第2話 引金
二話 引金
二月十日。
星ノ浜高校合格発表日。
美幸は親友の柳沙耶(やなぎ さや)と星ノ浜高校に来ていた。
星ノ浜高校の合格発表は、インターネットによる番号検索と、学校の敷地内に合格発表用の掲示板に貼り出す二種類があった。
母には強く反対されたのだが、結果発表の感動を親友のサヤと分かち合いたかった美幸は、自分の合否を調べないまま高校に足を踏み入れていた。
母には先に番号検索しても良いけど絶対に私に言わないでね、と強く念押しをした。
母がその約束を守ってくれるかは正直怪しかったが、高校に到着した時点では両親から何の連絡もなかった。
「緊張するね」
「うん」
サヤの明るく聞いていると元気になる声も、この時ばかりは少しばかり震えていた。
美幸はサヤを安心させるためではなく、自分を安心させるためにサヤの手を握った。
握られたことに気が付いたサヤも握り返した。
手袋越しであっても、互いの気持ちはしっかりと通じ合った。
「じゃあ、見よっか」
「そう、だね」
合格発表の掲示板の前には人集りが出来ていた。
しかし、掲示板の前にいる殆どの人達は自分の番号を探しているのではなく、自分の合格番号の写真を撮ったり、友人や家族と記念の撮影をしていた。
掲示板を見る前に結果を知っている人が殆どで、美幸とサヤのように今から番号を見る人は遥かに少数だった。
「すみません」
記念撮影の邪魔にならないように配慮しながら、美幸とサヤは掲示板の番号が見やすい位置まで人集りの中を縫うように進んだ。
美幸の受験番号は203。
サヤの受験番号は404。
同じ時期に同じコースに願書を出したはずだったが、番号は随分と離れていた。
そのため、掲示板の近くについた二人は、美幸は若い番号の方へ、サヤは後ろの番号の方へと別れた。
無意識の内に早く退いてほしいという表情になっていたのか、記念撮影をしていた人達が美幸の顔を見るや道を開けてくれたため、美幸はスルスルと何となく目星を付けていた場所に進むことが出来た。
ぱっと目に付いた場所に書かれていた番号は190だった。
美幸の心臓がドクンと強く鼓動した。
美幸は深呼吸をしてから、ゆっくりと続く数字を目で追った。
190 195 196 199
不安と緊張でその先を見ることが出来ない。
歯をカチカチと鳴らし、震える手を合わせて拝むようにしながらその先を見た。
200 201 203 205
「え、えッッッ!?」
何かの見間違いや勘違いじゃないことを確認するために、美幸はポケットに折りたたんで入れておいた受験用紙のコピーを開いた。
そこには確かに自分の受験番号は203と書かれていた。
改めて顔を上げ、掲示板にも203と書かれていることを確認した。
夢じゃない、合格したんだッ!
「や、やったッ!」
自分の番号を見つけたら写真に撮っておこう、と思っていたことをすっかり忘れ、美幸は思わず万歳をしていた。
美幸の直ぐ側で記念撮影をしていた違う学校の制服を着た人達が、美幸の喜ぶ姿に気が付き「おめでとう」と声をかけた。
美幸はお礼を言ってから、恐る恐る「合格しましたか?」と尋ねると、満面の笑みと共にピースサインを返された。
「あ、そうだ。サヤは!?」
掲示板の前で産まれた一体感も心地良かったが、美幸は記念撮影していた人達に別れを告げ、親友の元へと向かった。
サヤは掲示板を見つめてボーッと立っていた。
「サヤ、どうだった?」
美幸の声に身体をビクッと震わせたサヤの顔は曇っていた。
美幸はサヤが見つめていた辺りに視線を動かした。
399 401 405 406
「あっ」
美幸は間の抜けた声を出した。
先程まで合格の嬉しさで熱を帯びていた身体が、一瞬の内に凍り付いた。
無い。
サヤの番号が無い。
「ねぇ、美幸は、どうだった?」
親友の顔は見たことがないほどに生気を失っており、美幸は内心ゾッとした。
そこからどんな会話をして、どうやって家まで帰り着いたのか、美幸の記憶から殆ど抜け落ちている。
ただ、サヤに何の言葉も言えなかった後悔だけが募っていた。
帰宅した美幸がリビングに向かうと、母がテーブルに学校案内を広げ、ノートパソコンで星ノ浜のホームページを見ていた。
「合格おめでとう、美幸」
娘の帰宅に気が付いた母は、椅子から立ち上がり美幸の側に寄って珍しく上機嫌な声で言った。
「うん」
合格したのにも関わらず、やけに落ち込んでいる娘の様子に母は首を傾げた。
「どうしたの?」
「いや」
歯切れの悪さに全てを察したのか、さっきまでの上機嫌な声はあっという間にいなくなり、いつもの少し不機嫌な声色に戻っていた。
「だから言ったでしょ。友達と見に行くのは止めた方が良いって」
「うん」
どうにもならない分かっていることを突き付けられるのは癇に障ったが、母の正論に言い返す言葉は無かった。
「とりあえず入学の手続きはするけど、公立高校も受験したらどう?」
「え?」
母からの予想外の展開に美幸は一瞬フリーズした。
「良いじゃない。公立高校を受験したって。公立高校の試験を受けたって星ノ浜の合格は取り消されないんだから。それで公立高校も受かれば、どっちに行くか選べるでしょう? 公立高校に行っても良いし、公立高校に受かってもやっぱり星ノ浜に行くと言っても構わない。ただ、選択肢をみすみす放棄するようなことはしなくてもいいんじゃないの、という話。残り一ヶ月遊び呆けてるより、他にも頑張ってる皆と最後まで頑張った方が良いに決まってる。そうでしょ?」
母は美幸の思考回路がフリーズしていることを知ってか知らずか、矢継ぎ早に持論を言い放った。
「でも」
周りの友達は第一志望が私立なら、私立に受かった時点で受験は終わりって言ってる。
そう心の中で思ったが、言うのは止めた。
いつもの美幸なら主張していたが、サヤの事で頭がいっぱいだというのに、母と言い争いするほど美幸の心に余裕など無かった。
「うん。でも、今日は、疲れたから寝る」
母は娘の態度に文句の一つでも言おうと口を動かしたが、娘に課したかった”公立高校を受験させる”はとりあえず了承された以上、下手に刺激して意地でも公立高校は受験しないと主張されたら困るため、喉まで出かかった文句を呑み込み、代わりの言葉を口にした。
「そう。晩御飯はどうする? 軽い方が良いならお祝いは後日にするけど」
「軽い方が良い」
「そう。じゃあ、ご飯出来たら呼ぶから」
美幸は返事をせずにリビングを後にし、自室のベッドに制服を着たまま倒れ込んだ。
頭の中で様々な後悔が渦を巻く。その一つ一つに苛立ちを感じた美幸は、何度か拳を枕に叩き込むと、涙を滲ませながら眠りについた。
コンコンコン、コンコンコン。
一定のリズムで何か音が聞こえる。
美幸の意識がゆっくりと覚醒し始めると、その音は自室の扉をノックする音だと言うことに気が付いた。
「美幸、晩御飯出来たよ。聞こえてる?」
「はぁい」
ズキンズキンとこめかみが痛む。昼寝をし過ぎたのだろうか。
ゆっくりと身体を起こすと、自分が制服を着たままだったことに気が付いた。
着替えないと怒られるな。
うつ伏せに寝た時についた制服のシワを手で強引に伸ばしてみたものの、シワはくっきりと残ってしまった。
美幸はとりあえず制服を脱いで部屋着に着替えると、制服のシワのことは放置して自室を出た。
「お、美幸。合格おめでとう。合格祝いにケーキを買ってきたぞ。あそこの、えっと、何て名前の店だったかな」
美幸が寝ている間に仕事から帰っていた父は、料理の並んだテーブルに座っていた。
手元の缶ビールの蓋は既に開いており、娘の到着を待ちきれずに一口飲んでいたようだ。
「うん」
娘の反応が鈍いことに父は眉をひそめた。
何かあったのかと母の方をチラリと見たが、母は「本人に聞いて」と言わんばかりにそっぽを向いた。
「まぁ、ケーキは食後だな。冷やしといた方が良いか」
父はゆっくりと立ち上がるとケーキの入った箱を持って冷蔵庫へと向かった。
食事が始まっても、受験に合格したとは思えない程に食卓は気まずい空気のままだった。
「美幸、何かあったろ?」
父の声に美幸の箸を持つ手が一瞬止まったが、美幸は気にせず食事を続けた。
「友達が不合格だったんだろ」
父の核心をついた言葉に美幸の手は今度こそ止まった。
「別に違う学校に通うからって友情が途切れるわけじゃないぞ。違う中学、違う高校、違う大学、違う就職先。行く先は皆バラバラでも、仲の良い奴らとの繋がりはそう簡単に途切れるもんじゃない。それに今の時代は携帯電話があるだろ? 昔と違って、人との繋がりは容易く結べて、簡単には解けないんだ。お、今良いこと言ったな。アハハ」
「昭和生まれの話なんか知らない」
「ッッッ」
冗談交じりに励ました父の言葉を美幸は一刀両断にした。食卓にこれまで以上の沈黙が訪れた。
「ご馳走様」
美幸は自分の食器を重ねると流しへ運ぶために立ち上がった。
「あ、おい。ケーキあるぞ」
「いらない」
美幸はそのまま両親の顔を見ずに流しに食器を置くと自室へと戻って行った。
「ハァ」
父は殆ど空になっているビールの缶を口に当てたが、口の中に温くなったビールが数滴垂れただけだった。
「美幸は帰ってからずっとああなのか?」
「そうね」
「何か言ってやったのか?」
母の返答は沈黙だった。
「何か言ったのか?」
父の問に母は溜め息をついてから言った。
「どうせ私が言うと喧嘩になるから」
母の投げやりな態度に父は顔をムッとさせた。
「そういう態度が美幸に伝わってるから喧嘩になるんじゃないのか?」
「なに? また私を悪者にするの?」
「だからそうじゃないって」
父は内心「また始まった」と悪態をついたが、それを表に出すことはなかった。
「自分が受かって友達が落ちちゃったんでしょ? 気持ちの整理が出来てないだけだから、ああいうのは放って置くのが良いのよ」
母はお茶を啜ってから付け加えた。
「あぁ、そうそう。美幸には公立高校の受験も勧めたわ」
「何で? 星ノ浜の入学手続きはどうするんだ」
「それは並行して進めるけど、美幸がやっぱり公立高校に行きたいって言うかもしれないでしょう?」
「言うわけないだろ。第一志望が星ノ浜なんだから」
父が自信を持って断言するのを見て、母はクスクスと笑った。
そして、目を細め、口角をニュッと上げてから言った。
「星ノ浜が第一志望だった理由が”友達と同じ高校に行きたい”だったとしたら? 友達が落ちちゃったら、美幸はどうするのかしらね」
父は思わず椅子から立ち上がり、数歩後退りした。
目の前に居る妻が、まるで知らない誰かと入れ替わっているかのような気味悪さを纏っていたからだ。
翌日。
一時限目。
美幸のクラスだけでなく、その日の三年生のクラスの全てが、教室で自習をしながら、出席番号順に一人ずつ職員室に行き、私立高校入試の合否の報告と今後の方針を担任の先生と話し合う面談が設けられていた。
担任の先生がいないのを良いことに、教室の中は雑談をする者が多かった。
アイツ落ちたって。
これで受験終わった。
早く受験終わりたい。
受かる気しねぇ。
昨日の出来事を未だに引きずっていた美幸は、聞こえてくる全ての声に苛立ちを感じ、広げた問題集に手を付けずに机に突っ伏していた。
突然、肩を揺さぶられた美幸は跳ねるように顔を上げた。
「野呂さん、次、面談」
「あ、うん。ありがと」
肩を揺すったのは出席番号が一つ前の人だった。美幸は慌てて立ち上がると、教室の出入り口へと向かった。
向かう途中、親友のサヤの席の方をチラリと見ると、サヤは黙って参考書を読んでいた。
美幸はサヤに視線が気付かれないように、すぐに目を逸らすと教室を後にした。
職員室の扉を開けて、「失礼します」と言ってから中に入った美幸は担任の先生の元へと向かった。
職員室の中は教室と違って暖房が効いており、珈琲の香りが薄っすらと漂っていた。
入口から少し離れた所にある担任の岡田の机の上は、平積みしたプリントやノートで散らかっており、無理やり作ったであろうスペースには分厚いファイルが開かれていた。そこには出席番号が一つ前のクラスメイトの名前と志望校が書かれていた。
美幸が来たのに気が付いた岡田は慌ててファイルを手に取り、美幸の名前が書かれたページを開いた。
「とりあえずそこの椅子座って」
岡田は自分の椅子のすぐ近くに不自然に置いてあるパイプ椅子を指さした。
美幸がパイプ椅子に座ると、長い間使われていなかったのかギギギと軋む音がした。
「野呂は、えぇと、星ノ浜だったよな。どうだった?」
「合格しました」
美幸の報告を聞いた岡田は、周りを気にしながら小さくパチパチと手を鳴らすと笑みを見せながら言った。
「星ノ浜合格か。おめでとう」
「あ、ありがとうございます」
「二学期の面談の時は第一志望が星ノ浜と聞いていたけど、公立高校の受験はどうするんだ?」
「前の三者面談の時は受かったら受験終わると言いましたが、公立高校も受けようと思います」
その返答が意外だったのか、岡田は目を丸くした。
「そうかそうか。それは良いことだぞ。ちなみに何処を受けるんだ?」
「まだ、ハッキリとは、決まって無くて」
岡田はわざとらしく座りながらよろける真似をした。
「うーん、適当に決めるモノでもないが、あんまり悩んでる時間は無いぞ。来週には願書提出だからな」
「は、はい」
美幸は心の内に秘めた不安を口にするか一瞬躊躇した。だが、両親にとやかく言われるぐらいなら今この場で先生に怒られた方がマシだと判断し、ゆっくりと口にした。
「じ、実は、星ノ浜のことばかり調べててあんまり公立高校のこと調べてないんです」
岡田は口をあんぐりと開けた。
「おいおい、総合の時間にあれだけ高校調べをやっただろ?」
「す、すみません。終わらせることだけ考えててあんまりちゃんと頭に入ってません」
岡田はハァと溜め息をついたが、怒っている素振りはなかった。
「たまにいるんだよな。私立第一志望の人は特に。まぁ、アレだろ。お母さんかお父さんに何か言われたんじゃないか?」
「まぁ、その、そんな感じです」
岡田は「やれやれ」と言いながら、散らかっている本やプリントの中から別のファイルを取り出した。
美幸がチラリとファイルを覗くと、高校名の横に何らかの数字が走り書きされていた。
「野呂の成績だと、そうだなぁ。上のレベルに挑戦するなら鳴間西、妥当なのは高野台、鳴間南、それと湖北辺りかな。それより下のレベルは野呂には合わないと思う。まぁ、行きたいって理由があるなら止めないが」
岡田はファイルを閉じると、一番バランスの良さそうなプリントとノートで出来た山の上にファイルを重ねた。
「すみません、一度に色々言われて忘れちゃったのでメモして良いですか?」
「ん、あぁ。書いて渡すよ」
岡田は机の引き出しから可愛いキャラクターの書かれたメモ用紙を取り出すと、そこに高校名を走り書きして美幸に手渡した。
「ありがとうございます。でも、あの、先生。なんだかメモ用紙が可愛いですね」
岡田はアハハと笑いながら頭を搔いた。
「あぁ、妻に貰ったんだよ。ただ、仕事で使うにはちょっと可愛すぎて、なかなか使うタイミングが無いんだよ。ホラ、全然減ってない」
岡田は引き出しの中のメモ用紙の分厚い束をチラリと見せた。
「ちゃんと使うんですね。先生偉いです」
「アッハッハ、からかってるだろ。さて、そろそろ面談は終わりだ。次は、えぇと、羽田か。羽田を呼んできてくれ」
「はい、分かりました」
美幸はパイプ椅子から立ち上がろうと重心を移動させると、それに合わせてパイプ椅子がギシシと悲鳴を上げた。
自分が悪いわけでもないのに何だか恥ずかしくなった美幸は少し頬を染めて「ありがとうございました」と言った。
「うん。頑張れよ」
「はい」
この人が担任の先生で良かった、と美幸は心の底から思った。
母のように自分の意見を押し付けるわけでもなく、父のように敵対するわけでも味方するわけでも無いどっちつかずの大人よりも、ちゃんと寄り添ってくれる大人の方がずっと信頼出来る。
美幸は貰ったメモ用紙を綺麗に折りたたんで胸ポケットにしまうと、担任に背を向けて職員室を後にした。
放課後。
親友のサヤと一緒に帰ろうか迷っていると、サヤは鞄を机の上に置いたまま何処かに姿を消していた。
「あれ?」
教室を見回したが親友の姿は無かった。
「野呂さん、今良い?」
後ろから声をかけられた美幸が振り返ると、そこにはクラスメイトの伏見健人(ふしみ けんと)が立っていた。
背が高く、顔立ちは学年の中でも整っている部類に入り、真面目で責任感のある人、というのが美幸の印象だった。
美幸にとって伏見はただのクラスメイトの一人なのだが、サヤは伏見に好意を寄せていた。
サヤの他にも何人か好意を寄せている人がいるのは知っていたが、風の噂で告白に成功した女子はいないという話がある。
今のところ成功者がいないだけで、いつ誰と付き合うかなど分からない。だから誰かに取られる前に告白した方が良いと散々応援をしたのだが、現在も絶賛片思い中である。
「な、何?」
「野呂さんに大事な話があるんだけど」
「大事な話って?」
伏見は少しだけ野呂に顔を近づけると「二人で話がしたい」と囁いた。
「でも、今サヤを探してて」
「柳さんのこと? 柳さんなら先生と職員室に行ったと思うけど」
「そうなんだ」
「じゃあ”例の踊り場”で」
伏見はそう言うと早足で教室を後にした。
「ちょ、ちょっと、行くなんて言ってない」
大事な話ってなんだろう。別に伏見君と話した回数なんて数える程しか無いのに。
無視してサヤを待つのも良かったが、しばらく待っても帰って来る気配が無かったため、美幸は鞄を机の上に置いて廊下へと向かった。
伏見の言った”例の踊り場”というのは近寄る人が滅多にいない屋上手前にある踊り場のことだ。
近寄る人がいないのは、一年中何かが腐ったような異臭がするからである。
学校側は下水管の漏れや雨漏り、動物の侵入等を疑って何度か調査を依頼したものの、未だに原因が分かっておらず、経過観察という名の放置を決め込んでいる。
例の踊り場に近付くと、薄っすらと異臭が鼻を掠めた。
「何でこんな所に呼び出すの?」
美幸の声が少し苛立っていることを気にも止めずに伏見はサラリと返した。
「二人きりで話したいからだけど」
「じゃあ早く用件言って」
美幸が急かすと、伏見は躊躇なく即答した。
「分かった。単刀直入に言うよ。僕と付き合って欲しい」
は?
今何て言った?
付き合って欲しい?
美幸の頭は真っ白になった。
「な、なんで?」
混線する思考回路から美幸がどうにか絞り出した返答は伏見には意外だったようだ。
「何でって。そんなの好きだからに決まってるじゃないか」
「いや、だから、なんで私なの?」
「何でってどういう意味で言ってるのか分からないけど、僕が野呂さんのことを可愛いと思ったからだけど」
なんでなんでなんでなんで!?
誰かに告白されたらなぁ、と夢見ることはあるけれど、よりにもよってサヤが片思いしてる相手に告白されるだなんて。
それに伏見君って真面目なイメージがあるけど、なんかお母さんみたいに正論をズケズケ言ってきそうで苦手なんだよなぁ。
などと言えるはずもなく、美幸の想いは言葉にならなかった。
「で、どうなの?」
「ど、どうって?」
「返事」
「いや、その、えぇと、あの」
別に伏見君のこと好きじゃないから振れば良いだけ。
よし、言うぞ。
美幸は一度深呼吸をしてから言おうと息を吸った。
ここが”例の踊り場”であることを忘れていた美幸の嗅覚に異臭が突き刺さった。
「ウッ!」
「え、なに。大丈夫?」
伏見が手を差し伸べたが美幸はその手を振り払った。
「ごめん。伏見君にはもっと良い人がいると思うから」
「いないよ。野呂さんが一番だから告白したんだから」
聞いてるコッチが恥ずかしくなるような台詞をよくもまぁ異性相手に顔色一つ変えずに言えるな、と美幸は逆に不信感を募らせた。それが自分の思いを口にするキッカケとなった。
「じゃあ、気に入らない所を言うよ。一つ目、受験で一杯一杯の時期に告白するなんてあり得ない」
「え、僕は公立の受験があるけど、野呂さんの受験はもう終わったって聞いたけど」
受験が終わっただなんて一度も口にしていない。
だが、伏見が嘘をついているようにも思えない。美幸は純粋に話の出所が気になり尋ねた。
「誰から?」
「昼休みに近くにいた女子グループがそんなこと言ってたよ。違うの?」
「その女子グループってのが誰のことか知らないけど、私は公立高校も受験するよ」
野呂の言葉を聞いた伏見は「えっ」と小さく声を漏らした後に慌てて頭を下げた。
「ごめん。受験が終わったと聞こえたから今日言おうと思ったんだ。まだ受験があるなら返事はすぐにいらないよ。まずは合格しないとね」
コレで話はとりあえず収まったのだが、先程までグイグイ来ていた男がこうもアッサリと引いてしまうと、それで良かったはずなのに何かモヤモヤとした不快感が美幸の胸の内に湧いてきた。
「そもそもの話、私、伏見君と全然話したことないよね?」
「そうだね。事務的な会話や挨拶を除けばほぼゼロだね」
「じゃあ何で私のことを好きになったの? おかしくない?」
伏見は口元に手を当てて少しの間考え込んでから返事をした。
「可愛いと思ったからって言わなかったっけ?」
「言ったけどさぁ」と言いながら顔を赤らめ声が小さくなった美幸は、首を左右にブンブンと振って雑念を払ってから付け加えた。
「私のどこが可愛いの? 他にも可愛い子いるじゃん」
一瞬の間。
伏見は眉をひそめながら言った。
「例えば?」
「え? サヤとか」
今度は長い沈黙が訪れた。
沈黙の中で、美幸の脳はゆっくりと現実を認識し始めた。
不味い不味い不味い不味い!
サヤの名前を出したのは完全に無意識だった。
勘の良い人間だったらサヤの想いに気がついてしまうかもしれない。
けたたましくなる心臓の音に美幸の鼓膜は揺さぶられていた。
だが、目の前に居る伏見は特に変わった様子も見せずに言った。
「柳さんのこと? まぁ、普通、だと思うけど」
「ッッッ」
何をやっているんだ私は。
取り返しのつかない重大なミスをしたのではないか?
気が付くと自分の手が震えていることに気が付いた。
美幸は震える手を反対の手で抱きしめるように包み込むと、途切れ途切れに小さく呟いた。
「あ、その、えっと。ごめんなさい。付き合うのは、ちょっと」
美幸は一方的に告げるとその場を後にしようと踵を返したが、伏見に肩を掴まれた。
「あ、ごめん。つい。ただ、聞いて欲しくて」
伏見はすぐに肩を離すと謝罪の言葉を口にした。
その言葉を聞くために立ち止まってしまったため、美幸は伏見の次の言葉を待たざるを得なかった。
「うん、分かった。そもそも受験があるからね。受験が終わったらもう一度答えを聞かせてよ。それまではもうこの話はしないから」
「う、うん」
「連絡先の交換は、いや、それも受験の後にしよう。うん、話はそれだけ。それじゃあお互い受験頑張ろっか」
「うん」
「そう言えば野呂さんはどこの高校受けるの?」
「ッッッ」
美幸が惑いの表情を浮かべたのに気が付いたのか、伏見は「ごめんごめん」と謝った。
「ああ、深い意味は無いよ。恋愛のことだけ考えて高校選ぶようなことはしないから。ただの興味本位の質問」
その言葉に嘘は無さそうだった。
美幸は返事に迷ったが、他に何と言えば良いのか思いつかなかったので正直に答えた。
「今日の面談で先生にも相談したけど、まだ一つに絞れてないの」
「そうなんだ。まぁ野呂さんは頭が良いから選択肢が多そうだもんね。それじゃあこれで本当にさようなら。こんな所に呼び出してごめんね」
伏見はそう言うと、階段を一個飛ばしで降りながらあっという間に姿を消した。
異臭漂う踊り場にいつまでも居る理由が無いため、美幸も教室に戻ることにした。
「美幸ッ!」
教室に戻った美幸は扉の影で死角になっていた場所から何者かに抱きつかれた。
「サ、サヤッッッ!?」
「何処行ってたの美幸。早く帰ろうよ」
「え、あ、うん。サヤはもう大丈夫なの?」
言葉にしてから言い方を間違えたと美幸は冷や汗をかいたが、サヤは特に気にする様子もなく笑った。
「うん、大丈夫」
「そ、そっか。じゃあ帰ろっか」
サヤに「早く早く」と急かされた美幸は、急いで自分の鞄を回収すると教室の出口で待っていたサヤの元へと向かった。
伏見君に告白されたことは黙っていよう。
受験が終わるまでは彼の方から接触してくることはないだろうし、私から関わるようなこともない。
大丈夫。
それよりもサヤの公立高校受験の方が大事。
隣で笑うサヤを見ていると思わず笑みが溢れてしまう。
あぁ、サヤと同じ高校を目指すのも良い気がしてきた。そもそもの話、サヤが目指すというから目指したのが星ノ浜だ。サヤがいないのなら星ノ浜に固執する必要は無い。
たとえ進路を変更したとしても、”神様にお願いしたのは『高校に受かりますように』だから、何の問題も無い”よね。
その日の夜。
深夜零時過ぎ。
寝付きが良い方である美幸は十一時頃には布団に入りすぐに眠りについていたのだが、気が付くと目が冴えていた。
てっきり早朝なのかと思って枕元の時計を見ると、時刻は零時過ぎだった。
「布団に入って一時間も経ってない?」
トイレに行き忘れたわけでもなく、身体を冷やしたわけでもない。
何故目が冴えたのかと疑問に思った美幸は何気なく天井を見つめると信じられないモノが視界に映っていた。
無数の手が天井から生えてぶら下がっていた。
赤子の手、子供の手、男の手、女の手、老人の手。
ぶら下がっている腕はゆっくりと伸びており、無数の手の平がゆっくりと確実に美幸に接近していた。
「ッッッ!?」
パニックになった美幸は叫びを上げながら暴れようとしたが、声も出ず、身体も思うように動かず、ただただ天井から垂れ下がる無数の手の平を見つめることしか出来なかった。
やがて、垂れてきた手の平が美幸の頭に触れた。
冷たく、乾いた、悪意を纏った手。
「ッッッ!!」
何本もの手が美幸の頭をガッチリと押さえ、上顎と下顎を無理やり開かされた美幸は、コレは悪夢なのだと何度も頭の中で唱えた。
やがて、頭を押さえつける手の隙間から見えたのは赤子の手。
その赤子の手がゆっくりと美幸の口の中に触れた。
歯、舌、頬の裏側。
何かを探すように弄ってきた赤子の手は、目当ての物が近くに無いと思ったのか喉の奥に入り込もうとした。
「ッッッ?!」
どんなに吐き出したくても吐き出せない。強烈な不快感に襲われながら、赤子の手はゆっくりと美幸の腹を目指して進み続けた。
ゴクッ。
生理現象により喉が呑み込もうと動いたタイミングで、赤子の腕は途中で千切れて美幸の身体の奥へと入っていった。
恐怖と不快感で気を失いかけた美幸が最後に見たのは、ベッドの傍らに立ち、美幸を睨み付けている長身の女の姿だった。
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