再終章

彼方灯火

第1部 空が見える島

 銀色の柵は今日も輝いていた。いや、本当は輝いてなどいない。「銀色」という表現に触発されて、つい「輝いていた」を導いてしまっただけだ。冬の冷たい空気に晒されて、柵の表面はざらついた表情を見せていた。ざらつきの原因は、水か、金属か、あるいはその両方か。判断はつかなかったが、ともかく、触りたくないと感じさせることは確かだった。


 その触りたくない柵の前に、しかし、その人は座っていた。しゃがんだ姿勢のまま、柵の一本に軽く片手を添えている。ときどき、握る力を強めて、けれど弱めてを繰り返していた。風が吹いて、羽織っているブレザーがはためく。目にかかりかけた髪を、それでも彼女は退けようとしない。軽く目を瞑るだけ。風が治まると、また、目を開けて、柵を握り直して、それでそのまま安定する。


 いや、彼女は本当に安定しているだろうかという問いが、そのとき僕の頭を過ぎった。


 安定とは、一体何だろう?


 人は、安定したくて生きているのだろうか?


 少なくとも、僕の周囲にいる子ども達は、そういうふうに生きているように見えた。大人達はすでに安定しきっている。今日授業を受けた教師も、もうこの先一生不安などまったくございません、という表情で教科書を音読していた。音読することで賃金が貰えるから音読しているのだ、という表情だった。間違いなくそうだったと思う。と、思ってしまうのは、僕が捻くれているからか?


「ねえ」と前方から声。


 屋上のドアの把手を握ったままその場に立ち尽くしていた僕は、声が聞こえた方に意識を向ける。


 その人は、しゃがんだままこちらを目ていた。目だけ顔の表面から乖離して、空中に浮遊しているようにも見えた。その目は、とても奇麗だった、と、思う。水分を多分に含んでいた、と、思う。その水分に塩分がどれだけ含まれていたのかということは、今となってはもう分からないことだが。


 ドアを静かに閉めてから、僕は彼女の方に向き直った。


「何?」僕は尋ねる。


「君は、どうしてここに来たの?」


 彼女がまともに話したのを、僕はそのとき初めて聞いた。教室にいても、誰とも会話をすることもなく、いつもじっとしているのしか見たことがなかったから、不思議な感じがした。その声も、しかし、とても奇麗だった、と、思う。いや、奇麗だ、と、思った、か? まあ、どちらでも良いだろう。どちらにしても、言っていることに変わりはない。


「どうして、というのは?」僕は応じた。彼女がじっとこちらを見ているから、僕も暫く彼女を見ることにした。「君には何か理由があるの?」


「そう」彼女は簡単に頷いた。「死のうと思って」


 僕は周囲を見渡した。特に何もない。空は奇麗に澄んでいて、雲は一つも見当たらなかった。水分の多い筆で画用紙をなぞったような空。空気は純度百パーセントで、吸い込むと喉が痛かった。


「あそう」と僕は応えた。


 ずっと僕の方を見ていた彼女は、そのままの姿勢で一度小さく頷いた。


 この学校は高い丘の上にある。それなのに、眼下の町並を見下ろすことはできなかった。同じ高さの丘がずっと続いているように見える。そうすると、高いとは一体どういうことか。高いとは、つまり、別の場所と比較して高い、という意味だ。別の場所と比較しても高さが変わらないのなら、それは高いとは言えないのではないか。


 ほかの星々と比べると、宇宙の中でこの地球が位置するy座標が大きくて、その地球の中でこの街が位置する円周上の点と、地球の中心を結んだ直線がy軸に一致する、という状況かもしれない。


 天国に近いだろうか?


 高い所から落ちた先は、やはり地獄だろうか?


 屋上の、踏んだ感触がなんだか少し不安な地面の上を歩いて、僕はその人の隣に立った。太陽は見えないのに、影は律儀に生じる。隣に立った僕の影を横から浴びて、彼女は顔を少しこちらに向けた。


「死ぬって、どうして?」と僕は尋ねた。


「別に」と彼女は無表情のまま答える。


 それ以上の応答はない。


 彼女はブレザーのポケットから小さな箱を取り出した。中には煙草が入っているようだ。慣れた手つきで一本を取り出すと、彼女はキャンディーを舐めるようにそれを口に咥えた。風が吹き、彼女の髪を一瞬だけ退けて、煙草を口に咥える、その瞬間だけ、その口もとを僕に見せた。


 煙草を口に入れたまま、彼女は前を見ている。


 その先にあるのは、芝生の校庭と、そのさらに向こうにある少し大きな公園だけ。


「火は?」僕は質問した。


 前を向いたまま、彼女は一度首を横に振る。


「咥えるだけなの?」と尋ねると、彼女は小さく頷いた。


 僕の問いに答えてくれたことが、僕はなぜだか嬉しかった。そして、それだけで、彼女を優しい人間だと思ってしまった。


 燃えていないのに、煙草の匂いがする。


 甘い匂いだった。


「どうして、死ぬの?」僕はもう一度同じ質問をした。


 煙草を咥えて先の尖った口のまま、彼女はこちらを見て、顔を顰める。


「煩い」小さな声で彼女は言った。「気が散る」

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