クレーターホームの深夜ラジオ

武良嶺峰

第1話 高齢老人の一人住まい

 私はいつも一人、潰れた敷布団に寝そべり三年前の深夜ラジオを聞いていた。アンカーのナレーターは穏やかな口調で、今夜は冷えるから毛布を一枚多く羽織ってお休みくださいと伝えた。心地の良い抑揚で続く会話が一区切りすると、落語の小話や著名人のインタビューが放送される。定刻になると必ず流れる、ゆったりとしたジャズミュージック。今夜はジョンコルトレインのサックス、ブルートレインだった。後期高齢老人の住む六畳一間の万年床に、モダンジャズがひっそりと降り積もる。

月面でも地球のラジオ放送が聞こえることは驚きだった。皆、それは自分だけに届けられた至福の時間なのだと思い込み、私もまたその中の一人なのだった。私はラジオを心から愛していた。就寝まで数時間が必要になった私にとって、深夜に二時間、同じ調子で続く深夜ラジオは睡眠導入剤であり、妻に先立たれた寂しい老人の心を癒す僅かばかりの娯楽だった。普段と変わらずラジオをつけ、布団に入ったが一時間経っても眠りにつけない。

眠れない夜は窓一面に広がる流れる彗星の数でも数えて寝ようと思い、天井を見上げた。

私が住むのは萎びたクレーターホームだが、他と同様に天井は厚いガラス張りで狭いながらも快適な住処だった。月面は太陽風の照射、彗星塵の衝突を受け、生身で暮らすには過酷すぎるものだった。このクレーターホームは当時の建付けが良かったのだろう。、ガタは来ず、快適な住処のままだった。私はこの天井からの眺めが好きだった。視界に入るとすぐに消えていく彗星、やけに大きいと思った彗星は大抵月面に落下し、ドーンという衝撃が遅れてここまで伝わる時があった。過去の彗星の落下により今も残る巨大な衝撃盆地が形成されたらしいが私は生まれてこの方そんな大きな衝突を経験したことはなかった。天井越しの彗星を見ているうちに、スネアドラムの定期的な刻み音からサックスの音色のうねりに変わった。バックグラウンドで僅かなピアノのメロディーが聞こえる。

唐突にラジオの音がプツリと消え、浸っていた気分から引き剝がされた。電池が切れたのだろうと私は思った。立ち上がると、半球状の天井の遥か遠く、東縁に鋭く立ち上がったクレーターの最外縁が見える。縁から段々の棚状地形が数キロ続き、次第に平地となる。私の住むクレーターホーム群はその平地に建てられている。人が暮らすのはクレーターの内側で、縁の外側に出たことはなかった。西側を向くと平地の先に小丘のような楯状火山が見える。それがこのクレーターの中央頂である。中央頂には黄色ライトが小さく明滅しており、暗い部屋の中からは、明滅するライトの光が平地に点在するアルベドの高い斜長岩を照らしほんのりとした明るく見える。

ラジオには電源入を示す赤いランプがついたままで、電池が切れた様子はなかった。一度電源を切り再び電源を入れる。それを何度も繰り返してはみたものの、やはりラジオからは何の音も聞こえてこなかった。チューニングのつまみを左右にずらしたが、どの周波数帯でも何も受信できなかった。こういう日もあるものだと思い、寂しいながらも私は寝ることに決めた。

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