第7話 魂の戦い(vs 冷の世界)
谷地下台団地に、月夜の明かりが照らし始める。この界隈は街頭も少なく、薄暗い空間が広がっていた。
湊は暗く静まり返った団地の自宅で、布団に身を包んでいた。このまま睡魔に襲われれば、またあの白い世界へと誘われることになるだろう。しかし、眠りの深淵はどうしても彼を受け入れてはくれなかった。
しかし、湊は寝なければならない。もし、眠ることが魂の戦いへの入り口だとするなら、彼が眠らなければ、オリビアたちだけを魂の戦いの危険に晒すことになる。
湊は時間が気になり、枕元に置いてあるスマートフォンに手を伸ばす。彼が画面に視線を向けると、「二十三時半」と示されていた。睡眠を目的にしている時に時間を気にすることは、不眠の入り口とも言える。それは、さらに夢の世界への誘いを遠ざけるからだ。
気分転換が必要だと感じた湊は、近くのテーブルに目をやった。その上には、シン教から手渡された冊子が存在していた。
湊は布団の掛け布団を蹴り飛ばし、テーブルの前に歩み寄ることにする。本の表紙にはシン教と大きく刻印されていた。
湊が表紙をめくると、冊子のページには、白い長い髪と髭を持つ神々しい姿の者と、背に羽を持つ天使のような三人の画像が載せられていた。彼らは神と神の従者と書かれていた。神の従者という言葉は、魂の戦いの中で湊が何度も耳にしたものであった。どうやら、魂の戦いと何かしらの繋がりがありそうだ。
湊が再び冊子に視線を向けると、そこには神は万物を創造する父であり、絶えず全てを愛する慈愛の持ち主と記述されていた。
そして、それに従う神の従者の名前は、希望の従者、《慈愛の従者》、破壊の従者と記載されていた。
希望の従者は、賢そうな男性として描かれていた。彼は神の声を聞くことが出来、それを元に人の魂を管理している者らしい。そして、他の神の従者に対し、正しい方向性を定める存在と紹介されていた。
慈愛の従者は、優しい表情の女性として描かれていた。彼女は人の魂を温かく見守り、優しく導いてくれる存在として紹介されていた。
破壊の従者は、荒々しい男性の姿で描かれていた。彼は過ちを犯した者に罰を与える役割を持っており、誰しも関わりたくない存在と感じるだろう。事実、魂の戦いの中で、その名を冠した者の荒っぽい口調は、湊は苦手にしていた。
シン教の教えが正しいのであれば、魂の戦いでも神の従者は三人いるのだろうか。まだ、湊は二人しか会ったことがなかった。
湊が思案していると、突如、周りの風景が渦のように曲がりだし、彼の視界が闇に包まれていく。
――湊の視界に光が戻ると、彼の周りは真っ白な景色に包まれていた。その中で、彼は白い地面に腰を下ろしていた。彼の尻から伝わる感触は、その下が土の上であることを示していた。
周囲には白い木々が並んでおり、その木々に守られるように一本の道が続いていた。道の先には、純白な教会がそびえ立っていた。恐らく、この道はその教会へと続いているのだろう。
この不思議な現象は、湊が魂の戦いへと呼ばれたのかもしれない。彼は魂の戦いへの入り口は眠ることだと考えていたが、今回は睡魔に落ちていないため、その認識は誤っている可能性が高かった。
湊はゆっくりと立ち上がると、教会が見える方向に歩を進め始めた。
教会が近づいてくると、その造詣がはっきりとしてくる。それは、色彩こそ存在していないが、湊が船橋で見た教会に似ているように思えた。
湊が導かれるようにその教会の前まで来ると、真っ白な扉に行く手を遮られる。彼がその扉を両手で押すと、鈍い音が鳴り、扉が二つに分かれる。
湊が教会の中に足を踏み入れると、並べられた多くの椅子と、奥に配置する大きな机が視界に飛び込んでくる。それは、船橋で見た聖堂と似ているような印象であった。
そして、奥の机の前には、淡い桃色のローブを纏い、フードを顔の上部まで深く被った者が立っていた。
「貴方は、神の従者さんですか?」
湊が声をかけると、神の従者が跳ねるような歩調で歩み寄ってくる。彼女の肩には兎の柄の入ったトートバッグがかかっており、それは彼女の歩みに合わせて小刻みに上下に揺れていた。
「初めまして! あっ、初めましてもおかしいですかね。いつも見ているもの」
その声は機械的な響きを持っていたが、前回の希望の従者と比べて声質は高めだった。小柄な身体に、長いローブをまとい、顔ははっきりと見えなかったが、女性らしい雰囲気を感じさせる。
「いつも見ている?」
「わたしは、みんなを見守って、導いているのです!」
「そうなんですね。いつも、ありがとうございます。・・・でも、ここはどこですか?」
「ここは、元の世界の奥多摩のシン教の教会なのです」
奥多摩といえば、東京の西側にある静かな地域だ。湊は足を運んだことがないが、その名前は観光地として有名で、自然豊かな場所である。
「へえ、シン教は全国にあるんですね」
「ええ、すごく有名ですからね。神様の思いを教えてくれる宗教なんですよ」
神の従者の言葉に湊は違和感を覚える。つい最近まで、彼はシン教なんて名前を聞いたこともなかった。それに、リアムは教徒が集まらないと嘆いていたはずだ。
「そうなんですね。知りませんでした。ごめんなさい」
「あなたの世界ではシン教は有名ではないのです。そう、導いていますから」
湊は繰り返し耳にする、導くという言葉に引っかかりを感じていた。それは、先ほど読んだ本の中にも同じ言葉が記載されていたためだ。
「貴方は慈愛の従者さんなんですか?」
その言葉に、慈愛の従者が首を縦に振る。そして、嬉しそうに口元を上げる。
「«終の世界»のみんなに会えるのは、うれしいのです」
「終の世界?」
終の世界とは、馬鹿に不吉な言葉である。慈愛の従者の語るところによると、これまで、並行世界は創造され続けていたが、湊の世界が創造されたのを最後に止まったようなのだ。それは神の気まぐれなのか、又は何かしらの問題が発生したのかは説明がなかった。
湊と慈愛の従者が対話をしていると、教会の外から人の声が響いてくる。その声は湊にはどこか馴染みがあるものだった。
「あなたのお友達が来たかも! 外に行きましょう」
慈愛の従者を先頭に二人は、教会の出入り口に歩み始める。彼女の歩調はどこか舞い上がっているように見え、跳ねるように歩いていた。その動きで彼女のトートバックから何かが飛び出し、小さな音を立てて地面に落ちる。
「落としましたよ」
湊は慈愛の従者が落としたものに近づき、それを両手で持つ。それは、《兎のぬいぐるみ》であった。純白の兎を模したぬいぐるみで、大きさは二十センチ程度に思えた。
慈愛の従者が振り返ると、フードの隙間からは口が大きく開いているのが見えた。もしかすると、フードの下には驚愕の顔が作り上げられているのかもしれない。彼女は慌てて湊の元に駆け寄ってくる。
「ごめんなさい。ありがとうございます!」
湊が近づき、慈愛の従者に兎のぬいぐるみを手渡すと、彼女はそれを優しく両手で抱きしめる。その姿はなんとも人間らしく、湊の口が緩む。
「大切な物なんですね」
「ええ、何よりも大切なものなのです!」
慈愛の従者は肩に下がっているトートバッグを床に下ろし、そこに兎のぬいぐるみを詰め込み始める。
「先に行ってくださいなのです」
慈愛の従者はトートバッグに兎のぬいぐるみを詰めながら、教会の入り口を指差す。湊はその指に導かれるように教会の入口に歩を進めて行く。
湊の目の前に白い重厚な扉が現れると、彼はそれを両手で押す。すると、それは二つに分かれ、外の景色が湊の視界に入ってくる。そこには白い木々と道が現れ、同時に、オリビア、悠太、マイケルの姿があった。
湊とマイケルの視線が合うと、彼が愛嬌のある笑みを浮かべながら歩み寄ってくる。
マイケルは、金髪をリーゼントでまとめた髪型をしていた。彫の深い顔立ちをしており、その顎は二つに割れていた。彼が身に付けている赤いティーシャツは、持ち前の強靭な筋肉によって、引き裂かれそうになっていた。まさに、戦いに相応しい男に思えた。
「三人でボクシングジムに行った言うじゃないですか? 今度は私も誘てくださいよー」
マイケルは、この国に足を踏み入れて三年前後しか経っていなかった。そのため、彼はこの国の言語に慣れていなかったが、それが意外と彼の魅力になっていた。
ただ、その愛嬌のある性格とは裏腹に、マイケルの力は圧倒的であった。前回の戦いでは、彼一人でほとんどの敵を討ち取ってしまったのだ。
「今回は神の従者さんいませんね」
マイケルが言うと同時に、湊の横を慈愛の従者が慌てたように駆け抜けていった。そして、皆の中心に位置する場所に陣取る。
慈愛の従者は湊とオリビアの顔を交互に見た後に、フードの下の口角を上げる。それは何か嬉しいことがあったかの様でもあった。しかし、その様子を見ていた、悠太が彼女を怪訝な表情で見つめる。
「んっ? あれ? 前回と雰囲気変わりました?」
「か、神の従者は、何人かいるので、前回の人とは別なのです」
慈愛の従者はそう言うと、顔を俯ける。
「魂の戦いがはじまります。本当にごめんなさい。今回は元の世界の奥多摩で戦ってもらうことになるのです・・・」
慈愛の従者は深々と頭を下げる。今までの神の従者は高圧的で近づきがたい雰囲気を持っていたが、彼女は好感が持てる人物であった、湊は質問を投げかけてみる。
「元の世界の奥多摩は、どうして白いのですか?」
「神様の創造がうまくいっていないのです。創造とは、神様でもむずかしいのです。創造先にも元にも、おかしなことが起きちゃうんです」
「えっ、神様なのに?」
「そうなのです。じゃあ、お相手の《冷の世界》の参加者を教えますね。小林湊さん、オリビア・ブラウンさん、田中悠太さん、《草薙慶次》さん」
慈愛の従者は、魂の戦い前の説明に話を進めてしまったため、湊の質問攻めは終了してしまう。
前回のことを思い出し、湊は考えを巡らせた。各世界には名前がつけられているのだろうか。冷の世界とは温度が低い世界を指しているのだろうか。しかし、その具体的な意味は、湊には理解ができなかった。
相手の世界の参加者は、大体がこちらと同じ顔ぶれのようであったが、草薙慶次だけが異なる存在であった。しかし、その名前に湊は聞き覚えがあった。彼は自らの脳裏にある映像を検索したが、はっきりとした解答は導き出せなかった。
その時、オリビアが驚きと理解が混ざったような表情を浮かべ、湊を見つめてくる。
「草薙君って、あの高校が一緒だった?」
オリビアの言葉で湊の脳裏に、高校時代の記憶が再生される。その中で、草薙が友人たちにマジックを披露している光景が浮かび上がってくる。
草薙の金髪に染め上られた髪は、前髪を額のあたりで跳ね上げており、そのことが彼の鋭利な目元を一層際立てていた。彼の外見も性格も不良の雰囲気を思わせたが、仲間を大切にする性格も持ち合わせていた。そんな、草薙も魂の戦いに参加しているのだろうか。
「知り合いがいたの?」
悠太が怪訝な表情をしながら、湊に視線を向けてくる。湊とオリビアは同じ高校であったが、悠太は別の高校に通っていたため、その反応は当然といえた。
しかし、悠太がどの高校に通っていたのか、湊の記憶からはその部分が抜け落ちていた。幼馴染の高校の名前が頭に浮かばないとは、どういう訳だろうか。この不可解な出来事に湊はどこか気持ち悪さを感じ、彼は悠太にそのことを問い掛けることにする。
「悠太って、どこの高校だったっけ?」
「ん? 忘れるなよー。・・・あれ?」
悠太の答えは湊にとって衝撃的だった。自分の通っていた高校の名前を忘れることなんてありえるのだろうか。
その時、慈愛の従者が、悠太に視線を向けてくる。
「谷地下台西高校だったのです」
「・・・そう。そうだ。谷地下台西高校だよ。忘れたのかよー」
慈愛の従者の言葉に、悠太が続くが、明らかに異常な光景である。確かに、慈愛の従者の言葉を聞き、湊もその高校名が正しいように思えてきてはいた。しかし、それは、彼の心の気持ち悪さを増大させただけだった。
「それでは、わたしは、そろそろ、さよならしますね。前回みたいにピッピっと音がしたら、スタートなのです・・・」
そこで、湊は神の従者に伝えるべきことがある事を思い出す。幸いな事に目の前にいる慈愛の従者は、この戦いに消極的だ。彼女を通じて、魂の戦いを中断させることが出来るかもしれない。
「慈愛の従者さん。魂の戦いを中止にはできないですか?」
湊がその言葉を口にすると、慈愛の従者が湊を見つめてくる。その口元には悲しげな心境が表現されているように思えた。
「ダメなのです。神様の言うことは聞かないとならないのです。それに、世界は一つにするしかないの・・・」
慈愛の従者の声は機械的ではあったが、悲痛が含まれているように思えた。
「でも、世界を消すなんて、残酷だとは思わない?」
「そう、やめるべきなのです。・・・分かってるもん。でも・・・」
慈愛の従者の声だけが残り、彼女の姿が徐々に消えていく。それは、徐々にその者の色彩が抜けていき、透明に染まっているようであった。
慈愛の従者の姿が完全に消えると、同時に湊の腕に巻きつけられた時計が鳴り響き出す。この音が耳に届くたびに、湊の心は掻き乱される。これから、あの不毛な戦いが始まり、自らの世界か、別世界か、どちらかが消滅することになるからだ。
湊の目の前に立っていた悠太が、彼に向かい歩を進めてきたかと思うと、湊の肩に手を置く。
「その考えは俺も同意するよ。ただ、まずは相手の攻撃に対処しないと。教会の中に敵はいなかったよね?」
湊が首を縦に振ると、悠太は彼に背を向ける。
「湊とオリビアは教会の近くにいて。俺とマイケルさんは彼らの盾になりましょう」
悠太とマイケルは教会を背にしたかと思うと、静かに湊が先ほど歩いてきた道を進んで行く。この戦いに彼らを巻き込んだのは湊だ。彼らだけを戦いの恐怖に晒させる訳にはいかない。
「二人だけに危険なことをさせられないよ」
湊が去り行く、悠太の背中に言葉を投げかけると、彼が振り向いて来る。その顔には太陽のように輝いた笑顔が浮かんでいた。
「いや、俺らに守らせてくれよ。純粋なお前らのこと好きなんだよ」
すると、悠太の隣にいたマイケルが、同意するように彼の肩を数度叩く。
再び、二人は戦場に向かう戦士のように、木々に囲まれた道を歩み始める。湊は彼らの背中を見て、頼もしさを感じる反面で、深い不安を感じていた。まるで、彼らと二度と会えないような予感がしたのだ。隣にいるオリビアも、両手を胸に抱え、憂いを帯びた顔で彼らの背を見ていた。
その不安が現実となるかのように、一本道の先から、凄まじい速さの足音が聞こえて来る。そして、その音の主の正体はすぐに判明する。
勢いよく、湊たちの方に駆け寄ってくるのは悠太の姿であった。しかし、湊と馴染み深い悠太は彼の目の前で立ち止まっている。彼らに向けて駆けてくる悠太は、別世界と頭に付け加えるのが正しい表現だろう。目の前の悠太とマイケルは、腰を落とし、警戒するような姿勢をとる。
「ここは私が! 悠太さんは二人を守ってください!」
マイケルが手を伸ばし、悠太を制すると、彼自身は数歩前に出る。すると、別世界の悠太が、立ち塞がるマイケルを目指して駆け込んでくる。
別世界の悠太とマイケルは林道で対峙すると、手四つでお互いの手を握り合った状態になる。
しばらく、二人が手を握り合った膠着状態が続いたが、次第に別世界の悠太の背中が反り始め、マイケルが前のめりになっていく。
だが、別世界の悠太は劣勢を覆すかのように足を振り上げ、マイケルの腹部にそれを叩きつけてくる。しかし、その攻撃を受けてもマイケルは両の手で掴んだ手を離すことがなく、両手を徐々に上に持ち上げて行く。すると、別世界の悠太の足が地面から離れて行く。そして、彼の足が空を向き始めたかと思うと、マイケルは力強い動きと共に、別世界の悠太を地面に叩きつける。
大きな音が湊の耳に飛び込んできたかと思うと、彼は恐る恐ると、地面に叩きつけられた別世界の悠太に視線を向ける。
すると、そこには異質な光景があった。地面に横たわっている別世界の悠太の身体が半透明になっているのだ。その光景は、前回の魂の戦いで、マイケルの攻撃を受けた、力の世界の者たちに起きていた現象と酷似していた。
湊は別世界の悠太の容態が心配になってくる。彼がオリビアに視線を向けると、彼女の目も同じ想いを写しているように見えた。彼女が静かに頷くと、二人は別世界の悠太の手当てに向かうために、歩を進めようとする。
しかし、別世界の悠太が身体を震わせながらも立ち上がろうとしていた。彼の顔には狂気を混ぜた笑みが浮かんでおり、その顔を見た湊は、自らの世界の悠太との違いに息を飲んだ。
別世界の悠太が立ち上がると、彼はマイケルを睨みつける。それに負けないように、マイケルも視線を合わせる。
「まだ、やりますか?」
「当たり前じゃんか。優秀な俺が負ける訳がねえよ」
悠太の返答を聞いたマイケルが、着ていたティーシャツを脱いで投げ捨てる。すると、彼の彫刻で刻まれたような筋肉が顔を出す。上半身裸になった理由が、湊には理解できなかったが、気分が高揚したためだろうか。
その瞬間、別世界の悠太は右腕を振りかぶり、マイケルの顔面に拳を繰り出す。それを受けたマイケルの頭はわずかに右へとずれたが、すぐに身体を低く沈め、両手を交差させて、悠太の腰を掴む。そして、一気に立ち上がる。すると、悠太の身体は頭部が地面に向かい、足が天を指していた。
マイケルはそのまま、自らの体重を利用して、勢いよく地面に座り込んだ。そのため、悠太の頭部は強く地面に打ち付けられた。現実世界では、殺人罪に問われかねないような危険な技だろう。
凄惨な現場を目にした、湊とオリビアは、マイケルたちが戦っていた場所に勢いよく駆け寄る。
湊たちがマイケルの近くまでくると、首が異常な角度に曲がった別世界の悠太の姿が地面に横たわっていた。彼の身体は、殆ど透明に近い色合いに変わっていた。
オリビアが膝を地面につけると、別世界の悠太の身体に優しく手を当てる。その瞬間、彼女の手から優しい光が放たれる。湊は前回の魂の戦いでも、オリビアの神秘的な力を目の当たりにしていた。以前は、これで、軽傷を負ったマイケルの身体は色を取り戻したのだが、今回の悠太の身体には色彩が戻ってこなかった。
「や、やりすぎましたかね…」
マイケルが頭をかきながら、反省するような顔をしていた。それは事実かもしれないが、湊にはマイケルを責めることは出来なかった。彼も湊たちを守るために必死に戦っているのだ。
すると、別世界の悠太がオリビアの手に自らの手を重ねる
「・・・オリビア。やっぱ、俺じゃダメか。金もある。素敵な住居もある。どんなに冷たくされても、あいつのことが・・・」
その言葉を最後に、別世界の悠太の身体が霧のように消えたかと思うと、その場所から光り輝く玉のようなものが浮かび上がってきた。そして、それは導かれるように、湊の世界の悠太の身体に近づいてきたかと思うと、その姿を消してしまう。
湊たちの間に、しばしの沈黙が走ったが、それを打ち破るように近くの木が大きく揺れる。一本の木だけが揺れており、ただの風とは思えなかった。
「田中さんを倒すとはやるね」
湊が声のした方向に視線を向けると、道の先から、こちらに手を向けている草薙の顔と、別世界の湊とオリビアの姿があった。
遠目ではあったが、湊の記憶の中の草薙と、目の前にいる彼は違う姿をしていた。彼の髪は中心で分けられており、ジャージのような服を着ていた。かつての不良のような雰囲気は、すっかり消え失せていたのだ。
再び、草薙がこちらに手を向けてきたかと思うと、今度は悠太の足が僅かに宙に浮かび、背後に移動させられる。それは何か不思議な力に身体を押されたように思えた。その不可思議な現象に遭遇した彼の目は大きく見開いていた。しかし、その目は徐々に吊り上がり、そして、眉間に深いしわが刻まれて行く。それはマイケルも同様で、敵意のある視線を敵に向けていた。
その光景を目の当たりにした湊は直感する。このまま進んでは、戦いが激しくなり、お互いに犠牲者が発生してしまうだろう。湊は深く息を吸い込む。
「皆さーん! 戦いをやめましょう! みんなで仲良くしましょうよ」
湊が声を上げると、相手の世界の住人たちの歩みが止まる。湊は説得に応じてくれたものだと感じていたが、彼らは教会の方を指差しているように思えた。湊は背後にある、教会の方に視線を向ける。そこには、教会の前で煙草を咥えている神の従者の姿があった。前回の戦いで破壊の従者と名乗っていた者だろう。
「かっかっか。ちょっと、戦いの中断だ! お前は前回の戦いでもそんなことを言っていたな。無駄だぜ。この戦いの根本を忘れたかよ。魂の戦いは必要なんだよ。世界が元に戻んねえからな」
「でも、貴方たちも平和な世界を築こうとしているんでしょ? もっと良い方法があるよ」
「そんな甘っちょろい考えもできなくなっていくぜ。勝とうが負けようがお前は自分を失うんだよ」
「自分を失う?」
「忠告はしたぜ。消えたいんなら、説得を続けな。じゃあ、戦いの再開だ!」
破壊の従者はその言葉を最後に徐々に色を失って行く。
破壊の従者の姿が完全に姿を消した後、戦いが再開されるかのように草薙たちが湊たちの方へと歩んでくる。その姿が湊の視界に映った瞬間、緊張が走った。
「湊さん。話し合いはノーっぽいですね。私が行きまーす」
「いや、俺もフォローするよ。二人はここに残って!」
マイケルと悠太は別世界の草薙たちに向け、一本道を駆け出して行く。二人には忠告されていたものの、湊も彼らに任せっきりにするわけにはいかなかった。湊も彼らの後を追って駆け出し始める。
マイケルは悠太に先駆けて草薙の元へ到達する。彼は力強く右足を高く振り上げ、草薙の顔目がけて蹴りを放つ。大きな音が周囲に響くと、湊は思わず視線を背ける。巨体のマイケルからの蹴りが直撃すれば、只では済まないだろう。湊は心の中で草薙の安否を気にかける。
しかし、湊の想像とは裏腹に、草薙の顔には一切の変化が見られなかった。湊が目を凝らして視線を向けると、草薙の顔とマイケルの足の間には光の壁のようなものが形成されており、それが攻撃を遮断しているように見えた。
マイケルの瞳は驚きで広がり、驚愕の表情が露わになっていた。しかし、彼はすぐに足を下ろし、右の拳を固め、それを草薙の顔に叩きつける。だが、またしても白い壁がそれを妨げてしまう。草薙はつまらなそうに欠伸をする。
「終わった?」
草薙が眠たそうな声をあげると、手をマイケルに向けてくる。すると、マイケルの動作が止まったかと思うと、彼の身体が空に舞い上がって行く。
それを見た湊は自らの目を疑う。人間が重力を無視して浮かび上がることなど、現実では考えられない。まるで、漫画かゲームの世界でしか見られない光景がそこには広がっていた。
その光景を見た湊に悪い予感が浮かび上がってきた。草薙は上空高くからマイケルを地面に叩きつける目論みがあるのではないだろうか。凄惨な結末を阻止しなければならない。
「マ、マイケルさんを助けないと」
しかし、湊に先駆けて悠太が草薙に身体ごと突進して行く。しかし、その攻撃は、またしても光の壁が遮り、悠太がその場で尻餅をついただけで終わってしまう。
草薙が悠太の方に視線を移した瞬間、マイケルへの手とは逆の手を倒れている悠太に伸ばしてくる。その次の瞬間、悠太の足が地面から持ち上がり、教会の方向へと一直線に吹き飛ばされた。空中に舞っている悠太の身体は、透けているように見えた。
悠太が教会の近くまで吹き飛ばされると、再び、草薙は上空に浮かぶ、マイケルに視線を向ける。そして、彼に向けている手をゆっくりと閉じて行く。
「イタタタ!」
突如、宙に浮いているマイケルが悲鳴を上げ始める。それは、まるで、大きな巨人の手に握りつぶされているようにも思えてくる。草薙は退屈そうな表情を浮かべると、手を地面に向けて力強く振り下ろす。その瞬間、マイケルが勢い良く地面に落下し始める。
湊はその光景に驚愕する。このまま、マイケルを地面の餌食にする訳にはいかないだろう。彼は勢いよく落下地点に駆け出したが、それは全く間に合わなく、大きな音と共に砂埃が宙に舞う。
「マイケルさん!」
湊はマイケルの落下地点まで辿り着くと、彼を見つけようと周辺を探したが、白い砂埃がそれを邪魔してくる。湊は目を凝らしながら首を左右に振る。その時、倒れている男の姿が視界に入ってくる。湊が慌ててその場に駆け寄ると、身体が半透明になり、地面に横たわっているマイケルの姿が飛び込んできた。
湊はオリビアと同様の力を使えないかと考え、地に膝をついてマイケルの身体に手を置いた。しかし、オリビアとは違い、彼の手から光が放たれることはなかった。
湊が肩を落とすと、背後から足音が聞こえてくる。
「試合を終わらせてもいいの? もう少し楽しみたかったんだけどね」
湊が振り返ると、そこには彼を見下ろす草薙の顔があった。彼は歪んだ笑みを浮かべており、その隣にはオリビアの姿があった。彼女はまるで恋人のように、草薙の肩に両手を置き、自らの体重を預けていた。
「草薙君すっごーい。悠太より素敵だわ! 早く片付けちゃってー」
そこに立つ女性は湊の記憶の中のオリビアと異なっているように思えた。それを証明するように、彼女の顔には鮮やかな化粧が施され、肩を露出したノースリーブのトップスを身に纏っていたのだ。
「なら、残念だけど、このゲームを終わらせよう」
草薙が座り込んでいる湊に手を向けてくる。湊はマイケルのように空中に打ち上げられるのか、はたまた風に舞うように吹き飛ばされるのか。頭の中で次から次へと悪夢のようなシナリオが浮かび上がるが、湊にそれを防ぐ手立てはない。彼は覚悟を決め、静かに頭を垂れた。
その瞬間、輝く何かが草薙の方へと飛び込んできた。接触の瞬間、明るい光の壁が形成されるも、それはガラスが砕けるように粉々になった。光に撃たれた草薙の体は地面から浮き上がり、近くの木々の中の茂みへと放り出される。同時に彼のそばにいた別世界のオリビアも、悲鳴をあげながら地へと崩れ落ちた。
草薙を吹き飛ばした光は、徐々に輝きを失っていき、そこから悠太の姿が現れる。彼の身体は透明に染まっておらず、力強く色合い鮮やかに輝いていた。
「湊とオリビアは己の身に変えても守る!」
悠太はその言葉を放つと、倒れている別世界のオリビアに鋭い視線を送る。彼女はその視線に驚き、慌てて立ち上がり、逃げるようにその場を後にしていった。
悠太は周辺を一瞥した後に、倒れている湊に手を差し伸ばして来る。湊が彼の手に自らの手を重ねると、力強く立ち上がらされた。
湊が身を起こすと、悠太が教会の方を指差していた。湊がその方向に視線を向けると、そこには、彼らに向かって駆け寄ってくるオリビアの姿があった。
「マイケルさんも手当てしたいらしい。オリビアを匿ってくれ。俺は草薙を」
その言葉と共に、悠太が木の間の茂みに視線を向けると、彼の目が大きく見開く。その瞬間、彼の身体が宙に浮かんだかと思うと、後方に勢いよく飛ばされ、反対側の木に勢いよくぶつかる。彼は背中から木に寄りかかり、膝を落としていく。
「湊、悠太!」
オリビアが湊の隣に到着すると、彼女の乱れた息遣いが耳に届いて来る。そして、その瞬間、木の茂みから草薙が姿を現す。
「戦いは楽しみたいけど、復活されんのは面倒だね」
草薙がゆっくりと手をオリビアに向けて伸ばす。湊は阻止しようと身を投げ出し、彼女の前に立場だろうとしたが、それより早く、オリビアの身体は風に吹かれる紙のように、教会に向かって飛んでいってしまう。その悪夢のような光景は、彼女が教会の付近の地面に転がるまで続いた。
湊の内なる時間が止まる。彼の目は大きく見開き、胸の鼓動が速まるのを感じた。そして、下ろしている両腕は、彼の意思に関係なく震え出してきていた。
湊は生まれて初めて、力を欲していた。そう、目の前の男を倒せるほどの力を。彼は鋭い視線を草薙に向ける。
その時、湊の背後から眩いほどの光が放たれる。
「野郎! よくもオリビアを! あいつは俺の命にかけても守る!」
その声に続くように、再び輝く悠太が湊の横を風のように駆け抜けて行く。草薙が彼の方向に手を向けると、悠太の足が止まる。だが、先ほどまでのように後方へ吹き飛ばされることはなかった。
「湊、オリビアを!」
悠太の言葉を聞き、湊はオリビアの元に駆け出して行く。一瞬、草薙がこちらに視線を向けてきたが、すぐに悠太の方に視線を戻し、湊の行動を黙殺してくる。
湊は教会に向けて疾走したが、その目には警戒の色が滲んでいた。別世界の湊とオリビアがどこにいるか分からない。彼らの襲撃の可能性も十分に考えられるだろう。ただ、そんなことを気にしている余裕は湊の心にはなかった。オリビアが危機にさらされている。彼女を守るのは彼の役目だ。
教会の前にたどり着くと、湊の眼前には全く動きを見せない、透明に染まったオリビアの姿があった。彼は泣き出しそうな顔で、彼女の前で跪くと、彼女の膝裏と肩に手を回し、オリビアを優しく抱きあげる。そして、教会の方に歩を進め始める。
教会の前までたどり着くと、湊はオリビアを抱き抱えたまま、罰当たりを承知で足で扉を開く。すると、扉の中から、聖堂の光景が湊の視界に飛び込んでくる。
湊は聖堂に足を踏み入れると、近くの椅子まで歩を進める。そして、そこの上にオリビアを優しく下ろし、動かないオリビアの頭に手を当てる。彼に回復の力があれば、どれほど、心が救われることだろう。彼女の透けた身体は、湊の心を悲しみの底に落として行った。教会の窓から入り込んでくる白い光が彼らを照らすと、聖堂には静寂が広がり出す。
その静寂を破るように、再び扉が開くような音が湊の耳に届いて来る。湊が扉の方向に視線を向けると、そこには、別世界の自分とオリビアの姿があった。彼らは薄笑いを浮かべながら、こちらに歩み寄ってくる。
「安心してくれ攻撃の意思はない。俺は女性を傷つける趣味はないんでね。ここで、争うのはお互いにとって損だ。大人になって考えれば分かるだろ?」
湊としてもここで騒ぎを起こしたくはなかった。しかし、戦いを止めれば、この悲惨な騒ぎは終了するのだ。
「戦いを止める事は出来ない? 人を傷つけるのはいけないんだよ」
湊の言葉を聞くと、別世界のオリビアが歪んだ笑みを浮かべる。
「ダッサ。何この湊? モテなそう」
別世界のオリビアが湊を指差して、品のない声で笑い出す。それを見ていた別世界の自分が仏頂面を浮かべていた。
「俺が恥をかくだろ? 子供みたいなことを言うなよ。それよりも聞いてくれ。お前がどんな魂力を持っているか分からない。俺はリスクを避けたいし、手を汚したくない。だから、これから、お前は一人で外に行くんだ。そして、そこで草薙に消されて来い」
その声は、同じ湊とは思えない、氷のような冷たさを含んでいた。
「断ったら?」
「すぐに、お前もそっちのオリビアにも危害を加える」
別世界の自分の言葉と同時に、大きな音が湊の耳に届いてくる。その大きな音に、湊の心は一瞬、悠太の顔を思い浮かべた。湊の瞳はより一層の決意を映し出し、彼は教会の扉へと足を進め始める。
「約束は守ってね。オリビアに手を出さないと・・・」
「最初に言ったろ? 女性に手を出す趣味はない」
湊にはその言葉を信じるより他になかった。彼は教会の扉の前までくると、それを両手で押し、外へと足を踏み出す。
湊の視界の中心に、教会の近くの木に打ちつけられている悠太の姿が現れる。だが、悠太はすぐに身を起こし、草薙の方向へと駆け出して行った。彼の身体は前のように明るく輝いていたが、それと同時に、透明になっているように見えた。
悠太が草薙の元へと駆けつけると、彼の顔めがけて左拳を連続で繰り出す。しかし、以前とは違い、その攻撃は光の壁に阻まれてしまう。魂の損傷の影響で、彼の魂力が低下しているのだろうか。
悠太は右腕を後ろに引き、瞬時にそれを草薙の顔に伸ばすが、それも光の壁に阻まれてしまう。草薙が面倒そうに手を横に振ると、悠太が横方向に吹き飛び、勢いよく木に衝突する。その衝撃で、悠太の身体は更に透明度が増してしまう。
湊の心の中が熱く燃え上がり、二人が戦っている場所へと駆け出しはじめる。その激しい足音が、草薙の視線を彼に向けさせる。草薙は視線を湊に向けたまま、悠太に手を向ける。すると、彼の身体が宙に浮いてしまう。
そして、草薙が湊の方に手を伸ばしてきたかと思うと、悠太の身体が勢いよく彼に向けて飛んでくる。湊は急いで両手を広げ、飛んできた悠太を抱え込んだ。
「わ、悪い・・・。でも、もっと下がっていてくれよ」
悠太が湊の手から地に降り立ち、彼に背中を向けて前に立つ。その背中は、殆ど色を失っているように見えた。その彼の身体は、このまま遥か彼方に消え去ってしまうように見えた。
湊の顔に決心の色が滲む。もう、悠太を草薙の遊び道具にさせたくはなかった。湊自身が草薙に消されれば全てが終わるのだ。
「俺に作戦があるんだ。だから、もう、悠太は休んでいてよ」
湊が教会に指先を向けると、悠太が微笑する。
「俺がお前を守るのは、湊が敗北条件だからじゃないよ。お前らには生き残ってもらいたいんだ。子供みたいなお前らを見ていると、色々思い出させてくれるんだよ」
「こんな時に、何を・・・」
「お前らはそのまま変わらないで生きていてくれ。そして、お前らの将来を俺に見せてくれよ。なっ」
悠太は湊の方を向き、優しい笑みを浮かべる。しかし、その瞬間、彼の背後から迫る足音が湊の耳に届く。
「もう君らの負けは確定だからさ。興味本位で見ていたけど、話が長いよ。そろそろ、いいかな?」
すると、悠太の表情が急に険しくなり、湊を強く突き飛ばした。湊は足元を取られ、地面を滑って行く。それと同時に、悠太が草薙に向け、猛然と駆け出して行くのが目に入った。それは、決死の突撃に思え、湊の心に不穏な予感が浮かび上がって来る。
悠太は草薙の元にたどり着くと、彼の背中に両腕を回して抱きつく。すると、草薙が嫌そうな表情を浮かべる。
「あのね。男に抱き付かれる趣味なんかないよ」
「男に惚れるってのも悪くないぜ! その人間のためなら死ねるほどな」
突如、悠太の身体が光り輝き出したかと思うと、それは二人を包み込むほど広がって行く。それは、彼らを円で囲むように広がっていった。
その異常な状況に草薙も異変を感じたのか、悠太を引き離そうと手を動かし出す。その光景を見ていると、湊の胸が高鳴り、心が大きく騒めき始める。
「悠太! 止めてくれ」
しかし、湊の言葉は届かずに、二人のいる場所から眩い光が天に向かって立ち昇る。湊の目には涙が溜まっており、それがゆっくりと溢れ落ちていった。
光の中の光景は徐々に鮮明になりつつあった。湊には急いで駆け寄りたい感情と、その状況を目に収めたくないという、相反した感情が芽生えてきていた。
湊がゆっくりと歩み寄っていくと、その場には透明に変わりつつある悠太と草薙の姿が横たわっていた。二人からは生気を感じることができなかった。さらに、彼らの身体の色彩は徐々に薄れていくように見えた。
湊は悠太の元へ急ぎ足で駆け寄り、彼の身体を抱き起こした。湊の顔は涙で無惨なものに変わり果てていたが、その彼の顔に悠太が手を伸ばしてくる。
「・・・じゃあな、親友。オリビアを頼んだ・・・」
すると、悠太の身体が霧のように消えていったかと思うと、その場所から、光の玉が浮かび上がる。それは、迷子のように一瞬漂ったかと思うと、天高く飛んでいってしまう。まるで、悠太の魂が天に帰っていったように見え、湊の両の目から、熱い雫が何滴も溢れ落ちて来る。
「悠太。悠太ぁ」
湊は立ち上がったが、現実を感じられなかった。彼の頭の中は空っぽになり、足は震えて役目を果たせずにいた。
その時、湊の耳に扉が開くような音が飛び込んでくる。彼がその方向に視線を向けると、そこには、教会の外に姿を現した別世界の自分の姿があった。
「ちっ、なんか音がしたと思ったら・・・。結局、俺がやらないと駄目か」
別世界の自分が湊に迫ってくる。彼は右腕を大きく振りかぶり、強烈な一撃を湊の顔に繰り出してくる。その瞬間、湊の顔に熱いものが走り、彼は顔を手で抑える。
「くっ。草薙君も大変なことになっているじゃないか。一度、戦いを中断しよう」
「そんなにベソをかくなよ。みっともない。あんな男はどうでもいいんだよ。ただ、使えただけだ。俺に手間をかけさせやがって」
別世界の自分は冷たい視線をこちらに向けてきていた。彼は自分と同じ魂を元にして、生まれた存在である。彼の目に携えるものは湊自身にも存在するものなのだろうか。
「貴方はそれで幸せなのか? みんなを大切にしないと」
「お前を見ていると苛々してくる。そんな考えが必要か? 大人になって生きろよ。人を大切にしても何も返ってこないぞ」
湊の心には悲しみに加え、無力感が込み上げてきていた。力なきものが吐く言葉には、所詮、何の価値もないのだろうか。
しかし、このまま、湊が何もせずに敗北するわけにはいかない。彼の脳裏にはオリビアの顔が浮かび上がって来ていた。彼にも守るべきものがあるのだ。
湊はボクシングジムで習った構えをしたかと思うと、別世界の自分に拳を叩きつける。
しかし、湊の拳は見えない壁に阻まれ、空中で停止してしまう。そこには、草薙の光の壁とは異なる、透明な壁があるようであった。
「俺も壁を作ることが出来るんだよ。俺の魂の在り方が心の壁ってことかもな」
その言葉を聞き、湊の心の中から希望が失われ、彼はその場にうずくまってしまう。悠太が語っていたある結末を、今はもう天にいる彼に伝えることは叶わなくなったかもしれない。
「もう、お前は終わりだ。さよなら」
別世界の湊が、うずくまった湊の前に手を伸ばしてくる。
もはや、湊達の世界は終わりかもしれない。
だが、悪いことばかりではない。湊があの世に足を踏み入れれば、悠太に会うことが出来るのではないだろうか。このまま、彼が破れれば、失われた親友に再会することができるかもしれないのだ。
そして、目の前の別世界の湊が、彼の代わりとして生き延びることができるならば、湊の敗北は決して無駄ではないはずだ。
湊がゆっくりと目を瞑ると、暗闇が彼の世界を支配する。そこは物音ひとつせずに静かな世界であった。僅かな時間なのだろうが、悠久の時が流れているように思えてくる。死後の世界もこういった場所なのかもしれない。
しかし、突如、静寂を破るような物音が湊の耳に届いてくる。すると、彼の時間は再び動き出し、ゆっくりとまぶたを開ける。
湊の目の前には、うつ伏せに倒れている、別世界の自分の姿があった。彼の身体は透明に染まっており、微動だにせずに横たわっていた。そして、その姿を見下ろすように立っている男がいた。それは、マイケルの姿であった。
「Yes! さっきの超能力男のような強い壁は無いようね」
マイケルが拳を固めて、自らの腰に肘を当てる。そして、湊に視線を向けてきたかと思うと、嬉しそうな笑みを浮かべてくる。
マイケルは湊に向けて歩を進めてくると、優しい表情で手を差し伸べてくる。湊はその力を握り、力強く立ち上がる。
「マイケルさん、良かった!」
湊はマイケルが無事だったことで、心が躍る。
「本当良かたです。あれ? でも、オリビアさんと悠太さんは?」
マイケルは首を左右に振りながら、怪訝な顔を浮かべていた。彼が目覚めた時は悠太の姿は消えてしまっていたのだろう。湊の瞳から涙が溢れ落ちると、マイケルは驚きの表情を浮かべる。
「どーしました? ・・・まさか、二人が?」
大切なものを失ってしまった悲しみが、湊の瞳から溢れる涙となって流れ落ちた。その瞳は、悠太が最後にいた場所を見つめた。そして、その視線の先には、鮮やかな化粧を施した別世界のオリビアが立っていた。彼女の緋色の唇は妖艶さを放っていた。
湊がその場所に足を進めると、マイケルも追従してくる。神秘的な力を持つオリビアなら、悠太を救う方法を知っているかもしれない。また、この戦いでは悠太だけでなく、多くの傷ついた者たちがいる。彼女の力で、彼ら全てを救ってくれるのではないかと湊は期待を抱いていた。
湊が別世界のオリビアの近くにたどり着くと、彼女の瞳には警戒と緊張が滲んでいた。その緊張を和らげようと、湊は優しい笑顔を向けた。
「ごめん。みんなを回復してくれないかな?」
「回復? 手当の道具でもあればできるかもしれないけど・・・」
別世界のオリビアには魂力で回復という概念がないのだろうか。しかし、元の魂は同じものなのだ。彼女の中に秘められている力があるかもしれない。
しかし、そんな湊の期待とは裏腹に、彼女の瞳には憎しみの炎が灯った視線を彼に向けてくる。
「貴方の世界のせいだわ。草薙君も悠太も・・・。そして、湊も」
その言葉に湊の心の奥底に針が刺して来る。「戦うしかなかった」という言葉は、言い訳にもならないだろう。
「オリビアさん。貴方たちが戦いを始めたでしょ。湊さんは悪くないよ」
マイケルが憤慨した口調で言うが、別世界のオリビアは納得がいかないような表情で、湊たちに鋭い視線を向けて来る。
「安心しろよ。お前もあいつらの元に行けるぜ。勝者の世界に融合されっからな」
突如、無機質な声が響き渡る。
その時、湊を睨んでいる別世界のオリビアの隣に、半透明の破壊の従者が姿を現す。その従者の身体は、消えていった悠太とは逆に、次第に色が濃くなって来ていた。彼の身体の色が戻ってくると、破壊の従者は口に咥えた煙草を手で持ち、煙を吐き出す。
「敗者の魂は勝者の世界に融合されると言ってたね。なら、勝者の世界の悠太の魂はどうなるの?」
湊が破壊の従者に問いかける。
「勝者の破壊された魂は、どこかの世界に融合されると思うぜ。お前らの世界からは消えるがな」
破壊の従者の言葉が湊の感情の制御を乱れさせる。彼は自らの頭を掻きむしる。
「何でもいいから、俺らの世界に悠太が生き返る方法を教えてよ!」
「うるせえな。お前を壊すぞ。・・・とにかく試合終了だ。お前の世界の勝ちだ」
破壊の従者が威圧的な言葉を投げつけてくると、湊の身体は僅かに震え始めた。
その時、光の玉のような物が湊の方へと浮かんでくる。それはまるで、何かを求めて彷徨っているように見えた。光の玉は湊の胸に吸い込まれたかと思うと、瞬く間に消えて行く。
すると、湊の心の温度が下がったように感じた。子供のように駄々をこねても事態は解決しないのだ。冷静にならなければならない。彼の瞳から溢れ落ちていた涙も、その瞬間に新たに生まれて来ることがなくなっていた。
「逆らう気はないよ。ただ、悠太の魂はどこの世界に融合されて生きているんだな?」
湊の言葉に、破壊の従者は舌打ちし、その場を後にしようとしていた。湊は彼を追おうとしたが、足がうまく動かないことを感じる。
そして、周囲の景色がゆっくりと変わり始める。
あたり一面が歪み出し、目の前の破壊の従者が不可解な姿に変わっていく。そして、湊の視界は真っ暗に包まれた。
――湊の意識が戻ってくると、彼はゆっくりと目を開ける。窓からの優しい朝日が汚い自室を照らしていた。彼はその部屋の中でテーブルに身体を預けて眠っていたようであった。
しばらく、湊は呆けた顔でテーブルを抱きしめていたが、重い頭は近くにあるスマートフォンを手に取るように命令を下してくる。彼は命令に従いそれを手にすると、その画面には「六時」と表示されていた。一瞬、出社が頭をよぎったが、すぐに今日が日曜日であることを思い出し、肩を撫で下ろす。
日曜日の前日には何か特別なことがあった気がした。そう、不思議な戦いをする日。魂の戦い。そこまで行き着き、湊の脳裏に昨日の出来事が再生され出す。
湊は手に持っているスマートフォンを操作し、悠太の電話番号を探し出そうとするが、そこには彼の電話番号は存在しなかった。そもそも、湊は悠太の電話番号を教えてもらっていたのだろうか。しかし、幼馴染の連絡先を知らなのは考えられないだろう。
湊は両手を頭の上に置き、頭を掻きむしる。荒唐無稽なことを考えていると思いながらも、それを否定できない自分がいた。悠太は幼馴染。しかし、それが今では只の記号のように思えて来てしまっていた。
そこで、湊に一つの考えが浮かび上がる。悠太の電話番号が分からないのであれば、直接、彼の家に訪れれば良いのだ。しかし、その計画はすぐさま頓挫することになる。湊の記憶の中には悠太の自宅が存在しなかったのだ。
湊がそんなことを考えていると、手に持っているスマートフォンから着信音が鳴り響く。彼がその画面に視線を向けると、そこにはオリビアの名前が表示されていた。彼は着信の操作をすると、スマートフォンを耳に当てる。
「もしもし! 悠太の電話が繋がらないの。湊は電話繋がる?」
オリビアの大きな声が湊の耳に飛び込んでくる。彼女の電話には悠太の電話番号が存在するようだ。まるで彼だけが、輪から外されているように思えてくる。
「オリビア。悠太の自宅分かる?」
「確か・・・。あれ?」
オリビアの言葉で、湊の頭は混乱の極みになる。なぜ、お互いに幼馴染の住所が分からないのだろうか。しかし、これも全ての原因は、湊が魂の戦いに二人を巻き込んだためだ。
「すまない。俺が二人をこんな事に巻き込んでしまったから・・・」
すると、二人の間にしばらくの沈黙が走る。
「ねえ、湊。良ければ、そっちに話に行ってもいい?」
オリビアが優しい声で提案してくる。それは湊としても有難いものだった。悠太のことを考えると、一人でいるのが辛く、誰かのそばにいたいと感じていたのだ。
「ああ、是非」
「それじゃ、すぐに支度するね。湊の家の近くにある公園で会いましょう」
「ああ。じゃあ、また」
湊はその言葉を最後に、電話を切る。
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