第39話 災厄の後
探査活動中のノアを突如として襲った未曾有の巨大〈鎧獣〉の脅威。
そのニュースは【局】のノア支部を通して帝国本国へは勿論、未開拓地各地に派遣されている諸移動都市の住民たちにも、驚きをもって報じられた。
最終的に【局】職員や開拓者あわせて数百名にものぼる被害、一般市民においても数十名の被害をノアにもたらしたこの怪物の襲撃に、一時は本国内で移動都市計画そのものを中止するべきという声も上がったほどだった。
だが、そんな凶報と同時にまことしやかに囁かれた、「ノアの開拓者が未開拓地初の旧文明遺跡を発見した」という噂によって、事態は意外な展開を見せる。
〈海魔〉級の災害の再来を恐れてノアから離れていく人々も現れる中、その波に逆らうようにして帝国中の考古学者たちが、復興中のノアへと詰めかけたのだ。
無論、はじめは大多数の者が「そんな噂は眉唾物だ」と歯牙にもかけなかった。
が、やがて先行した者たちから次々に発見の報告が上がると、懐疑的だった者たちも手のひらを返したようにノアへと殺到。
「未開拓地の〈旧文明遺産〉」の存在を信じつつも、本国での反旧文明主義の暴動を警戒して各移動都市に僅かな尖兵を送るにとどめていた少数派の学派もまた、発見に伴う反旧文明主義活動の鎮静化のお陰で、大々的に調査に乗り出し始めた。
こうして、数多の〈考古学者〉たちが遥か西のノアへと向かう、俗にオールド・ラッシュと呼ばれたこの一連の流れにより、今日もまたノアは、大勢の来訪者で異様な賑わいを見せていた。
ただ、その祭りの如き騒がしさの中にあって、肝心の「遺跡」を発見した開拓者が誰だったのかということは、ノアの市民でさえも例外ではなく、ほとんどの者がはっきりとした事情を把握できてはいないということだった。
※ ※ ※
そんな、街の復興やオールド・ラッシュによるノアの賑やかな日々も、そろそろ二ヶ月ほどに及ぼうかという、ある日の正午。
「海水ぃ?」
昼飯時ということもあり、ノアの市民に混じって見慣れない顔もちらほらと見受けられる、賑やかな酒場の中。
ミグロッサの言葉に、皿を拭いていたテミルが素っ頓狂な声を上げた。
「うん。まぁ、厳密にはそう単純な話でもないんだけど、概ねそういう認識で問題ないよ」
空になったグラスを弄びながらミグロッサが言うと、テミルは渋々といった感じで頷く。
「ふぅん。どうも突拍子もない話に聞こえるけど、ま、アンタがそう言うんならそうなんだろうねぇ。実際、この二ヶ月の間で完治したっていう荒毒患者も、何人かいるみたいだしね。しかしまさか、荒毒にそんな治療法があったとは驚いたよ」
「ああ。私もはじめ知った時には、よくある胡散臭い民間療法では、と疑ったくらいさ」
溜息を吐きながらテミルが見つめる先には、カウンターの上に置かれた一冊の古びた本。
所々で塗装が剥げているその本をミグロッサもまた見下ろし、述懐する。
発見された旧文明遺跡の古代図書館に蔵書されていたという古文書。解読の結果、恐らくは医学にまつわる文献だろうとわかったこの本に書かれていた、荒毒の弱点。
それはずばり、海水だった。
「そりゃ、道理で本国では荒毒なんて病気自体が無いわけだねぇ。あんな海っぺりの場所にいたんじゃ、ウイルスの方だって商売あがったりだろうよ」
「だから、帝国本国で見つかる〈旧文明遺産〉にも荒毒についての情報はなかったんだ。きっと、もうだいぶ前から、あの土地では荒毒が絶滅していたんだろうね」
ただ、こうして弱点を暴けても、いまだ荒毒の治療には一筋縄ではいかないものがある。
たしかに、海水の摂取及び投与には荒毒の症状を改善させる働きがあることはわかったのだが。
それと同時に荒毒ウイルスの方にも、投与された海水を排除しようと一時的に活性化する性質があることが判明したのだ。
故に、あまりに汚染が酷い場合には逆に症状を悪化させる恐れもあり、たとえ一定以下の汚染具合であっても、けして油断も楽観視もできない。
「つまり、この海水療法という治療法は、大変に根気を要するものなんだね、うん」
一度体内に海水を入れればおしまい、という単純な話ではない。
症状が完全に消えるまで一週間でも一か月でも、症状の度合いによってはあるいは半年以上でも、ほぼ毎日に一定量の摂取が最低条件だ。
おそらくは海水中の「荒毒を殺す成分」がその他の不純物によって、その働きを少なからず阻害されているからだろう、というのがミグロッサの見解だった。
先日【局】のノア支部から公表されたこの海水療法の情報を元に、帝国各地の名医らがいち早くその「荒毒を殺す成分」を特定し、特効薬の開発を成功させてくれることを祈るばかりだ。
「うへぇ、毎朝毎朝コーヒーの代わりに塩水を飲む生活なんて、考えたくもないね」
「それでも、荒毒に侵され尽くして〈鎧獣〉になり果てるよりはマシだろ」
「そりゃそうだけどね。まぁでも、これで移動都市に暮らす人間のでかい悩みのタネが一つ消えたんだ。アンタには感謝しないといけないね、先生」
「……私は広めただけだよ」
笑うテミルの言葉にミグロッサはふるふると首を振る。
「本当に、感謝するべきなのは……」
カウンターに置かれた本の表紙を指でなぞり、ミグロッサは言葉を切って小さく嘆息する。
賑やかな酒場の一角でミグロッサの周囲だけが、まるで切り取られたかのように哀愁漂う静けさに包まれていた。
「……聞いたよ。アイツ、最後はあのタコみたいな怪物と心中したんだって?」
「らしいね。私も、ケラミーたちから聞いたよ。荒毒で全身をボロボロにやられて、捨て身もいいところの特攻をして。それでも、あいっ……」
情けなく声が詰まって、ミグロッサは取り繕うように唾を飲んだ。
あの日、崩れた診療所から飛び出す瞬間の、燃え尽きるほどの輝きを帯びていたあの深緑の瞳を思い出す。
あの時にはもうきっと、彼はここに帰って来るつもりはなかったのだろう。
「あいつ、最後はガラにもないくらい、穏やかな笑顔だったそうだよ」
テミルが黙って注いだ二杯目を、ミグロッサは一息に飲み干した。
「……あの子は今どうしてるんだい? アンタがそんな調子なんだ。ましてやずっとあいつと一緒だったし、それに、随分と懐いてたみたいだからね。あんまり塞ぎ込んでなきゃいいけど」
「ん? ああ、あの子は」
ズズッ、と一つ鼻をすすって、ミグロッサは頬杖をつく。
「頑張ってるみたいだよ。今日も一人で荒野に出て、一所懸命に開拓者をやっているそうだ。最近はウチにカウンセリングに来る回数も、うん、減ってきたしね」
「ほぉ? なんだい、思ったより元気そうじゃないか」
「ああ。私なんかより、よっぽど強い子だよ。たしかに最初の一月くらいは、そりゃもう見るに忍びない状態だったけどさ。それでも今は、もうしっかりと前を向いているんだ」
ミグロッサは自嘲気味に笑う。
「でも多分、まだまだ時間は掛かると思う。今は大丈夫そうに見えても、これから先、どうしようもなくダメになりそうな瞬間は必ず来る。だから私はこれからも、あの子の傍にいてあげるつもりだよ。もうあの子の頭を撫でてあげられない、あいつに代わって。せめて、私が」
またぞろみじめに滲んでしまったミグロッサの声に、テミルは黙って息を吐くと。
「そうかい。ならアタシも、あの子がウチに来た時にゃジュースの一杯も奢ってやるかね」
「それはいいな。うん、是非ともそうしてやってくれ」
ぼちぼち午後の労働が始まる時間だ。
さざ波のように酒場から出て行く人の流れを目で追いながら、テミルが注いでくれた三杯目のグラスを、ミグロッサはゆっくりと傾けた。
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