恵雨
田崎
恵雨
「あなた、足腰痛いのにまたヒトの姿でいらしたの」
老人を見た美しい女性が駆け寄った。
「円窓を開けておいたのに」
「窓は光を採り入れるものじゃ。儂は扉から出入りしたい。龍の体だと障子も雨戸も壊してしまうからな」
偏屈な老人は女性の手を借り、よっこらせと座布団に座った。
老人の顔には大層な歴史を感じる皺が刻まれ、高い鷲鼻に白い髭をたくわえていた。高貴な和服を着ているが、着古しているためであろうしわや色のかすれが俗っぽい雰囲気を醸し出している。
対して女性は知性を感じさせる凛々しい目元に可愛らしい唇をそなえ、老人に比べて随分と若く美しい。服装は華美ではないが上品で整えられている。
二人は夫婦だ。この家がある山の麓には土着信仰が深く根付く村がある。雨が降らず、困り果てた村人達が当時孤児であった彼女を龍神へ『嫁入り』させたのだ。妻となった彼女は、龍神の屋敷へ住まうこととなった。
「私が嫁入りの日にあなたの姿に驚いたこと、まだ気にされてるの?」
妻がくすくすと笑いながら言う。
「……」
老人はそっぽを向く。すると、老人の体がするすると上に伸び始め、服は同化し、肌に鱗が浮き出てくる。体はみるみる大きくなる。座布団に胡座をかいていた老人は、天井に届かんばかりのとぐろを巻いた美しい龍に姿を変えていた。
「その姿だと楽なんでしょう?無理に私に合わせる必要はないのですよ」
妻は嬉しそうに笑いながら、自分の顔より何倍も大きい龍神の顔に手を添えてそっと頬を当てた。
鱗に、化粧したてのひんやりした柔らかい頬が埋まる。出会った時に怯えていたのが嘘のように、自分のことを愛してくれている。
麓の村が生贄のように娘を寄越してくることは度々あった。ところが来る娘は皆龍神を恐れるばかりで、屋敷で身の回りの世話をするどころか逃げ出したり自決したりと忙しなく生を終えた。村に雨の恵みをもたらす龍神の力も僅かばかりしか湧かなかった。
しかし此度の娘は違った。初めは怯えこそしたが、言葉が通じると理解すると、次第に懐こく龍神の世話を焼きはじめた。その頃、龍神は長い生の中で、やっと恵みをもたらす力が如何にして湧くのかを理解した。それは人との関わり、もっと言えば愛だ。龍神の寂しさを紛れさせる愛が力の源だったのだ。
いつだったか、龍神は彼女が嫁入りに至る経緯を聞いた。孤児だという彼女に、村人は随分とひどい仕打ちをしていたようだ。その上、実質生贄となる『嫁入り』だ。それを聞いた時、龍神は怒った。あの夜は山や村一帯に何度雷が落ちたかわからない。
しかし今、愛を教えてくれたその妻は、優しく頬を合わせている。体の内側から伝わる熱がお互いを暖めている。
「最近雨が続いてますから、外は寒いでしょう。とぐろの中は暖かそうね」
妻が冗談めかして言う。
「そうじゃ。ほら、体を登って入ってみなさい」
「良いの? じゃあお邪魔しようかしら」
龍神がとぐろを上手くずらして、妻を招き入れる。
「まあ、本当に暖かい」
「日が出るまでそこにいても良いぞ」
「やあね、こんな土砂降りじゃ、いつ雨が止むか分からないじゃないですか」
二人で笑い合う。夫婦が暖かく笑い合っている。
龍神は心から思った。彼女をずっと愛そうと。ずっと愛して恵みの雨を降らしてやろう。この山の尾根に挟まれた、彼女を不幸な目に合わせた、あの忌まわしい村が流れるまで。
恵雨 田崎 @sui-mirror
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