第2部 空が飛べる人

 暫くの間、その人は僕を睨んでいたが、また正面に顔を戻すと、そのまま黙ってしまった。気が散るというのは、何の気が散るのかと問い質したかったが、僕の興味もすぐに失せてしまった。しかし、興味がなければ物事に当たることができないというのは、本当だろうか。皆、生きているのは、生きることに興味があるからなのだろうか。


 そうか、彼女は、生きることではなく、死ぬことの方に興味があるから、ここで、こうして、死のうとしているのではないかという荒唐無稽な理屈が、けれど割としっかりとした実感を伴って、そのとき僕の中に飛来した。


 彼女は、僕のクラスメイトだった、はず。はずというのは、僕は人の顔も名前もぼんやりとしか覚えられないから、確かなことは言えない、という意味だ。それに、たとえ人の顔や名前を覚えたとしても、翌日に会う彼や彼女が、前日に会った彼や彼女と同一人物である保証はない。双子かもしれないし、他人の空似かもしれない。しかし、それでも人の社会は回っている。同一人物に違いないという暗黙の了解があるからだ。だから、友人や恋人を信じられる。個人というのは、不変的で、一般的で、唯一的な存在、と捉えられているから。


 午後の授業が始まるチャイムが鳴った。それで、僕の意識は現実に引き戻される。


 今気づいたことだが、これまでずっと昼休みだったのに、校庭には誰の姿も見えなかった。時折吹き抜ける風が芝生を撫でる様だけが、眼前に広がっている。皆、どこに行ってしまったのだろう? 皆、死んでしまったのだろうか? それとも、皆なんてものは、始めから存在していなかったのか。


 斜め数メートル前方にいるその人が、咥え煙草のままこちらを振り返る。人差し指と親指で煙草を掴んで口から外し、声を発した。その声も、また奇麗だった。


「行かないの?」と彼女は言った。


「どこに?」僕は尋ねる。


「教室」風が髪をはためかせ、彼女の表情を一瞬隠した。「授業、始まったよ」


「君は?」


「何?」


「教室に戻って、授業を受けなくていいの?」


 僕がそう尋ねると、その人はまた正面に向き直る。煙草を口に咥え、外しを二三回繰り返した。


「行ったって、どうしようもないよ」


「何が?」


「何もかも」


「どういう意味?」


 数秒の沈黙。


「別に」


 僕は足を動かして、彼女の傍に近寄った。屋上の床は、やはり歩いたという感じがしなかった。何の素材でできているのだろう。水分との関わりが大きいような気がする。


 彼女の隣に立つ。


 その人は、目だけでこちらを見ると、やはり、すぐに正面に視線を戻した。彼女が見ている方を僕も何度か確認したが、特に何かがあるわけではない。でも、人の顔というのは、何もしなければ正面を向いているのが普通で、つまり、重力の影響化にある以上は、人の顔はそういう姿で支配されているとも言えそうなものだ。要するに、彼女は自然体のままでいるだけかもしれない。


 そういえば、彼女は、秀才、あるいは、天才、と呼ばれていた。そのことを僕は思い出した。彼女がそのように呼ばれるのは、テストの点数が良いからでもないし、成績が良いからでもない。彼女はテストを受けない。けれど、テストを受けないと必然的に成績が足りなくなって、そうすると、留年しなければならなくなるから、理由をつけてあとで追試を受けているらしい。追試の場合、通常の日程でテストを受けた場合に比べて、その結果が成績に反映される割合が小さくなる。そして、彼女は学校を休むことが多いから、そもそもの成績が低い。


 では、彼女が秀才や天才と呼ばれる理由とは何かと言えば、それは、言えば、と言っておきながら、言えない、というのが事実だった。何が彼女をそう呼ばせるのか、考えてみても分からない。しかし、そう呼ばせる何かを彼女が帯びていることは間違いない。


 たとえば、彼女は教科書を学校に持ってこない。なぜかと言うと、持ってくる必要がないからだ。では、なぜ持ってくる必要がないのかと言うと、持ってこなくても持ってくるのと同じ状態になることができるからだ。つまり、教科書に書かれている内容をすべて覚えている。いや、それは覚えているというのとは違うかもしれない。意識的に暗記したのではないと思われるから。そう……。ページを開いた瞬間に、それはすべて彼女のものになるのだ。あるいは、ページを開く前から、それは彼女の一部として存在していた。


 彼女がテストを受けないのも、学校にあまり来ないのも、同様の理由による。テストを受けなくても受けるのと同じ状態になることができるし、学校に来なくても来るのと同じ状態になることができる。だから、受けないし、来ない。単純明快。


「死ぬのって、まだ、試したことなかったんだ」と彼女は言った。煙草を咥えたままだったから、少々くぐもった声だった。「想像はしたけど、やっぱり、分からない。それに近い状態というのは経験したことがあるけど、でも、実際に死ぬのは違うと思う」


「だから死にたいの?」僕は尋ねた。


「そういう言い方もありえる」


「どうして、僕にそんなことを話す?」


「さあ、どうしてかな」彼女はこちらを向いて言った。「君にそれを言ったあとの状態になることが、できないからかも」

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