あの音
虫十無
音と夢
徒競走とかのスタートの合図、あれに使われるピストルの音が苦手だ。あれを聞くとどうしても身体がかたまってしまう。多分怖いのだろうと思う。ただ怖いと思うよりも前に身体が動かないという反応で出てしまうから自分のことなのに怖いのだろうという他人事みたいな言い方しかできない。
ピストルの音なんて運動会とか体育祭でしか聞かないけれど、中学校までは徒競走に全員参加だったから毎回出遅れていた。足は速かったからゴールするころには大きく遅れてはいなかったけれど、速いからこそ練習みたいに出遅れなければ一位もとれそうだと言われていた。練習のときはホイッスルだから身体がかたまることはない。本番でだけどうしても出遅れてしまって、きっと緊張のせいだと思われていたのだろう。高校生になって体育祭は自分で出る競技を選べるようになったからピストルの音でスタートするものには出なくていいようになったけれど、結局生徒席で身体がかたまっている。
昔から、たまに見る夢がある。いや、夢を見る回数がそもそも少ないから、見る夢の九割はその夢だ。
森の中を逃げている。いや、森というより多分山だとなんとなく思っている。けれどどういう地形なのかはわからない。ただ葉が落ちきる直前くらいの木がたくさん生えていて、その隙間をぬって逃げていく。どこかから銃声が聞こえて、多分それから逃げている。一緒に逃げる人がいて、その人の顔も声もちゃんとは思い出せないのだけれど、表情や声音が怯えていることだけはわかる。俺は銃声の度に身体がかたまって、一緒に逃げる人は多分励ましてくれる。でも俺もその人も怖がっている。多分ピストルの音が怖いのもこれを思い出してしまうからだろう。その後どうなるのかはわからない。何度か銃声を聞いた後に唐突に目が覚めるから、逃げ切れたのか、逃げ切れなかったのかということもはっきりしない。
夢だから感覚がぼんやりしているのは当然だけれど、それにしては体験したかのように妙にはっきりしたところがあるように感じる。例えばピストルの音がはっきり残るだけで後ろの木々のざわざわとしたゆらめきとかも残っていることとか。それでも身体をどうやって動かしていたかとかどんな温度だったかとかそう言ったことは覚えてない。
俺はそんなことを体験したことはないはずだ。運動会とかのピストルの音以外のそういう音を実際に聞いたことなんてないはずだ。だからもしかしたらこれは前世の記憶なのかもしれないと思っている。前世なんてものを丸ごと信じているわけではないけれど、それでもこの夢を説明しようとするならそれが一番しっくりくる。前世で、戦争とかで、逃げるような事態になったとか、きっとそういうことだろうという説明をつけている。
けれど全部友達どころか家族にすら話したことがない。
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