途中で変死!”
”心臓破裂か?”
などの刺激的な言葉が並んでいて、本文を読むと、一般の市民ランナーがランニング途中に突然死するケースが増えているとあった。コロナ禍で運動不足解消のために急にランニングを始めたのが原因か?とも書いてあったが、慎太郎は次の文章が気になっていた。
”何故か突然死の多くは夜間のランニングで発生。”
”遺体のランニングウォッチを確認したところ、キロ3分を切るペースで30km以上走行か?”
”心拍数が200を超えた状態で3時間走る?”
などなど。
ありえない。トップランナーでも夜間のランニングではキロ3分は無理だろう。ましてや一般の市民ランナーがキロ3分を切って走ることなど考えられない。ランニングのことを全然知らない記者が憶測で書いた記事か、単なる都市伝説かと思ったが、夜ランを日課とする身にとっては人ごとではなく笑えなかった。
走り始めてから20分が過ぎた。あと少しで工業団地のコースが終わる。突き当たりを左に折れると、その先は大きな邸宅が並ぶ住宅街が続く。夜ランは全て歩道があり街灯があるコースを選択している。人と出会うことはほとんどないが、寂しいと感じるほどでもない。
住宅街に入ると、風が更に冷たく感じはじめた。吐く息も白くなっている。
ランニングを始めて身体の違和感に敏感になったが、それだけでなく道路や環境の違和感にも敏感になった気がする。
何かが変だった。
闇が深い気がする。
普段は10km程度走るのだが、今日はこの辺にしておくか。そう考え、引き返そうとした時だった。「フフフ」という声が聞こえた。
幻聴ではなかった。はっきりと耳元で聞こえた。
立ち止まりあたりを見回すが、やはり誰もいない。
背筋に冷たいものが走り、うなじの毛が逆立つ。
見えはしないが誰かがいる。いや、何かなのか。
無意識に今来た道を戻り始めた。足が速くなる。
キロ5分を切り、4分に迫る。この速さで走れば、住宅街を過ぎて工業団地に入るのはすぐだと思った。
だが、工業団地に入る道に辿り着かない。
「凄いねオジサン」
また声が聞こえた。
自分の走る靴音と口から漏れる切れ切れの呼吸音以外何の音も聞こえない世界に、
「でも、もっと早く走れるよね」
という声が聞こえてきた。後ろを振り向く余裕はない。ネットの記事が頭をよぎる。
ペースは更に上がり、キロ3分に迫る。もうダメだと思った時、
「ダメじゃないよこれから鬼ごっこが始まるんだよオジサン。僕に捕まったら負けだよ。フフフ」
という声と同時に、大きなモノが現れ、強烈な獣臭があたりに立ち込めた。
「行くよ、それじゃヨーイ、スタート」
了
鬼ごっこ 志賀恒星 @shigakosei
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