影負う禍時

@azsun

第1話

坂の多い町だった。

海に臨し山に囲まれた地方の町。大都市の隆盛とは程遠いものの、辺境の地と言うほどの不便は無い。一番大きな商業施設は老舗の百貨店で、屋上遊園地と銘打たれた遊戯場は小遣いを握りしめた子供達や幼子の手を引く家族連れで賑わっていた。

商店街もまだまだ現役で、早朝から大福を丸める老夫婦の店は八つ時前にショーケースが空になっていたし、豆腐屋の移動販売車は景気良く喇叭を鳴らしていた。

平地が少ない地形のため、住宅は町を囲む山にまで及ぶ。

“僕”の祖父母の家はぎりぎり山裾にあり、町と町外れの境目に位置していた。家の横にはぐねぐねとうねる長坂がのびている。街灯の恩恵を充分享受しているとは言い難い道は車一台通れるかどうか、という道幅で、舗装も粗い。

道の終わりには一軒の家が建っていた。

入母屋造りの門と屋敷をぐるりと囲む塀。立派な造りであるが故に長年風雨に晒されてひび割れた瓦や剥落した漆喰がうら寂しい。家も窶れるものなのだと幼心に感じたものである。

そのような有様であるからして、「幽霊屋敷」と呼ばれるのは必然だった。悪戯小僧が懐中電灯片手に肝試しするのは珍しくもなく、かくいう“僕”も祖父母の家に頻繁に出入りしていたから近所の子供と交友があり、誘われて参加したこともある。

門扉は内側から閂でもかけられていたのか数人がかりでもビクともしなかった。塀を登るにしても梯子が要る。仕方が無いので塀のまわりをうろうろとするだけで帰路についた。

帰るなり眉を吊り上げた祖母から思いっきり塩をぶつけられた。

「この子は!坂の上に行ったんでしょう!!」

後ろを指差される。

つられて上半身を捻り、それを見た。

夕陽に照らされているのは自分の影と、夕陽が射す方向からして有り得ない位置に落ちるもう一つ。

首をもげそうなくらい振り乱し、関節を引き千切るようにめちゃくちゃな動きをする奇怪な影。

祖母はもう一つの影に再度塩を投げつける。影は熱湯をかけられたかのように動きを更に狂乱させ、虫のような蠢きで何処かへと逃げて行った。

玄関先の騒ぎを聞きつけて家の奥からのそりと出て来た祖父は眉を寄せて“僕”に訊いた。

「お前、まさか中には入ってないだろうな」

“僕”は門が開かなかったから入れなかった。塀にも登れなかったから中を覗けもしなかったと正直に答えた。

祖父は長い溜息の後「運が良かった」と言った。

「中に入ったら駄目だった。覗いていても危なかった。影がついてきただけで済んだ」

二度と坂の上には近づくなと厳命された。

「一回は見逃されても、次は無いかもしれないからな」

祖母は顔を真っ赤にして“僕”を抱き締めた。細く骨張った身体から震えが伝わってくる。そこでようやく「何か怖ろしいもの」と行き遭ってしまったのだという実感が湧いてきた。

後から聞いた話であるが、同行した子供の一人が実は相当の怖がりで、御守りを持参していた。ポケットの中で密かに握り締めていたそれはズタズタになっていたらしい。

また、ある時は一人の男性が行方不明になった。

酒が入ると素行が不良になることで有名な人物であり、喧嘩を吹っ掛けたり物を壊したりと度々トラブルを起こして問題になっていた。

応対する警官すらも辟易するような男の姿を見かけないことに気づいた人は多かったが、捜索願を出す家族も無い。むしろ無用なトラブルが減って平和になったと笑う人も居た。それでもいよいよ自宅の郵便受けから督促状やら何やらが溢れた頃、ささやかな捜索が行われた。成人男性の失踪など新聞の賑やかしにもならないが、町の隅で骸を晒しているかもしれぬのも気分が悪い。そのような理由で警官と有志たちの共同捜索の運びとなった。

結果として男は見つけられた。

坂の上の屋敷の門の内側。

門扉にもたれかかるように事切れていたーーらしい。

大人達が囁いていた断片によると手の十指は第2関節のあたりまでらしい。つくね状の跡が門扉を著しく汚していたとのこと。

ーー執拗に引っ掻いていたんだってね。

ーー閉じ込められたとでも思ったんだろう。

ーー閂はかかってなかったって話だよ。

ーー酔っ払ってたんだろ。アルコールで頭が駄目になっていたんだ。

ーー酒が祟ったんだな。

酩酊して正常な判断が出来なかった男の自業自得と判ずる声が多かったが、更にひそめた声が交わされる。

ーー馬鹿言え。酒が祟るもんか。祟るのはあの屋敷さ。

ーー無人にしとくのか駄目なんだ。出てきちまう。

ーー行政に掛け合うなりして取り壊せないのか。

ーー滅多な事言うんじゃないよ。業者はどこも引き受けてくれないよ。何人

大の大人達が真剣な顔を突き合わせているものだから子供心にも不安が伝播する。肝試しの帰りについてきた影を思い身震いする。

ーーやっぱり呼んでくるしかないよ。

ーー外からか。

ーー伝手を辿って頼めば……。

幸いにも“僕”の家はこの町ではなかった。共働きの両親が幼い“僕”を一人きりにするのを心配して祖父母に頼んでいたが、成長につれて留守番を任せられるようになれば自然と頻度も減っていく。“僕”もお遣いや洗濯物の取り込みなど家の手伝いを積極的に引き受けるようにしていた。両親はいつの間にかしっかり者に育ってくれたと嬉しそうだった。けれども“僕”は決して良い子ではなく、遊ぶ時間を少しばかり減らしたとしても祖父母の住まう町に行きたくなかっただけだった。

勉強やクラブ活動や家事など何かと理由をつけて毎日を忙しく過ごした。充実した日々を繰り返す内にあの時感じた不安や怖さが遠いものになっていく。

いつかの連休だっただろうか。

久しぶりに“僕”は祖父母の家を訪れていた。

そう、たしか小学校を卒業した春休み。

卒業の報告と、学生服を見せるためだ。

祖父母は歓待してくれた。お祝いだと“僕”の好きな料理を沢山テーブルに並べて何度も「おめでとう」「制服姿を見られて良かった」と喜んでくれた。あまりの喜びように気恥ずかしくなり「名門大学に合格したわけでもないのに」と言うと「いやいや」と祖父は首を横に振る。

「元気でいてくれるだけで嬉しいんだよ」

祖母もうんうんと同意する。

「そうよぉ。本当に良かった。一時はどうなることかと夜も眠れなかったのよ。間に合わないんじゃないかと気が気じゃなかったわ」

「ばあさん。祝いの席なんだからそのくらいに。何にせよ無事で良かった」

やんわりと祖母を窘め、心底安堵したように祖父が言った。言葉の端々に違和感を覚えたが、和やかなムードに水を差したくはない。すすめられるままに料理を食べ、近況報告や中学校で部活動は何をするのかなど話した。

祖父母の家を辞した後、件の屋敷に通じる坂道を見上げた。あの屋敷はどうなっているのか。何となく聞きそびれてしまった。

行こうかやめようか、逡巡する。

気づけばスニーカーの爪先はうねる長坂に向いていた。

ゆっくりゆっくり、蝸牛の這うように坂を上る。門前まで上り切る気は無い。屋敷が見えてきたら踵を返すつもりだった。

途中で小石が靴の中に入ったので片足立ちになる。すると自分以外の足音が坂の上から聞こえてくるではないか。心臓を鷲掴みにされたような心地だった。全身が緊張で硬直する。

ザッ、ザッ、と砂利を踏む音は徐々に近づいてくる。逃げ出すことも出来ずにいると足音の主が姿を現す。

「おや」

その男は道の真ん中で立ち竦む“僕”を珍しげに見下ろした。

祖父や父よりも高い背丈。襟無しシャツに大島紬、袴を合わせた書生スタイルだ。映画フィルムから抜け出たような恰好の男は「こんにちは」と涼しげな目を細めた。

「こ、こんにちは……」

初対面の人物に対する警戒心と後ろめたさが混ざり、モゴモゴと小さな声で挨拶を返した。

「見かけない顔ですね。もしかして迷われましたか。この坂の突き当りは僕の住まいがあるばかりで行き止まりになっています。引き返したほうが良いかと」

多分父よりも若いだろう青年は子供の“僕”に対して丁寧な口調で教える。

「あ……僕はそこの孫で、久しぶりに遊びに来たんです」

“僕”の指差した方角から青年は察したらしい。ポンと手を打つ。

「ああ、どうりで。では僕のほうが新参者か」

「あの、坂の上に住んでるんですか」

「ええ。人伝手に紹介されまして」

にこやかに話す青年の表情に翳りはない。この人は屋敷の事情を知っているのだろうかと思った。

ーーやっぱり呼んでくるしかないよ。

ーー外からか。

いつか聞いた囁きが蘇る。町の住人ならば程度の差こそあれ噂は聞き及んでいるだろうから気味悪がって住まない筈だ。けれども皆が口を噤めば外の人間には曰くなど知るすべもない。

探るような視線に気づいたのか、青年は「幽霊屋敷と呼ばれているんですってね」と事も無げに言う。

「知ってるんですか」

「知ってるも何も、初めから言われましたからね。別段断る理由も無かったので越してきました」

「はあ……」

呆気にとられて気の抜けた相槌しか打てない。

世間には物好きが居るものだ。心理的瑕疵物件であっても頓着しない人なのだろう。

その後は何だか醒めた心地になって“僕”は自分の家に帰った。





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