書を燃やし、貴女と発つ
ねこじゃ・じぇねこ
書を燃やし、貴女と発つ
月明かりの下、仄かに冷える宵闇の中、わたしは静かに火を眺めていた。不慣れながらどうにか集めてきた
この書を燃やすきっかけとなった女性もまた、わたしの横で静かに炎を見つめていた。中性的な美を宿すその横顔からは、初めて見た時に感じたものと同じ覚悟のようなものが感じ取れる。きっと、同じような光景をこれまで幾度も見届けてきたのだろう。年の頃は私より少し上であるくらい。だが、彼女とわたしの間には、埋めきれぬ差があった。生まれてこの方、十数年ものあいだ、籠の鳥のような暮らしに満足し、その身分に誇りすら感じていた自分を恥じらってしまうほど、彼女は大人びていた。その顔に宿る美しさも、ただ無条件に可愛がられて、もてはやされたわたしの顔立ちにはないものだった。
その美貌を見つめていると、彼女は炎から目を逸らさずに囁いてきた。
「私を恨んでも良いのですよ」
淡々としたその言葉に、わたしは慌てて目を逸らした。ただ俯き、静かに答える。
「そのようなこと、いたしません」
「けれど、貴女は悩んでおられるでしょう。これからどうすればいいのかと」
彼女の言葉に、わたしは口籠ってしまった。
ああ、それは確かである。これからどうやって暮らせばいいのかなんて、何も分からない。豊穣の書によれば、わたしは神の使いであった。わたしがこの地に暮らし続ける事で、豊穣は約束され、村は守られるのだと言われていた。豊穣の書に従い、そのように生まれ、暮らし続けた神の使いはこれまで何人もいた。同じように暮らし、一生を終えるのだと、わたしは教え聞かされていた。
だから、わたしは知らないのだ。神の使いでない、普通の人間の娘の暮らしなど、想像もできない。それでも、わたしはこの道を選択してしまった。今更、後悔しようと引き返すことは出来ないのだ。豊穣の書は、もうじき灰となって消えるだろうから。
「これからの事は、これからじっくり考えます」
わたしは静かにそう答え、灰となりゆく書を眺め続けた。
豊穣の書を書いたのは、
わたしの故郷もそうだった。豊穣の書は、朝霧によって、この地にもたらされたもの。その動機は、この地にて飢饉に苦しむ者たちを救いたいという純粋な思いだったと言われている。豊穣の書には偽りの歴史が記されている。古くよりこの地に神の使いがいた事実はないのだ。しかし、朝霧が生まれ持っていた不思議な力が、この書に霊力を与え、偽の歴史が真実であったかのように働きだした。この書に従い、神の使いの基準を満たす者を迎えると、土地は肥え始めた。そして、今の世に至る。
──うまく行っているのなら、いいじゃないか。真実でなくたって。
そう言ったのは、故郷の村長だった。その姿が今も脳裏に焼き付いている。彼は怯えていた。もしもこの書を失えば、約束された豊穣も消え失せるのではないのかと。だが、冷静な態度でその怯えを取り除こうと努めたのが、わたしの見つめるこの女性だったのだ。
名は
しかし、そんな説明をされたところで、すぐに信じられるわけがなかった。わたしだってそう。むしろ、わたしこそが最も信じたくない立場にあった。神の使いと言われて生まれ育ち、その使命と歴史の重みを感じながら暮らしたこの十数年。その日々が偽りであったなんてどうして信じられるだろう。素性のしれぬ女だ。この地を破壊しに来た邪鬼だと思いたくもなるし、そのような暴言を吐きかけた事もあった。だが、そこまでに至らなかったのにも理由はある。
夕霧は、故郷に来てから常に悩み続けていたのだ。彼女は無理やり豊穣の書を奪おうとしたわけではない。この地の人々の暮らしぶりと、豊穣の書の扱いを静かに見つめ、そして常に考え続けていた。村長が口にした考えのようなものを、夕霧もまた持ってはいた。真実を取るか、偽りであろうと秩序を取るか。どちらにするべきか、彼女は悩み続けていたのだ。その真剣さを知ってから、わたしは彼女への印象を変えざるを得なくなった。
だが、村人たちの全てがそうだったわけではない。何処からか夕霧という旅の女の目的が知れ渡り、同時に混乱が生まれ始めた。村の人々にとって、豊穣の書は生まれるより前から守られてきた歴史そのもの。そこに害をなす余所者の存在など、許せるはずがなかったのだ。
瞬く間に夕霧を危険視する意見は広まり、怒りと不安、そして恐怖が伝染していった。馴染みのある人々が、狂気に駆られるその姿は、わたしの心を抉っていった。村の外──山を越えた先の町ではもう、文明の利器を頼って便利な暮らしをしているというのに、彼らは書に囚われている。それも、偽りの書に。
決断したのはわたしだ。
わたしが神の使いを辞めると宣言すると、事態はさらに混乱を極めた。わたしを幽閉しようと動く者まで現れだし、豊穣の書を盗み出して命からがら逃げだしたのだ。村人たちから身を隠していた夕霧の元へと転がり込み、書を燃やして欲しいと願い、そして、共に村を去ることしか出来なかった。
きっと今頃、わたしは神の使いから悪鬼の化身に代わってしまったことだろう。それでも、この書さえなくなれば、故郷は良くなるかもしれない。そう信じ、わたしは夕霧に豊穣の書を渡したのだった。
夕霧が豊穣の書を受け取ると、途端に不思議なことが起こった。書の表紙に記された朝霧の名が、怪しく光ったのだ。夕霧によればそれは、これが間違いなく朝霧によって記された書である証だという。そしてこの書は、わたしの願いに従って、焚かれる運びとなった。
「行く当てがもしなければ、私が責任を持ちましょう」
夕霧は言った。
「私はこれからも
差し伸べられたその手は、真実と言う名の暗闇に放り出されたわたしにとって、唯一の光に見えてならなかった。その手を迷わず握り返し、わたしは答えた。
「新しい居場所など、何処へ行こうとわたしにはもう見つからないでしょう。あるとすればそれは一つ。貴女の隣に違いありません」
それは、心の中にひっそりと宿る彼女への気持ちを仄めかした言葉だった。
全てが嘘だという可能性。夕霧という人の虚言だという可能性を疑わなかったわけではない。それでも、最終的に彼女か故郷かという選択で、彼女を選んだ理由はここにあった。
私は彼女と行きたい。彼女と別れたくない。初めて彼女と会った時に宿った気持ちは時間と共にどうしようもないほど膨れ上がり、抱えているだけで苦痛なほどだった。安らぐ方法があるとすればそれはきっと、彼女と共に過ごすこと。だから、わたしは選択することができたのだ。誇りも、名誉も、全て投げ捨て、書を燃やすということを。
その溢れんばかりの想いのどれだけを、夕霧が気づいたのかは分からない。ただ、彼女は美しい顔にわずかな憂いを含ませて、わたしに答えただけだった。
「そうですか。では、しばらく共に参りましょう」
彼女の言葉に頷いたのち、しばし無言で焚火を見つめた。豊穣の書はすっかり焦げてしまっている。そしてこれらが灰となり、塵となる時、神の使いであったわたしは完全にいなくなり、新たな日々が始まるのだ。
その予感を覚えながら、わたしはただ焔の揺らめきを目に焼き付けていた。
書を燃やし、貴女と発つ ねこじゃ・じぇねこ @zenyatta031
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