白紙のドリルとスタートライン
秋色
〈前編〉
就職して三年。初めての転勤で、憧れだった街の、目指していた職種に
それをきっかけに年末年始に長い休みをとった。実家の自分の部屋を片付けるために。大学進学のため実家を出た時には、必要不可欠な物だけを持って出て行き、何の躊躇いもなかった。
だから幼少期から十代の日々を彩った本の数々は、この部屋の中にほとんど置きざりのまま残っている。心の中で思い出せればいいと思っていたから。
実家での七日目。高校生の弟、
隼斗君は李玖の出来の良い親友。陸上部で目覚ましい活躍をし、高校生になる今年の春には陸上競技の盛んな高校への入学が決まっている。
「隼斗君がひどい目に合わせるわけないでしょ。何されたってゆうん?」
「オレ達、三年生なのに今日は部の備品の片付け、一緒にしよーって。何か、春から強豪校に行くけ、練習しときたいとか言って」
「備品の片付けで?」
確かに隼斗君の行く学校は、中高一貫校どころか大学まである私立で、スポーツに力を入れている有名校だ。全国から優秀な選手が集まっている印象。中学ですごい成績を残してそのまま高校に上がっていく生徒もいる。
「不思議やね」
「やろ?」
***
弟とそんな雑談をしながら、部屋の片付けを明日からどう進めようかと考えていた。
その時、さっき外出先から帰ってきた母が居間にやって来て、私に訊ねた。
「あんたの小学校の時の教科書とかドリルとか、もう捨てたかねー?」
「さすがにそれは捨てたやろ。いや、でも小学一年生の時のは、懐かしいからってお母さん、とっとこうって言ってなかった?」
「そうやったね。良かった」
「でもそんな物、何に使うん?」
「おばあちゃん、秋に脳出血を起こしたでしょ? 後遺症で字が出て来なかったり、読めなかったりでね。入院してる病院でリハビリもしてるんやけど、そういうドリルとかあったら、病室でも出来るかなぁって」
***
私は一人、昔の自分の部屋に入った。木の本棚の匂いが懐かしい。
私はおばあちゃんの病気の後遺症の話に、少なからずショックを受けていた。
おばあちゃんは記憶力が良く、昔の映画の事をよく憶えていた。そして子どもの頃からよく一緒に映画を観た。ある時はテレビで、ある時はパソコンで。おばあちゃんは「昔は映画って、映画館で観てたんだよ」とよく言ってたっけ。
字を忘れるってどんな気持ちだろう。子どもの頃から眼に馴染んでいる背表紙のタイトルを見ながら想像した。
この中のいくつかは従姉妹のお姉さんからもらって、その本を手にした時、読むには難し過ぎた。最後の方の挿絵を見ながらよく内容を想像していたっけ。あの頃はぎっしり活字が詰まったページも真っ白に等しかった。
――いつか読めるようになってこの絵をみる時、お話は、どんな風に進んでいるだろう? その時、私にはどんな友だちがいるだろう? この本をスラスラ読めて、勉強もよく出来るようになっているのかな――
……なんて。
今この本棚の全ての本を読んでいる私は、昔のドキドキしながらページを
でもちょっとあの日が
私がもしこれらの本を読んだ記憶を失くす日が来たとしたら、その時はどうしよう。いつかそんな日が来るかもしれないんだ、おばあちゃんのように。そう考えると未来が急に怖くなる。この本棚の本のページがいっぺんに真っ白に変わっていく……それは私の世界が壊れる時だ。
居間に戻ると、家の固定電話の呼び出し音が鳴り響いていた。
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