スタートボタン

篠塚しおん

押せないスタートボタン

 冬弥とうやは、今日発売したゲームのダウンロードが終わるのを、今か今かと待ちわびていた。日本だけではなく、世界中で人気となっているシリーズの最新作だ。

 仕事がある日はだいたい残業で、会社を出るのはたいてい店が閉まった後だ。ひと昔まえなら、何としてでも店に並んで、ゲームソフトを買わなければならなかったのに、ネット注文で日付指定で買ってもいいし、ダウンロード版を買ってもいい。便利な時代になって、大変なことも多いけれど、ゲームを手軽に買えるようになったことは素直に喜ばしいと思う。


 30%、34%、36%、……と、不連続かつ不等間隔に数字が微増していくにつれて、液体が侵入していくように、空っぽだったプログレスバーの左から右へと緑色が進んでいく。

 缶ビールの蓋を開けて、苦い泡と液体を飲み下し、時間を有効活用する。今日は嫌味な上司の天野あまのに長々といびられ、無益な時間を立ちっぱなしで過ごしたせいで、身体も精神も疲労した。あの時間がなければ、無駄に残業せずに仕事を終わらせられるのに。


 同期の女性社員のみなみは、必死に残業する冬弥を尻目に、とっとと帰っていった。その目に侮蔑の光が宿っていたのを、冬弥は見逃さなかった。南は天野に気に入られていて、成績が振るわなくても上司面談の評価は高く、優遇されていた。

 休憩室で、彼ら二人が冬弥の悪口を言っているのを、何度も見かけた。


 転職することも考えたが、就職活動は散々なもので、どれだけ応募企業のハードルを下げてもなかなか内定が出なかった。そんな中、ようやく内定が出たのが今の会社なのだ。そんな経験をすれば、否が応でも慎重になる。

 冬弥にできることは、必死に歯を食いしばって耐えることだけだった。


 そんな冬弥を元気づけるように、自宅のワイファイとゲーム機が気合を入れてくれたようで、ダウンロード状況はすでに90%を超えていた。

 92%、94%、97%、……。じらすように、鈍足になる。98%、99%、……100%。

 ビールを傾けつつも、視線はディスプレイに向けている。

 ソフトのダウンロードがようやく完了した。さっそくゲームを起動する。


 待望のタイトルが現れ、オープニングが始まる。子供の時分より何度も聞いたメロディーにしばし旧懐の情に浸る。一通りの映像と音楽を聴き終え、さあ遊ぶぞと、画面中央に浮かび上がるスタートボタンをクリックする。

 ――が、反応しなかった。


「あれ?」


 カチ。カチカチ。

 何度やっても、待ち望んだゲームは始まらなかった。

 念のために他のボタンを押してみたが、タイトルに戻ってしまったり、ゲーム機のホームに戻ってしまったりするだけだった。

 スタートボタンを押せなければ、どうしようもない。


「なんだよ、ついてねえ」


 ゲーム機の故障なのか、ソフトのバグなのか、原因の切り分けをするのに、他のゲームを立ち上げて、確認してみる。

 なんなくプレイを開始できた。ということは、ソフトの問題だ。


 欠陥品だ。今すぐクレームを入れてやりたいが、カスタマーサポートセンターは今は営業時間外。連絡方法は今時珍しい電話のみで、メールを送ることもできない。

 冬弥は、目の前にやっと運ばれてきたごちそうを取り上げられたような気分になって、残りのビールを一気にあおると、疲労した身体にアルコールが効いたのか、すぐに寝てしまった。

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