よーい、スタート

芒来 仁

第1話

「よーい……スタート!」

 ポン、と無意識に体が飛び出す。直後、横手から声がかけられた。

「すみませーん、撮影中なんで一般の方は入らないで頂けますか」

 ……またやってしまった。今週で三度目くらいだろうか。


 学生時代は陸上部に所属。短距離走で県大会を突破出来たのは、地力の足の速さ……というよりは、スタートダッシュのための反応速度のためと言っていい。ピストルの音にぴたりと合わせた飛び出しで他の選手に数メートルの差をつけ、これを何とか維持して上位入賞を果たしたのだ。

 ところがこの能力、一般の社会人にとっては何の利もないのだ。

 そもそもただのオフィスワーカーにとって、スタートダッシュする機会がまずない。学生時代で引退してしまった俺にとって、最もスタートダッシュが必要とされる短距離走は過去のものだ。

 それでも学生時代に鍛えた条件反射は時折無駄に顔を出す。

「よーい、スタート!」

 駅前の大型ビジョンで音声付きで流される放送。晩飯に寄った牛丼屋の店内放送。昼休みの同僚や同じ電車の乗客の学生の雑談。その中にこの言葉が混じっていると、無駄に体が反応してしまうのだ。

 それでも体調が良ければ、意識をはっきり保てていれば、「この言葉は反応する必要のないもの」と判断して無視できる。

 問題は、それが出来ない場合だ。

 風邪をひいている、睡眠不足で意識レベルが低い。そんな時には、周囲の「よーい、スタート」の言葉に無意識に体が反応してしまうのだ。

 そして最近は仕事の疲れが溜まっている。一昨日の晩は牛丼屋で半分眠りながら店内放送から「スタート!」の声が聞こえてきて瞬間的に筋肉が緊張し、あらぬ方向へ体をねじって危うく丼をひっくり返すところだった。

 さっきだってそうだ。朝の通勤経路で撮影をしていたテレビ局のクルーに遭遇し、撮影の間だけ信号待ちのように待機しようとしたところで掛かった「スタート」の言葉に体が反応して飛び出してしまったわけだ。


「ふーん、大変なんですねえ」

 午前休憩中の談話室。全く心配そうな素振りを見せることなく、後輩女性社員が言葉だけで心配してくる。

「そんな癖やめちゃえば良いじゃない」

 先輩の男性社員は気軽に言ってくる。

「止められるもんなら今すぐにでも止めたいですよ。でも抜けないのが癖なんですってば。あんただって会議中にペン弄くる癖、止めろって言われて止められます?」

「いや、僕にそんな癖ないから。あったところでやめる必要もないけどね」

 こいつも話にならない。相談したいと思ったわけじゃないが、自分の癖を問題視どころか自覚すらしていない奴に解決策なんぞ思いつくはずもない。

「まあそんなことより。今回のプロジェクトは君の双肩に掛かってるんだからね。よろしく頼むよ」

 不必要にプレッシャーだけ掛けて去る先輩氏。この仕事こそが最近の抜けない疲労の、ひいては悪い癖が飛び出す原因になっているのだ。分かってんのかこいつ。


 この仕事が自分に向いている自覚は全くない。けれど人との繋がりを重視すべしというかつての上司の教えに従い、メールに限らず電話したり先方に出向いたりで何とか今回のプロジェクトを進め、社内各処に繋ぎを取ってようやく完了の目処がついた。あとは来週の会議で上司がプロジェクト稼働の宣言をするだけだ。

 さて、席に戻って会議資料の最終チェックだ。そう思い談話室を出ようとした、その時。

 同僚の一人と目が合った。

 今回のプロジェクトのメンバーに名を連ねているが、あまり目立った働きはない。というか具体的に何をやったかよくわからない陰気な男だ。

 こいつについて他人を蹴落として他人の業績を奪って来たなどと噂を立てる連中も居るが、ぱっとしない他に働きも見えないこんな男に他人を蹴落とすような力があるとも思えない。口さがない連中の無根拠な話だろうと思うが、特に関わっている奴でもないので挨拶もせずに談話室を出た。

 しかし、何故だろう。

 さっきの男、俺の方を見て一瞬、ニヤリと笑った気がしたのだが。


 まさか、今更会議資料に横槍が入るとは思わなかった。

 プロジェクトの根幹部分、それはむしろ一般常識だろうというところの認識や知識が上司の中で抜けていた。侃々諤々の議論の後、結局その一般常識を資料に載せることで決着がつき、今の今まで資料の追加作業を行っていた。

 まるで九九の一覧表のような初歩の情報を資料に追加しながら、「Fラン大学の教員はこんな気持ちで学生にアルファベットを教えたりしているんだろうか」なんてどうでもいいところに同情したりしていた。

 ふらふらと彷徨うように何とか最寄り駅にたどり着き、エスカレーターにもたれかかってようやくホームに到着。それでも最終電車からは少し早いようで、そこそこ空いたホーム上で乗車列の先頭に立つことができた。これで空席があれば座って帰れるだろう。

 頭の隅で気になることが過った。

 さっき、エスカレーターの乗り口で見知った顔を見た気がする。

 例の陰気な同僚だ。確か他のプロジェクトメンバーは早々に帰っているので、あの男がこんなところに居る筈もないのだが……。

 まあ、そんなことはどうでもいい。ぐったりした体を奮い立たせるためにちょっとした悪戯に考えを巡らせる。来週のプロジェクト稼働ミーティングで一般常識レベルのシートは「皆さんご存じの内容かと思います」と勝手に資料を飛ばしてやることだ。あの上司が資料を戻すことができず慌てる様を思い浮かべて多少の溜飲を下げよう。


 さあ、ようやく俺が乗る電車が来た。席は空いているだろうか。そんなことをぼんやりと思っていたところ。

 耳元でささやく声がした。

「よーい、スタート」

 ぽん、と体が弾けて前に飛び出す。体がよじれて、目の前には電車の巨大な車両。

 背後に視線が向いた。

 あの陰気な男が、俺を見ながらニヤリと笑っていた。

 なんだ、こいつは人を蹴落とすんじゃなくて――

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