第35話 攫われた少女
「はぁ、はぁ……くそっ」
血の滲む脇腹から生えている瓦礫を引き抜き、ミグロッサは苦痛に呻き声を上げる。
荒い呼吸で肩を揺らしながら、既に崩れ放題の診療所を眺めて舌を打った。
「折角、掃除したっていうのに……あの軟体動物もどきめ。好き勝手、壊してくれてさ」
割れたガラス片や薬の瓶に混じって転がっていた包帯を引き寄せて、ひとまずの止血をする。
痛みに震える体をどうにか立ち上がらせ、ミグロッサは辛うじて原型を留めていたデスクチェアーに身を預けた。
見上げた視線の先に天井はなく、肌の強い方ではないミグロッサにとっては忌々しいほどの晴れやかな昼空が、破壊された屋根の代わりのように広がっていた。
(任せてくれ、って言ったのになぁ)
陽光の眩しさに目を細めながら、ミグロッサは傍らの、不格好な飴細工のようにひしゃげた診察台に目をやって、歯噛みする。
つい先ほどまで、そこで可愛らしい寝息を立てて眠っていた少女の姿は、今はもう跡形もなかった。
━━ジャリ。
不意に、何者かが崩壊した診療所に立ち入って来る足音がする。
足音は踏み入った先の惨状にたじろぐように一度鳴り止むと、それからゆっくりと診察室にその主の姿を現した。
「デュークか」
呻くように言うと、緑髪の少年はすぐさま駆け寄ってきて、デスクチェアーからずり落ちそうになっていたミグロッサの痩身を支える。
「折角来てもらったところ悪いけどね……ご覧の通り、ウチは今日は休診なんだ」
「メグ姉、何があったの?」
冗談めかしたミグロッサの台詞に重ねるように、デュークが問うてくる。
「例の、〈海魔〉だっけ? いやはや、ありゃ話に聞いていた通りの、ウグッ……化け物だね」
あまりにも突然のことで、ほとんど何が起こっているのかわからなかった。
街中に響き渡ったアナウンスによって〈海魔〉の襲来を知った直後、窓の外の住宅街にいきなり大木ほどの太さの触手が落ちてきたのだ。
かと思えば、手あたり次第に暴れのたくるそれによって、街は次々に破壊されていった。
ややあって、西門付近の壁がぶち抜かれた旨の続報を耳にしたときには、既にミグロッサの診療所もめちゃくちゃな有り様になっていた。
「壁のところで【局】の連中が頑張ってくれているお陰か、今は街への被害はひとまず収まったみたいだけどね。まぁ、それもいつまでもつか、わかんないけど」
「ここは危険だ。西門に近すぎる。メグ姉は東地区に避難した方がいい」
「うん、ああ。歩けそうになったら、そうするよ」
「それに、ピュラも移動させないと。聞いてよメグ姉。俺、見つけたんだ」
言って、デュークがポーチから取り出した一冊の古びた本を手渡してくる。
「……これは?」
「翻訳はしておいたから、読めばわかると思う。とりあえず、今は移動を――」
と、ひん曲がった診察台に目をやったデュークが、そこで言葉を詰まらせる。
「メグ姉……ピュラは?」
「連れ去られた。あの、〈海魔〉に」
瞬間、眼前の少年がその相貌に底冷えするほどの険しさをまとったのに、ミグロッサは思わず心臓を鷲掴みされたかのように錯覚した。
「……どうしてだ」
デュークは、恐ろしいほど冷静に、けれど内なる激情を抑えきれないといった様子でミグロッサに尋ねる。
ごくりと生唾を飲み込んで、ミグロッサは事の次第を説明した。
「デューク、前に君は言ったね。ピュラちゃんが、奴隷商たちに『デミクレイ』と呼ばれていたと。いいかい? 『デミクレイ』っていうのはね」
数瞬の逡巡の後、ミグロッサは意を決して口を開いた。
「『
デュークの瞳が、驚愕に見開かれる。
「驚くのも、無理はない。でも本当のことだ。度し難い話だけど、何にでもマニアってのはいるものでね。『そういう個体』が欲しいって外道も、奴隷を買うような連中の中にはいる」
「…………」
「君も、オークション会場で見なかったかい? ピュラちゃんみたいな若い娘で、しかも『デミクレイ』ともなれば、躍起になって破格の値をつける輩が一人や二人はいたはずだ」
もちろん君は例外としてね、とミグロッサは付け加える。
まるで遠い別世界のことでもあるかのようにそれを聞いていたデュークは、それでも心当たりがあったのか、顔を顰めて俯いた。
「そんな、馬鹿な話が」
「まったくだ。私も以前から話を聞いているだけで虫唾が走る思いだったけど、いざこうして目の当たりにして、うん、さすがに堪忍袋の緒が切れてね。詳しい経緯を知ろうと、あの日オークション会場にいたっていうザウス商会の下っ端をとっ捕まえて、吐かせたんだ」
最初は取り合おうともせず、あまつさえ突然ノコノコやってきた若い女を「仕入れよう」としてきたその下っ端は、それでもミグロッサが肩口に強かにメスを突き刺してやるとあっさりと口を割った。
金で開拓者を抱き込んでいたと、その下っ端は言った。
先遣調査を生業にしていた上級開拓者の一人に大金を握らせ、仲間や【局】の目を盗んで汚染された鉱石を、ときには〈鎧獣〉の『目』をも持ち帰らせていたという。
そうして手に入れた荒毒の素を気付かれないように食事に混ぜるなどして、選び出した何人かの奴隷に感染させ、それらを「デミクレイ」と銘打って売り捌いていたらしい。
「それで二ヶ月くらい前、というと、ちょうど君がピュラちゃんを連れて来る二週間くらい前か。その運び屋の開拓者が北の山岳地帯の先遣調査から、ある大物を持って帰ってきたそうだ」
「北の、山岳地帯? ……まさか!」
「ああ。その大物っていうのが、今、あそこで暴れてる〈海魔〉の『片目』だ。外道と言ってもその運び屋も上級開拓者だからね。不意打ちをしてどうにか掠め取って来たらしい」
吐き捨てるようにそう言って、ミグロッサは結論を口にした。
「ここまで言えば、もうわかるだろ? きっとあの日競売に出された、ピュラちゃんも含めた何人かの『デミクレイ』の中にある『片目』の欠片と引き合って、あの化け物はここまでやってきたんだ」
ミグロッサの言葉を黙って聞いていたデュークは、それからもしばし沈黙を守って何事か考え込む素振りを見せると、おもむろにミグロッサをデスクチェアーに座り直させた。
ミグロッサを抱き支えていた手をゆっくりと離し、立ち上がる。
顔を上げ、窓の外、彼方で蠢いているであろう〈海魔〉に向けられた少年の、その深緑の瞳が。
「待て」
いつかミグロッサも目にしたあの不思議な光を、かつてないほどに強く宿していた。
「待て、デューク。待ってくれ」
踵を返したデュークの、相変わらずボロボロな外套を掴んで、ミグロッサは引き留める。
「どこに行く気だ。買い物なら、今じゃなくてもいいだろ?」
「ピュラを助けないと」
「もう無理だ。連れ戻せないって意味じゃない。今頃ピュラちゃんは『片目』の欠片として、あの怪物に再吸収されようとしているだろう。ただでさえ汚染が酷いのに、その上あんな荒毒の温床みたいな場所に身を晒されたら、たとえ首尾良く連れ戻せても、とても助からないよ」
「助ける。助けて、みせる」
デュークは止まらない。
ミグロッサは尚も縋り付く。
「いいかい、デューク? 今から医者としては最低だけど、君の姉貴分としては当然のことを言うよ。悪いが、出会って数ヵ月の少女の命と、子どもの頃から弟のように可愛がってきた少年の命とだったら、私は迷わず後者を選ぶ。君がむざむざ〈鎧獣〉に殺されるかも知れないのを、黙って見過ごす訳にはいかない」
心を鬼にするミグロッサには目もくれず、デュークはやはり歩みを止めようとはしなかった。
遂には痛む体に鞭を打ち、ミグロッサは立ち上がる。
「君がっ……こんな荒野のど真ん中で独り野垂れ死なないように、私はリーダーや学派の皆の代わりに君と一緒にノアに乗り込んだんだ。君をこのまま行かせたら、私は学派の皆に……そして誰より、ライネさんに受けた恩を仇で返すことになってしまう。皆に……合わせる顔が無い」
「メグ姉、聞いて」
「君こそ聞くんだ。それに、君の『願い』はどうなる? 未開拓地に眠る、数々の〈旧文明遺産〉を見つけ出すという、君の『願い』は?」
「それは」
振り返らずに、デュークは言った。
「それはもう――俺の『願い』じゃなくなった」
最後にそれだけ言い残し、デュークはミグロッサの手からすり抜けるように身を翻して、割れた診療所の窓を超えると。
そのまま硝煙けぶる第六区の街並みへと、脱兎のごとく走り去っていった。
「そんなこと」
どんどんと遠ざかる少年の背中。
そこに微かな別れの気配を感じながら、ミグロッサは虚空を掴んでいた自らの手をゆっくりと胸元に引き寄せた。
「……とっくのとうに、知ってたよ」
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