第10話 呂布奉先

 曹操は、揚州刺史の陳温から二千人の兵を与えられた。

 しかし、この兵は反乱を起こして、離散してしまう。

 仕方なく沛国で兵を募集し、そこで千人を得た。

 彼は酸棗へ行く気にならず、袁紹に頼ろうとして、河内郡へ向かった。

 

 流浪の将と言われると、劉備を思い浮かべるが、この頃の曹操も放浪している。

 曹操は官僚だったときは転勤族であり、挙兵後は転々と移動し、なかなか根拠地を得ることができない。


 董卓の動向は?

 敵連合軍と散発的に戦い、これを撃破している。

 汴水で曹操軍を大敗させ、河陽津で王匡軍を大破し、袁術から兵を借りていた孫堅軍も撃退した。


 だが、洛陽は依然としてゆるやかに包囲されている。

 董卓は危機感を覚えた。西方の長安に遷都しようとし、190年2月に強行した。

 献帝をそこに移し、洛陽の民を徒歩で移動させた。

 それだけでは済まさず、なんと洛陽を焼いた。

 華やかだった旧帝都は炎上し、多くの建物が焼け落ちた。洛陽は焼け野原と化したのである。


 反董卓連合軍の盟主であった袁紹は、長安遷都や洛陽炎上を阻止できる位置にいて、その軍勢も持っていたのに、ついに動かなかった。

 戦わず、皇族の劉虞を皇帝に立てようとする陰謀をめぐらせた。曹操は反対した。


「長安に献帝陛下がおられる。どうして別の帝が必要なのだ」

「いまの皇帝は董卓の傀儡だ。認めることはできない」

「新たな皇帝は、きみの傀儡になるのではないか。大乱を誘発するだけだ」


 袁紹は曹操の意見を無視し、陰謀を進めた。

 しかし当の劉虞が乗り気ではなく、成立しなかった。

 他人を利用し、自分の手は極力汚そうとしない袁紹の悪癖を、この策に見ることができる。


 董卓軍を初めて敗北させたのは、孫堅である。

 191年、彼は敗残兵をまとめ、司隷河南尹に進出し、陽人城に入った。

 董卓は胡軫と呂布に軍を率いさせて、孫堅を撃破しようとした。

 が、胡軫と呂布は不仲であった。足並みが揃わない。

 胡軫は陽人城攻略をあきらめ、撤退しようとしたところを孫堅に叩かれて大敗し、将校の華雄を喪った。

 呂布は撤退した。


 陽人の戦いに勝利した孫堅は、無人の洛陽へ行った。

 荒れ果てたかつての首都を見た。ほとんどの建物が炭になり、皇帝陵は掘られ、副葬品が奪われている。

「むごいことをする……」

 孫堅は陵を修復した。彼は素朴な良心を持っていた。


 洛陽滞在中に、井戸が光っているのを見た。

 井戸を調べさせると、伝国の玉璽が落ちていた。

「これは、殿に皇帝になれという天のお告げではありませんか」と部下が言った。

「私にそんなよこしまな野望はない。だが、玉璽はしばらく預かっておこう。長安の献帝陛下に渡そうとすると、董卓に奪われる。他の将軍の手に渡ると、それはそれで厄介だ」

 孫堅は、武勇と胆力を兼ね備えた将軍だった。

 最強の武将と言われる呂布よりも強かった可能性がある。


 ここで、呂布奉先について考察してみよう。

 小説である三国志演義には、虎牢関の戦いという架空の戦闘があり、呂布が単騎で関羽、張飛のふたりと互角に戦ったことが描かれている。

 ここから呂布最強伝説が生まれたのだが、果たして彼はそれほど強かったのか。


 興味深い数え歌がある。

「一呂二趙三典韋、四関五馬六張飛、黄許孫太両夏侯、二張徐龐甘周魏、槍神張繡和文顔、雖勇無奈命太悲、三國二十四名将、打末鄧艾与姜維」という歌詞である。

 強者筆頭は呂布。

 だが、この順序は三国志演義の著述に基づいており、虎牢関の戦いなくしては成り立たない。その戦いは実在しない。


 呂布は必ずしも最強ではなかった。関羽と一騎打ちをしていないから、両者の強弱も不明である。

 孫堅の方が強かったとしても、少しも不自然ではない。

 本作では、武将たちの強さの順序は明らかではないということにしておく。 


 董卓は192年4月に死去した。

 司徒の王允が暗殺の手筈を整え、董相国に死を与えよという詔勅も用意した。呂布が斬殺した。

 董卓の恐怖政治を止めたのが、呂布の生涯最大の功績である。長安の人々はこぞって、暴君の死を喜んだ。

 

 董卓の遺体に、おそるべき逸話がある。

 彼は肥満体で、その死体から地に脂が流れ出した。夜営の兵がいたずらして、へそに灯芯を挿した。死体は不気味なろうそくになった。火は数日間燃えつづけたという。

 董卓蝋燭……。


 余談だが、三国志演義には貂蝉という美女が登場し、呂布を董卓暗殺に誘導する。

 彼女は架空の人物。実在しないのに、楊貴妃などと並んで、中国四大美人のひとりに数えられている。

 三国志演義の影響力はすさまじい。

 これなくして、横浜を含む各地に関帝廟が建てられることもなかったであろう。小説の存在が、現実に影響をおよぼしている。


 呂布は幷州五原郡九原県の出身。そこは漢帝国の北の果て。ほとんどモンゴルである。

 この時代、万里の長城がどこに建っていたのか判然としない。呂布の故郷の北か南か。彼は長城の内にいたのか、外にいたのか。

 いずれにせよ、九原県の村落は北方異民族の略奪の対象とされ、脅かされていたであろう。

 呂布は自警団に所属し、武芸を磨いたのかもしれない。


 彼は騎馬戦闘にすぐれた人という印象があり、飛将という二つ名を持っている。

 実際、異民族と戦うために、馬術を会得した可能性は高い。匈奴人に近い戦闘方法を身につけていたとしてもおかしくはない。


 董卓没後、王允は董一族を族滅し、実権を得た。軍事は呂布に任せた。

 董卓の配下にあった武将、李傕と郭汜は敵視された。彼らは十万の大軍を擁していた。陣営内に、後に曹操の参謀のひとりになる策士賈詡がいて、作戦を立案した。

 李傕らの軍は長安を急襲した。呂布は守り切れずに逃走し、王允は捕らわれて八つ裂きにされた。


 呂布が長安でどれほどの軍勢を握っていたのか判然としないが、城壁で守ればよく、地の利はあったはずである。

 しかし、敗北した。

 彼は個人としての武勇はすぐれていたかもしれないが、将才は孫堅におよばなかった。

 曹操の幕僚からは「呂布は匹夫の勇」と言われた。

 父同然だった丁原と董卓を暗殺したのが、呂布の際立った経歴で、鮮やかな会戦の勝利はないから、けなされても仕方がない。 

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