大井なる助走

@me262

第1話

 月明かりの僅かに漏れ射す薄暗い空間で何者か達が囁き合っていた。

「ああ、もううんざりだ。同じ所を延々と走らされていたら、次はこんな場所に閉じ込めやがって。お前らの汚いケツを見るよりも飽き飽きだ」

「誰が汚いケツだ。俺はお前の汚いケツをずっと見てきたんだぞ。偉そうに言うな」

「止めろよお前ら。俺達は全員が他の奴らのケツだけ見てきたんだ。見ていないのは自分のケツだけさ。多分全員のケツが汚いんだろうよ」

「そうそう。喧嘩しても始まらないよ。それにしても外に出たいな。そして地の果てまでも思う存分走りたい。俺が一番速いだろうな」

「何言ってやがる。一番は俺だ」

「いや、俺だ」

「無駄な話さ。俺達はずっと同じ所しか走れない。そうなっているんだ」

「そうかな?本当にそうなのかな?俺はさっきから全身が変な感じなんだ。今なら動けそうな気がするんだ」

「お前もか?実は俺もそうなんだ。理由はわからないが、動けそうな気がする」

「俺もだ」

「俺も」

「じゃあ、試しにやってみようじゃないか。どれどれ……。おい!動いたぞ!」

「本当だ!動ける!」

「全員が動ける!やったぞ!外に出られる!」

「汚いケツ以外のモノが見られるぞ!」

「そうじゃないだろ。俺達のやることは一つだ!」

「そうだ!」

 全員が一斉に叫ぶ。

「レースのスタートだ!」


 都内の某競馬場。ナイター競走の最終レースも終わって観客達が出口に向かおうとしていた時、場内アナウンスが朗々と流れ始めた。

『只今より本日の特別レース、性別不明、年齢不詳、ダート5000メートルが始まります』

 観客達は困惑した。最終レースは先程終わった筈。それに性別不明、年齢不詳とはどういう事だ?5000メートルのレースなんて聞いた事もない。

 彼らがコースの方を見ると、いつの間にか十数頭の馬がスタートゲートに入っている。何処からかファンファーレが鳴り響き、ゲートが開くと馬達が勢い良く飛び出した。

 その姿に観客達は唖然とする。騎手が乗っていない。ゼッケンも無い。その代わりに中世ヨーロッパの儀式に用いられる様な煌びやかな馬具を身に付けている。馬体はどれも雪のように白く、たてがみは黄金色に輝いており、まるで貴族の愛馬であるかのようだ。

 そして速い。人を乗せていないとは言え、チーター並みに速かった。普通の馬が出せる速度を遥かに超えている。それらの馬が互いにしのぎを削り、矢の様に飛び走って行く。その白熱した展開に観客達は引き込まれ、席へ戻ると声援を送り始めた。

 正体不明の馬達による予定に無いレースが行われている。競馬場のスタッフ達も、この異変に気付いていたが、誰もレースを止められなかった。驚異的なレーススピードに圧倒されていたのも有るが、何よりも馬達の顔が走る喜びに満ち溢れていたからだった。こんなに嬉しそうに走る馬を、彼らは見た事がなかった。

 このまま走らせてやろう。

 彼らは無言で、この美しく神秘的なレースを見守る事を確認し合った。

 馬達はコースを数回走り、やがてレースは最終コーナーに入ったが、彼らの速度は一向に落ちる事はない。無限のスタミナだ。最終直線からいつの間にか設置されたゴール板まで馬達は横一列に並び激走する。観客もスタッフも大声で応援する。そして全頭が寸分違わぬ横並びで同時にゴールすると競馬場は大歓声に包まれた。

 誰もが馬達に拍手を送る。だが彼らは止まる事なくそのまま走り抜けた。そして大きく跳躍すると、飛行機の様に地面を離れ、急角度で空を駈け昇って行った。

 全ての者が驚愕の声を上げる中、黄金のたてがみを持つ白馬達は歓喜のいななきを残して夜の空に消えていった。何人かが手持ちのスマホでこのレースを撮影していたが、後に再生した動画には何も写っていなかった。


 都内の某遊園地内の倉庫。大きな音を聞き付けた管理人が駆け付けると、入り口の木製扉が外側に向けて破られていた。慌てて中に入り照明を付けた彼は息を飲んだ。

 そこに保管されていた筈のメリーゴーラウンドが消えている。正確にはメリーゴーラウンドに設置されていた馬達が全て消えていた。再び外に出た管理人は足元の地面に幾十もの蹄の跡が残されている事に気付く。

 窃盗か。或いは、たちの悪い悪戯か。

 遊園地でもベテランの職員である彼は、人々から長年愛されてきたメリーゴーラウンドを常に間近に見てきた。閉園の為に倉庫に保管される事になったものの、100年前に作られた国内最古のメリーゴーラウンドの、この有り様に深く憤った。しかし、ふと、こんな事を思い付いた。

 100年。付喪神。

 そう言えば、ここに来る途中で馬のいななきを聞いた気がする。

 馬達の居なくなったメリーゴーラウンドを見つめながら、そうであれば良いと管理人は思った。

「地の果てまでも駈けていけ」

 管理人は呟いた。

 彼らは心底、全力で走りたかったのだろう。何と言っても、あの床の上で100年もの間、延々と大いなる助走を続けていたのだから。

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