脱チエノミProject

鯖虎

あるダンボールハウスの顛末

 ダンボールハウス建設に関する中間報告。

 テーブル越しに手渡された資料には、確かにそう書かれていた。


 報告書じみた体裁の紙束にはびっちりと詰められた文章に加えて、ダンボールハウスの完成予想図や間取りまで印刷されている。

 土曜日の午後、池袋の中華料理屋でのことだ。


「なんだこれは。三十過ぎた人間が出すもんじゃないぞ。ついに馬鹿になったのか」


 そう言ってやると、向かいに座る川村は昔と変わらぬひん曲がった口と尖った目付きで、馬鹿とはなんだね君ィと言った。


「これが馬鹿でなきゃ何なんだ」

「いや、確かに馬鹿げているかもしれんがね、しかし馬鹿げていること程真面目にやるべきなのであって、馬鹿げているからといって適当にやっていると、かえって真面目で常識的にだねぇ」


 長ったらしい口上を聞き流しながら、私はつゆの滴る水煮牛肉シュイチュウニュウロウ――水煮の言葉とは裏腹に、随分な辛さを持つ牛肉の煮込みを口に運ぶ。

 辛さの向こうに野菜や牛脂の旨味が溶け出たスープと、それをたっぷりと吸った牛肉の濃厚な味を感じる。


 美味い。


「君ィ、聞いているのかね」


 池袋は中国人、特に九〇年以降に生まれた東北出身者が多く、本場テイストの中華料理屋が軒を連ねている。


 普洱ぷーある熟茶。

 カビの力を借りて発酵を進めた暗褐色の茶。

 芳醇な香りと共に、肉の脂が流される。


 美味い。


「君ィ、田丸君よお」


 池袋駅北口界隈は東北の漢人や朝鮮族の料理が多いが、四川料理も多く提供されていて、これがまた美味いのだ。

 横浜中華街は広東や福建など南方の、日本でも馴染みのある料理を出す店が多いが、出身地や来日時期の違いから、池袋では他の街とは一味違う料理が楽しめる。

 さらに少し裏手に入れば、ウィグル人の営む蘭州拉麺らーめんの店まである。


 春巻き。

 もう言葉はいらない。 


 美味い。


「おおい」


 ひとくちに中国と言っても、イギリスからギリシャまでの所謂いわゆるヨーロッパ世界がすぽっと収まるような面積があり、当然食文化も多様そのもの。

 そして同郷のコミュニティを頼ることが多いから、同じ日本でも街毎に出身地の偏りが生じる。


 おかげで横浜から池袋に移動するだけで、広東から東北まで、ヨーロッパならイタリアの南からデンマーク辺りまで移動したぐらいに違う物が食べられるのだ。実に面白いものである。


「た、田丸君。ちょっと君、酷いんじゃないか」

「何だよもう、今食べてるんだから」

「君ねぇ。いや、これでも久し振りに会うんだからって、食通の君に気を遣ってあれこれ悩んだんだよ。そしたらこの仕打ちだもんなぁ」

「わかったわかった。悪かったよ」


 私が箸を置いて謝ると、川村は酷いもんだとボヤきながら春巻きに箸を伸ばした。


 川村は大学の同窓で、文學哲學同好會の同志、私の数少ない友人の一人だ。

 文學哲學同好會とは所謂サークル同好会の類の物で、そこそこの大学のそこそこの学生であり、決して象牙の塔アカデミアで飯など食えたもんではないと分をわきまえた者達が、せめて仲間内で議論ごっこに興じようと立ち上げた悲しき組織である。

 

 そこには果物の名前のテニスサークルや、◯◯交流会をうたうサークル、体育会の部活、何やらお洒落な香りを漂わせる音楽サークルのような陽の気の溢れる場所には棲息せいそくできず、かと言ってどこか広く一般に流行するサブカルチャー愛好家ライト層のオタクとは線を引きたがる、厄介な人間が集まっていた。


「で、何だこの報告書は」

「見ての通り、ダンボールハウス建設に関する中間報告だよ。下にプロジェクト名があるだろう」

「本当だ……脱チエノミProject? 何だこの胡散臭いのは。意識だけ高くてキャリアも資格も持ってない奴が、自己満足と金儲けのために立ち上げた自己啓発セミナーみたいじゃないか」

「これまた酷いなぁ。いやなに、これはねぇ、我々が実社会に出て擦り切れたことで失われた童心と、無垢な友情を取り戻そうという有意義な計画なんだよ。その象徴として選ばれたのが、ダンボールハウスなんだな」


 なんだその浅薄せんぱくな思想は、と思いながら報告書の表紙を眺めていると、下の方にリンゴの絵と英文のロゴが書かれていた。


「このロゴは? Whole Apple……まるごとリンゴ、か?」

「そうだとも。ほら、例の世界的なリンゴの会社のロゴはかじったリンゴだろ? あれは知恵の実を食べたスマートな世界を表すわけだからね。我々には口をつけてない、丸ごとのリンゴがふさわしいのさ」

「なるほどねぇ。ところで中間報告というからには、すでに進行してるのか?」

「もちろん。というか、ほぼ出来ているね。最初は暇のある連中、もとい有志で集って同志田中夫妻の家に建設していてね。君は特に忙しそうだから声掛けも遠慮していたんだが、ついに君の知見が必要になったんだよ。旧交を温めるというのに、君を外すわけにもいかないしねぇ」


 話を聞きながら報告書をめくってみると、確かに建設自体はほぼ完了している。

 暇な連中と言うが、確かに川村は――この口をひん曲げて喋る男がどんな手を使ったか知らないが、休みの取りやすい大手メーカーに潜り込んでいたし、田中夫妻は小説家と漫画家という多忙だが、定時というものがない家庭だった。

 彼らを中心に、時間の都合がつく者で進めていたのだろう。


「なんかタダ乗りしてるみたいで申し訳ないな」

「一転して殊勝な態度じゃないか田丸君。友情のありがたみをわかったかね」

「そりゃ、まあ。仕事の絡みか下心のある関係ばかりだからな、ただの友達程ありがたいものは中々ないよ。で、俺は何をしたらいいんだ?」

「酒だよ酒。五ページ目を見てくれよ」

「これは……おいおい、バーカウンターかよ。ダンボールで作れるのか」

「ダンボールって言っても色々種類があるんだな。そこは頑丈な奴で作ってるんだよ」

「なるほどねぇ。いや良いんだけど、そんなわざわざ頑丈な材料を選定してなんて、なんというか少々……チエノミ的じゃないか? 童心に帰るダンボールハウスから離れてしまわないか」

「チエノミ的! いいねぇ批評家の田丸君。調子が出てきたじゃないか。しかしね田丸君。僕に言わせればそのこだわりこそ童心だよ。たかがダンボールハウスなんだからアリモノで済ませようなんて、それはと切り捨てる大人の感性だよ」

「そんなもんかね。しかし、田中夫妻もよく家の中にそんなもんこさえたな」

「あの二人は家が広いからねぇ。それに、二人とも油断すると編集者と話す以外はひたすら画面に向かっちまうから、人との繋がりは無理にでも作るんだとか言ってたよ」

「まぁ、それはわかるな」

「でだ、我々が旧交を温めるのにふさわしい酒を何本か買うんで、その選定を頼みたいんだな」

「任せろ。知恵の実に対抗するならAquaVitaeアクアウィテ、命の水しか無い。脱チエノミの大詰めだな」




 翌週の土曜日、午後の二時。

 スーツケースの中にあるのは、琥珀や青、濃い紫に明るい黄色の魂の酒スピリッツ

 ダンボールハウスに置くのであれば常温保存が前提だし、たまにチビチビ飲むぐらいなら、それこそ長期保存できる蒸溜酒スピリッツがいい。

 宝石を溶かして瓶に詰めたような――そんな素敵な土産と共に、私と川村は田中邸の門をたたいたのだった。


「田丸君久し振り、太った?」


 無遠慮にそう声をかけてくるのは佐野さん、もとい田中夫人である。

 学生時代と変わらずつるっとした顔立ちで、全体的につやつやしている。

 ローマ帝国の哲人皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌスが主人公の漫画を青年誌で連載しており、古代ローマの重厚な描写と、現代にも通ずる社会の病への問いかけで人気を博している大作家だ。


「ダメだよ玲奈ちゃん。田丸は意外と繊細なんだから」


 そう口にするのは田中。凝りに凝った描写の小説を愛し、空想科学に溺れ、ついには英語での作品執筆もこなす秀才であったが、秀才故に海外SFの翻訳などという難儀な道に進んでしまった。

 現在の主な収入源は、フリーランスでの企業向けの文書翻訳らしい。


「二人とも久し振りだな。田中先生は今も何か書いてるのかい」

「翻訳と自作の執筆で忙しいよ。実は今、近未来ディストピアSFとして温めている話があってね。発達した人工知能が様々な人の仕事を奪ってしまって、職種による経済格差が固定化された世界の話なんだけど」

「それは多分、SFじゃなくてビジネス書に載せるべき話だろうね」

「そうかな。反乱者達が人工知能の教師データに大量のバグデータを流しこんで破壊。機能不全に陥ったオフィス街に紙とペンを持った暴徒が殺到して、仕事をくれ! と行進する痛快なシーンがあるんだけどね」

「先生は経済誌のライターに向いてるね」

「経済誌? 僕はそんなの興味ないよ」


 口元を歪めて文句を言いながらも、田中は私を奥の部屋へと誘った。

 開かれた扉の奥には、ニメートルを超える高さの小屋があった。多種多様なダンボールで構成された外壁は、やれミカンだのリンゴだのビールだのと、色々な商品名で溢れている。


「どうだね田丸君。この文字情報が氾濫している感じ、香港あたりの市場みたいで良いだろう。これは田中氏の発案なんだぜ」

「子供の無作為が結果的に生み出したような、そんなデザインだよ」

「むう。いや、これが好きか嫌いかで言えば、好きだ。川村が言うようなワクワク感もあるし、子供の頃はゴテゴテしたデザインが好きだった。しかしなぁ、こう、作為的に演出した無作為というのは、あまりにチエノミ的過ぎやしないかな」

「やだ田丸君、私とおんなじこと言ってる。やっぱそうだよねぇ、文字を見せる意図を徹底し過ぎてて、乱雑な子供らしさが無いっていうか」

「玲奈ちゃんさあ、子供らしさと乱雑さは必ずしも結び付かないよね。子供はこうと決めたことは、案外貫徹するもんでしょ」

「まあまあまあ、まず田丸君が持ってきた命の水を飲んで、頭から知恵の実を追い出さなきゃ」


 川村の言葉に私も田中夫妻も我に返り、ダンボールハウスの中へ入っていく。

 当然ながら床も壁もダンボールで、壁に開けた穴から明かりを取り込んでいる。そしてダンボールを何枚も重ねて作られた座布団の奥に、ダンボールで作られた長い机と酒を置く棚があった。


「凄いもんだな」

「でしょ? 結構頑張ったんだから」

「田丸君、早速命の水を拝ませてくれないか。その棚の下にコップがあるから」

「そうだそうだ、田丸はそこんとこ当てになるから、先週から楽しみだったんだ」


 酒を求める者の熱い声援。嬉しい限りだ。

 私はこのダンボールハウスの建設者達をねぎらうべく、コップを取り、スーツケースを開けて酒瓶を並べていく。


「ウィスキーとブランデーがいくつか、ダークラム、ジン、リモンチェッロ」

「凄ぉい、選び放題」 

「ブランデーがいいなぁ。田丸君、君の好みのはどれなんだい」

「このクルボアジェかな。この醸造所のブランデーは、中田氏が敬愛するナポレオンが特に気に入った物なんだぜ」

「いいね。それなら僕に注がせてもらおうかな。ちょっと待ってて」


 そう言って席を外した田中は、氷を持って小走りで戻ってきた。冷たい冷たいと言いながらグラスに氷を入れ、クルボアジェ――フランスで生み出された美しく輝くブドウの結晶を注ぐ。

 ダンボールの机の前に居並ぶ四人にグラスが行き渡り、私はグラスを高く掲げる。


「童心を追求しダンボールハウスを完成させた同志諸君に敬意を表して!」


 乾杯の声がダンボールの壁に吸い込まれ、琥珀色の命の水も皆の口に含まれる。クリアな、それでいて芳醇な香りが脳天を貫く。


「あー、いやぁ、うん、うん、美味いね田丸君」


 目を閉じて深い鼻呼吸で香りを楽しんでいた田中は、恍惚とした表情で言った。

 そこから暫くは酒の香りを楽しみながら昔を懐かしみ、ブランデーやウィスキーを飲み比べたりして時間が過ぎていった。

 そうして杯を重ね、偏屈者達の心にアルコール燃料が充填された頃に議論は巻き起こった。

 童心とは何か――田中夫人の言である。


「私達は童心という言葉をあまりに都合良く使い過ぎている。郷愁と共に語られる童心は常に善、それは本当に正しいこと?」


 リモンチェッロ、甘みのあるレモンリキュールのグラスを傾けつつ、彼女はため息をついてそう言った。


「僕は善でいいと思うな。童心に帰ってアリをたくさん殺そうとか、童心に帰って誰かを殴ってみようとか、そんなこと言う人いないでしょ」


 田中がのんびりとした口調でそういうのを聞いていると、私の中でムラムラと違和感が立ち上ってくるのを感じた。


「いや、それは関係無いと思うけど」

「関係無いって、どうしてだ田丸」

「田中氏の言ってるのは童心という言葉にポジティブな印象を持つ人が多い、というだけのことであって、童心とは何か、には関係が無いよ」

「そうだ! 行けぇ! 行け田丸ぅ!」

「玲奈ちゃん酷いよ」

「田中夫人は容赦が無いねぇ。しかしね田丸君、君は童心が悪だと言うのかね」

「童心は中々悪辣な物だよ。子供は皆利己的で、自分が楽しむことと大人の怒りを回避することしか考えていないからね」

「皆利己的は言い過ぎじゃないかね田丸君。僕は小学生の頃はおやつを分けてあげたり、遊ぶ順番を譲ってやったりしてたぜ」

「そのというのが、子供らしい下心を表してないか?」

「ねぇ田丸君。利己的か利他的かは関係ないんじゃない? そもそも利他的な行為も望んでしている場合は、それは本人が望んで行って望みを叶えてるわけだから、利己と利他を完全に分けるのは難しいと思うけど」

「いや夫人、それを言ったらね? そもそも善か悪かが童心の本質を捉えるための問として適切かどうかも」


 ガシャン――


 嫌な音。

 いつの間にか、私の身振り手振りが大きくなっていた。硬い物に手が当たったと思ったら、嫌な音が聞こえた。

 恐る恐る床を見ると、クルボアジェの瓶が割れ、恐ろしく良い匂いのするシミが出来上がったいた。

 あぁ、これは良い物。

 いや、値段も高いけど、そうじゃなくて。


「あ、田丸君が……泣いてる」


 田中夫人の言葉で、私は頬を流れる温かな筋を認識する。


「た、田丸、大丈夫か? 高いお酒が」

「田中……いや、高いとかじゃないんだ。何と言うか、昔の友情を大事にしようと声をかけてくれたのが嬉しくて、そのために用意してたから、だと思うんだ」


 私の気持ちが急加速でしんみりとした方向に向かう中、川村が手を叩いてそれだ! と言った。


「純粋! その純粋さだよ田丸君。それが童心じゃないか!」


 何だそれは。


「思っていた通りにいかなかった。悲しい。この図式の単純さを見たまえ! 我々は大人になるにつれてねぇ、この、をことの重要性とか、成功率とかで色分けして、心のダメージを防いでいるわけだ。でも子供は全部全力投球、全部大事だ!」

「そうだ川村! もっと言え!」

「腕を振り回すと危ないよ玲奈ちゃん。でもそうだね川村、僕はこの必死な田丸を見て、子供の頃を思い出したよ」

「でもあれだね、まさかあの偏屈で理屈っぽい田丸君が、一番童心に近いだなんて」

「いやまさしく。あの批評家精神も童心を失っていないが故の、子供ならではのこだわりだったのかもしれない。つまり、常にチエノミ的態度を取り続けていた田丸君の背景は、実は非常に脱チエノミ的だった可能性があるわけだね」


 私の感情を置いてけぼりにして、三人は口々に童心だ、純粋だと私のことを囃し立てる。

 その顔は、まるで無邪気な子供のようだ。

 無邪気。そうか、無邪気か。

 童心は無邪気だ。

 ただそれは、悪いことを考えないという意味ではない。そもそも善悪の区別をしていないのだ。

 脱チエノミProjectで童心に帰った彼らは、ただ思い付くまま、自分にとって面白そうなことを口にする。


 まったく。

 童心なんてろくなもんじゃない。




〈了〉

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