第4話 行使
四話 行使
四月八日。
高野台高校入学式の翌日。
サヤと違うクラスになってしまった美幸は、冷めた目で教室で楽しそうに話している人達を眺めていた。
自分のクラスに同じ中学出身の人はいるのだが、あまり親しい関係では無かったため、入学式の前後に少しだけしか話していない。
「野呂さん、今良い?」
自分の席の横に誰かが立つ気配がした。美幸は聞き覚えのあるその声に、顔を向けずに返事をした。
「何」
「いや、特別用事はないけど、朝から体調悪そうだったから心配で」
よりにもよって伏見と同じクラスになるなんて。
公立高校の結果が出てから、告白の返事の話をのらりくらりと躱していた美幸は「卒業すれば終わり」と思っていたが、まさか同じ学校の同じクラスになるとは夢にも思っていなかった。
「別に」
美幸は苛立ちを隠さずに言ったが、伏見は気にしていないのかそのまま話を続けた。
「んん。まぁ仮に体調が悪かったとしても言い難いこともあるよね。ごめん。そこまで気が利いてなくて」
「言っても無いことを勝手に解釈して納得しないで」
「ッッッ」
伏見は気まずそうな顔をしたが、すぐにいつもの表情に戻った。
「まぁ、僕に出来ることがあれば何でも言ってね」
「伏見君に頼るような事は無いよ」
だったら私にかかった呪いをどうにかしてみせろ。
喉元まで出かけた言葉は理性によって呑み込まれた。
伏見と仲良さそうに話している所をサヤには見られたくない。
だから、私は伏見を拒絶し続ければ良い。いつかは私に愛想を尽かすだろう。
告白の返事をすれば話は早いのだが、その言葉を口にするよりも愛想を尽かれる方が気が楽だという無責任な理由から、今の時点では告白の返事をするつもりはなかった。
『だったら伏見を呪ってしまおうか』
突然脳内に響いた声に美幸は全身をビクンと震わせた。その拍子に膝を机に打ち付け、ガンッと大きな音が教室に響き渡った。
「大丈夫? 凄い音したけど」
『何かあったら何でも言ってと言ったんだ。だったら伏見を実験台にして、呪いの力の確認をしたって良いじゃないか。触れた相手を呪う、だけじゃまだまだ情報が足りないのだから』
「うるッさいッッッ!」
美幸の叫び声は教室を静まり返らせた。
水面に大きな石を投げた時の波紋のように、美幸を中心に広がった静寂に伏見は目を見開いた。
「ご、ごめん。心配してるのは本当なんだけど、いや、うん、ごめん。とりあえず何かあったら言ってね」
美幸は脳内に響く声に言ったつもりだったのだが、伏見は自分が言われたのだと思い、謝罪の言葉を口にすると自分の席へと戻って行った。その背中は、いつもの彼と違って小さく見えた。
『呪いの被害を最小限するためのやむを得ない犠牲。そうじゃないの?』
「うるさいなぁ」
美幸は誰にも聞き取れないぐらい小さな声で呟いた。
『呪いの被害を最小限にする? それは嘘。呪いの力を最大限有効活用するため。そうでしょう?』
有効活用するため? そんなの許される訳がない。
伏見はサヤの思い人だ。
いや、何を考えているのだ私。
親友の思い人だからではなく、自らの意思で他人を呪って良い道理など無い。
そんな当たり前のことを、何故か忘れてしまいそうになる。
そう遠くない未来、もしかしたら既に、私の中の邪悪なナニかが私を塗りつぶすのではないか。
美幸は頭の中に響く声に耐えられず、机に突っ伏して次の授業が始まるのを待った。
昼休み。
美幸は弁当箱と水筒を持ってサヤのクラスを訪れていた。
サヤの前の席の人物は何処かに行っていたため、美幸はその机と椅子を借りてサヤと向き合うようにして座り、二人仲良く「いただきます」と言ってから昼食を食べ始めた。
「でね、結局保健委員やらされることになったの。ホント最悪」
サヤは同意を求めるように首を傾げた。
「保健委員嫌なの?」
「なんか健康診断の前日と当日に色々準備やらされるんだって。それに保健室にポスターを貼ったり、他にも色々面倒くさそうなのがあるみたい」
「へぇ、そうなんだ。サヤは何がやりたかったの?」
「図書委員。なんかね、噂だと皆の仕事を全部やってくれる人が三年生にいるんだって。それなら一年間仕事無しだよ。良いよねぇ」
美幸は弁当箱の中のミニトマトを摘むと口の中に放り込んだ。噛んだことによりプシュッと口の中に程よい酸味が広がった。
「美幸は何の委員になったの?」
「次の時間に決める」
「え、何処のクラスも二限に決めたと思ってた」
サヤは茹でたうずら卵を箸で器用に半分に割ってから口に運び入れた。
「なんか担任が『いつもグダグダになって長引くから午後にやるぞ!』って言い出して。委員会決めってそんなに時間かかった?」
「うぅん。どうだろう? 別に休み時間短くなったりとかは無かったよ」
「そりゃそうだよね」
「美幸は何の委員やりたいとかあるの?」
美幸は甘い玉子焼きを一口齧ってから言った。
「うーん、文化祭実行委員とか良いかなぁって」
「え!? なんで!?」
サヤが信じられないモノを見たような顔をしたことに、美幸は少しだけ寂しい思いをした。
「なんでって。だって、面白そうだから」
「文化祭実行委員って忙しそうじゃない?」
「でも文化祭終わったらそのまま一年仕事無いんでしょ? それなら楽じゃない?」
「いやぁ、まぁ、そうかもしれないけど」
「それに南中って文化祭無かったから。そういうのやってみたかったんだよね」
美幸とサヤが先月まで通っていた鳴間南中学校には文化祭と呼ばれるようなイベントは無かった。
十年ぐらい前まではやっていたが、何か事件が起きたのをキッカケにやらなくなったという噂が広まっていたものの、根も葉もない噂ばかりが一方的に蔓延しているだけでその真相を知る生徒はいなかった。
「実行委員になりたいわけじゃないけど、文化祭は楽しみだなぁ。高野台は喫茶店みたいな飲食物の提供も良いんだって」
「駄目な所もあるの?」
「今時珍しくない? 火事とか食中毒とか色々問題あるから、高校の文化祭で飲食物取り扱ってるイメージ無いなぁ」
そうなのだろうか。
アニメやドラマでは高校の文化祭で喫茶店をやっているイメージがあるのだけれど、と美幸は思った。
「うぅん、そうなのかなぁ。そこまで考えて無かったなぁ」
家に帰ったら去年の文化祭の様子でも調べてみようかな、と考えていた美幸の前でサヤは思い出したように「あっ」と言った。
「そう言えば文化祭実行委員って安全確認の見回りがどうとかで文化祭当日はそれなりに忙しいって聞いたよ」
「え、そうなの? ソレ聞くと何か嫌だなぁ」
「そうだよぉ。だから私と一緒に保健委員やろうよぉ」
サヤがゆっくりと身体を前後に揺らしながら言った。
「うーん、考えとく」
一瞬の沈黙の後、二人は笑い合った。
サヤといる時だけが、美幸の心が休まる時間だった。
午後の授業が始まった。
担任の先生はチョークで各委員会の名前を角張った文字で書き連ねた。
「よし、じゃあ委員会決めをやるぞ。決まらないと帰れないからな。まずは学級委員。男子一名女子一名。やりたい奴いるか?」
担任の目がグルリと教室中を見回したが、すぐに手を挙げる者はいなかった。
「だろうな」と担任はこうなることを予測していたかのように呟いた。
「ここは先生に考えがある。俺が決める。願書や入学式の時に顔を合わせた印象で決めた。文句は言わせない」
目茶苦茶なことを言うな、と美幸は思ったが、いつまでも決まらないのなら私以外の誰かがやってくれた方が良いやと考え直した。
担任の言葉に当然の如く教室内がざわつき始めたが、担任が教卓をバンッと叩いて大きな音を出すと、教室の中はすぐに静まり返った。
「じゃあ男子から言うぞ」
担任が口にした名前は、男子も女子も話したことのない人だった。
「よし学級委員は決まりだな。じゃあ他のを決めていくか。次は、文化祭実行委員だな。これも男女一名ずつ。やりたい奴、いるか?」
教室の中は再び静まり返った。
決して不人気な委員会では無いのだが、直前に担任が一方的に決めた暴挙に戸惑いや警戒を顕にする生徒が多く、様子見をしているかのようだった。
美幸は教室の後ろから三列目に座っているため、後ろにいる人が手を挙げているかどうかは分からなかったが、少なくとも視界に入っているクラスメイト達は誰も手を挙げていなかった。
美幸がゆっくりと手を挙げ始めた時、視界の端に男子の手が挙がるのが見えた。
「えっと、野呂と伏見か。男女一名ずつで丁度良いな。じゃあ決定」
担任は黒板の文化祭実行委員と書かれた隣に『野呂』『伏見』と走り書きをした。
「え!?」
伏見は私が手を挙げる瞬間を見ていないのに、私が手を挙げることを知っていたかのように同時に手を挙げていなかったか?
文化祭実行委員になりたいという話は昼休みにサヤに話しただけで、他の誰にも言っていない。サヤと昼食を食べたのは別の教室だから伏見が知っているはずもない。
どういうことだ? 何故知っている?
伏見は決して振り向くことはなかった。
美幸は誰がどの委員会に所属するかについてまるで興味が無かったため、疑惑の眼差しを彼に向け続けた。
放課後。
美幸が自分の席に座って帰りの仕度を進めていると、クラスメイトの一人が正面に立った。
「野呂さん、話があるのだけれど今時間ある?」
あまり馴染みのない声だったため、声の主を確認するために顔を上げると、そこにはクラスメイトの姫倉(ひめくら)さとりが立っていた。
入学式の時から学年一を争う可愛さだと男子達が噂をしていた彼女は、確かに容姿端麗だった。
可愛い系ではなく美人系のクッキリとした顔立ち、動きに合わせて滑らかに波を打つ長い黒髪、同じ身長の人が相手なら負けることはない足の長さ。細身でありながら色気をも兼ね備えたボディライン。
美幸が外見で勝っているのは胸の大きさ以外に存在しなかった。
「えっと、姫倉さんだよね?」
姫倉の顔を見上げるように訊ねた美幸に対して、美幸のことを見下ろしていた姫倉はポツリと言った。
「そうだけど」
「話って何?」
美幸の回答に姫倉は少しだけ眉をひそめた。
「その回答は時間があって話をしても良いということ?」
その言い方に棘を感じた美幸は思わず姫倉のことを睨みつけたが、姫倉は敵意の籠もった視線を気にする素振りを見せなかった。
「用があるなら早く話して」
美幸がそう言うと姫倉は「そのつもりだけど」と呟いてから言った。
「文化祭実行委員と保健委員、交換しない?」
「え?」
姫倉の提案があまりにも予想外過ぎたため、美幸は間の抜けた返事をしてしまった。
「私、文化祭実行委員がやりたいの。もちろん、野呂さんが文化祭実行委員をやりたいというのなら、あの時手を挙げなかった私が悪いのだからこれ以上お願いするようなことはしないのだけれど、もしも保健委員でも良ければ、交換してくれない? というお願い」
姫倉はそう言い終わるとスッと頭を下げた。
「いや、えっと」
「それは交渉決裂ということ?」
「待って待って。話がいきなり過ぎるんだって」
美幸が手の平も使って静止するようなジェスチャーをすると、姫倉は「それもそうね」と呟いた。
文化祭実行委員と保健委員を交換?
確かに私と伏見が手を挙げたのを見た担任がさっさと黒板に名前を記入したのは覚えている。あの状況で後から名乗り出るのは勇気がいるだろう。彼女の言い分に特別おかしいところはない。
それに良い機会ではないか?
文化祭実行委員は当日にも仕事があるということは、必然的にサヤと文化祭を周ることは出来なくなる。
それにサヤも保健委員なのだから、もしかしたらサヤと同じ分担で何らかの仕事を任せられるかもしれない。
もう一つあった。
文化祭実行委員は伏見と二人でやることになっている。
サヤのこともあるし、熱量の分からない彼の一方的な感情を受けるのは気が進まない。
美幸は目を瞑り、頭の中で渦をかくようにグルグルと考え込んだ後に呟いた。
「分かった。良いよ。私が保健委員で姫倉さんが文化祭実行委員でも」
その答えに姫倉はフッと笑顔を見せた。
「ありがとう。変更云々の話は私が先生と済ませておくから」
「うん。分かった」
「じゃあね」
姫倉はそう言うと話は終わったとでも言いたげに、振り返って廊下に向かって歩き始めた。振り返る拍子になびいた黒髪のきめ細やかさに美幸は思わず見惚れていた。
姫倉が廊下の方に姿を消して数秒後、美幸は帰りの仕度の途中だったことに気が付き、慌てて荷物を鞄に詰めると親友のクラスへと走って向かった。
帰り道。
高野台高校は名前の通り高台の上にあり、正門前にある別名地獄坂は運動部でも音を上げる急勾配だ。
美幸はサヤと二人で地獄坂の端を下っていた。
「運動部の人達はこの坂を走って上るんだって。スゴイよね」
「私には無理だなぁ」
「あ、噂をすれば」
サヤが視線を送った先を見ると、野球のユニフォームを来た集団が掛け声を出しながら列を組んで走って上っていた。
新入生の部活動への入部は明日からのため、今走っているのは全員先輩ということになる。
野球部の集団とすれ違ってから、少しだけ続いた沈黙を破るように美幸は話し始めた、
「そういえば、私保健委員になったよ」
美幸の言葉にサヤは目を輝かせた。
「え、ホントに!?」
「うん。最初は文化祭実行委員にしたんだけど、後から保健委員と交換しない? って言われて」
「ふぅん。そんなことあるんだぁ」
「ホントにね」
「交換しよって言ってきたのって南中の人?」
美幸は姫倉の出身中学を知らなかったので返事に一瞬詰まった。
「南中じゃないことは知ってるけど何処の中学なのかは知らない。姫倉、なんたらって人知ってる?」
サヤはその名前に心当たりが無かったのか「うーん」と少しだけ斜め上を向いて考えた後に「知らない」と答えた。
「美人だけど性格がキツそうって言うか、馴れ合うのが好きじゃ無さそうな感じの人。クラスにあんまり溶け込んでる感じはしないね。男子達は馬鹿みたいに騒いでるけど」
男子達が騒いでいる、という情報からサヤは何かを思い出したように言った。
「あぁ、そういえば美幸のクラスに可愛い人がいるみたいな話をしてる人いたなぁ。その人のことかな、多分」
「多分そう」
サヤは少し間を開けてから美幸に身体を少し寄せて小声で訊ねた。
「ところで、伏見君は何の委員会? もしかして保健委員だったりする?」
その言葉に美幸はドキリとした。
伏見と同じ委員会になったのに他の誰かと交換した、という話をサヤはどう思うのだろうかと美幸は躊躇した。
「美幸?」
「え、あぁ、えっと伏見君でしょ? えっと何だっけ」
美幸の反応が遅いことにサヤは頬を膨らませた。
「ちょっとぉ。伏見君情報は美幸が頼みなんだよぉ!? しっかりしてよぉ」
「ごめんごめん」
その時だった。
後ろから急勾配の地獄坂を走って下る足音がしたと思いきや、足音は美幸の隣で静かになった。
「やぁ、奇遇だね。野呂さん」
「え、ちょ、伏見君!?」
「ッッッ!?」
思い人が突然現れたために、サヤは頬を赤らめ口元に手を当てている。
伏見は美幸の歩くペースに合わせて隣を歩き始めた。
「奇遇って言うか、伏見君が走って来たんでしょ」
「走って来たことは認めるけど、野暮用済ませてから校舎を出たら目の前にいたんだからコレは奇遇だよ」
美幸は恐る恐るサヤの表情を見たが、隣の隣にいる思い人の顔を見るのに夢中で自分が伏見と話していることに特別な感情を抱いているようには見えなかった。
「私の隣じゃなくてコッチ来なよ」
美幸は気を利かせて自分とサヤの間に伏見を入れようとしたが、伏見は「いや、ここで良い」とハッキリと断った。
その言葉にサヤは一瞬身体を震わせた。
「で、何か用?」
サヤに勘繰られないように、と美幸は淡々と訊ねた。
「んん、特別用があるわけじゃないよ。少し話でも、と思ったけど、お友達と一緒に帰ってるみたいだしまた今度ね」
その言葉に美幸はカチンと来た。
その言葉だけはサヤに言ってはいけない。
思い人に忘れられているだなんてそんな酷い話など有りはしない。
「お友達って言い方ナニ? サヤだよ。柳沙耶」
伏見は美幸の隣を歩く沙耶の顔をジッと見てから言った。
「あ、ホントだ。柳さんだったのか。久しぶり」
伏見が社交辞令の笑顔を交えながら言うと、サヤは頬をさらに赤く染めながら言った。
「え、あ、うん、えっと、久しぶり」
「同じ高校だったんだ。南中の人がそれなりにいるってのは聞いてたけど全員は把握してないからさ。気付かなくてごめん」
「良いよ良いよ。伏見君は悪くないよ」
「じゃ、また今度ね」
伏見はそう言うと駆け出そうとペースを上げた。
「え、待って!」
サヤは思わず声を大きくして呼びかけたが、伏見は振り返ること無く急勾配の坂を颯爽と駆け下りていった。
残された二人は周りからの視線を無視しながら話を再開した。
「待ってって言ったのに何で言っちゃったんだろ」
美幸が不満を顕に呟いたが、サヤは首を左右に振った。
「聞こえ無かっただけだよ」
「そんなわけないでしょ。あんなに声大きかったのに」
言ってから失言だったか? と思わず口に手を当てたが、サヤは俯いたままポツリと言った。
「伏見君には、私の声が聞こえなかった。ただそれだけのことだよ」
「サヤ、それは」
そこから先の言葉が出てこない。
この状況で親友にかけるべき言葉が何なのかを考えても思い付きそうに無かった。
だから美幸は駆け出した。
「え、美幸?」
「連れ戻してくる」
美幸はそう言うとサヤの「もう良いよ」という言葉を聞かずにさらにスピードを上げた。
だが、考え無しにスピードを上げたのがまずかった。
美幸の身体はあっという間に今までの最高速度を超え、転んでいないのが奇跡というほどに下半身の制御が出来なくなっていた。
「ヤバいヤバいヤバいヤバいヤバい!!」
止まりたくても止まれない。
慣性力と重力によって美幸の足はさらに回転数を上げる。ブレーキの壊れた列車のように、美幸は一直線に坂を文字通り猛進していた。履いているローファーが脱げそうになったが、美幸には成す術が無かった。
「あッッッ!?」
ドンッッッ!!
坂の途中にいた男子生徒に美幸は減速すること無く突っ込んだ。
衝突した二人の身体は勢いを殺せぬまま宙を舞った。
(終わったかも)
命の危機とこの後訪れるであろう怪我による苦痛が怖くて思わず目を瞑った美幸。その美幸の身体を何かが優しく包み、少しの時間差を置いて強い衝撃が何かを緩衝して美幸の身体に伝わった。
ズンッと身体に強烈な重さを感じた。
「痛たた」
美幸が目を開くと、美幸は男子生徒に抱き締められていた。
男子生徒が庇ってくれたおかげで助かったのだ。
「だ、だ、大丈夫ですか!?」
慌てて自分が下敷きにした人物を確認すると、美幸を庇ったのは伏見だった。
「え、伏見君!?」
美幸は慌てて伏見の上から身体を退けた。
伏見は美幸が退いてから身体をゆっくりと起こし、苦痛に顔を歪ませながら後頭部を押さえていたが、美幸が心配そうな顔をして自分を見ていることに気が付くと笑顔を見せながら訊ねた。
「大丈夫? 野呂さん」
「わ、私は大丈夫だけど。それよりも伏見君の方が」
美幸が伏見に手を差し伸べようとしたが、サヤの顔が脳裏をよぎったために手を引っ込めた。
伏見は手を引っ込める様子を見ていたが、特に気にする素振りも見せずに言った。
「大丈夫大丈夫。昔から身体頑丈だから」
伏見はよろめきながら立ち上がると、背中や尻の砂埃を払った。
「えっと、その、ありがとう」
美幸が礼を言うと伏見は意外そうな顔をした。
「別にお礼言われるようなことしたわけじゃないよ。野呂さんが無事なら良かった」
「でも、私、その、今まで冷たい態度ばっかりだったのに」
あれだけ冷たい対応をしていたというのに、目の前にいる彼は自分の身体の心配よりも私のことを心配している。
その事実に美幸の感情はグチャグチャになっていた。
「んんん。どういうニュアンスで野呂さんが言ったのかイマイチ分からなかったけど、野呂さんのためならこのぐらい何とも無いよ」
美幸は鏡を見ずとも自分の頬が赤く染まるのを実感した。その顔を伏見に見られないように美幸は明後日の方を向いた。
なんなんだこの感情は。
私は別に伏見のことなど好きではない。
思い出せ。伏見はサヤの好きな人。
伏見は母のように色々なことに厳しそうな人間。
どんなに好きじゃない理由を頭に並べても、美幸の頬は熱を帯びたままだった。
「それで、柳さんを置き去りにして一人で走ってたのはどうして?」
伏見の質問に「最初は文句を言いたくて」と聞こえるか聞こえないかぐらいの小さな声で呟いてから言った。
「そ、それは、途中まででも良いから、三人で帰ったら、どうかなぁと思って」
美幸の提案が意外だったようで、伏見は目を丸くしたが、すぐにニコリと微笑んだ。
「野呂さんがそう言うなら喜んで」
「ちょっと美幸!? 大丈夫!? なんか思いっきり転んでるように見えたけど」
パタパタと音を立てながら早足でやってきたサヤが美幸へと歩み寄った。
その後、美幸とサヤと伏見の三人で帰路についた。
家の方向の違いにより、伏見が最初に別れて行った。
伏見と別れた後、サヤと色々話をしたことは覚えているが、何を話したのかはサッパリ覚えていない。サヤの話よりも自分の中に突如湧き出た温かく柔らかい感情をどう処理しようかと考え続けていたからだ。
ああ、毛嫌いしていたけれど伏見君は悪い人じゃないな。
心の中でそういう感情が湧いてくるのを実感したものの、次の日の朝のホームルームで信じられない言葉を耳にした。
「良く聞け。伏見が交通事故に遭って重症だそうだ。昨日から入院しているということしか俺も知らない。とにかく伏見はしばらく休みだ。お前らも他人事だと思わず、登下校の際は交通安全に気を付けるように。以上」
え?
どうして?
現実を受け入れたくないという感情と心当たりがあることに対する罪悪感に美幸の脳は激しく揺さぶられていた。
これは呪いだ。私の呪い。
地獄坂でぶつかった時に、私の中の呪いが伏見君に移ったんだ。そうとしか考えられない。
すると、存在しないはずのもう一人の自分が突如教室に現れ、美幸の席の横に立って悪い笑顔を見せた。
『意図的かどうかはさておき、お前が自ら相手の身体に触れに行ったってのと、全身で触れたってのが良かったよなぁ。あの短時間の接触でここまで効果を発揮するだなんて』
目の前にいる幻覚でしかないもう一人の自分がケラケラと笑った。
(何がおかしいの!?)
『おかしいのはお前だろ。こんなに分かりやすく大きな収穫があったってのに、何をピャーピャー悩んでんだ。むしろこれからだろ』
(これから? 何を言ってるの?)
『おいおい。お前がお前であるためには誰かを呪い続けないといけないんだぞ? その意味分かってんのか?』
(ッッッ!)
『お前がお前で無くなった方が俺としては万々歳なんだが、この近くにナニか妙な気配を感じる。ソイツの正体を探って、場合によっては呪い殺すまでの間に限っては、俺が俺であることがバレないように、お前がお前である方が都合が良い』
もう一人の自分は腕を組んで一方的に言い放つと、美幸の肩にネットリと撫でるように手を置いた。
『だから、精々自分を見失わない程度にこれからも呪い殺してくれよ。別に構わないだろう? 無差別じゃない。お前は殺す相手を選べるんだから』
母、レイ、伏見君。
私のせいで酷い目に遭ってしまった。
私が呪いを押し付けたばっかりに酷い目に遭ってしまった。
こんな私がのうのうと生活していいわけがない。
誰かに呪いを移すぐらいなら、私が呪いを抱えて。
美幸の身体は確かに椅子に座っているはずなのに、ズブズブと闇の中に沈んでいく感覚に襲われた。
それから二ヶ月半後。
事態は大きく動き出す。
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