第9話 汴水の戦い

 曹操と鮑信は歩兵を率いている。

 朝飯を食い、一時間で四キロメートルほど進んで、小休止を取る。一日に五時間歩き、約二十キロメートル進軍する。そして宿営と夕飯の準備をして、食べ、眠る。

 夕食後、曹操は曹洪、夏侯惇、夏侯淵、衛茲を集め、鮑信と彼の弟、鮑韜も呼び、焚き火を囲んで話をした。


「我々はまっしぐらに西進する。汴水を渡り、成皋県を経て、洛陽へ向かう。夏侯淵は明日、汴水へ急行し、船を集めておけ」

 汴水は黄河の支流である。

「成皋に徐栄軍が駐屯しています。戦いは避けられません。戦術は考えておられますか」

「できるだけ早く到達し、蹴散らしたい」

「兵は拙速を尊ぶと孫子も書いていますからね」

 この時代、知識人は誰でも「孫子」を読んでいる。すばやく行動して奇襲に成功すれば、勝利を得られる可能性は高い。

 しかし、反董卓連合軍が徐栄軍の所在をつかんでいるように、徐栄は曹操軍の行動を察知していると考えた方がよい。

 双方とも諜報活動を行っている。おそらく奇襲は成立せず、強襲になるだろう、と将たちはわかっていた。


「私に先鋒を任せてください」と衛茲が言った。曹操はうなずいた。

 衛茲は物静かで誠実だが、勇敢さも持ち合わせている。

 得がたい人物。曹操は彼に敬意を抱くようになっていた。


 夏侯淵は首尾よく船を集めた。曹操と鮑信の軍は渡河し、汴水西岸で宿営した。

 翌日、衛茲隊が進み、その次に鮑韜隊がつづいた。曹操と鮑信が率いる中軍の中には、曹洪、夏侯惇、夏侯淵がいて、それぞれの隊を統率している。

 徐栄軍は成皋にとどまってはおらず、東進していた。汴水からさほど離れていない原野で両軍は会敵し、遭遇戦になった。


「進め、敵を蹴散らせ」

 衛茲は果敢に徐栄軍に挑んだ。しかし、敵は五万もの大軍である。二千ほどの兵しかいない衛茲隊はすぐに押し返された。

 鮑韜隊が戦場に到達し、ほどなくして曹操と鮑信の中軍も戦闘に加わった。

 駆け引きなどない力戦である。

 兵力で上回る徐栄軍は、押しに押せばよい。

 曹操軍には工夫が必要だったが、この頃の彼はまだ戦の経験が少なく、作戦家としての能力を備えていなかった。

 人事でも軍事でも、曹操は天才ではない。

 結果から言うと、曹操は汴水の戦いで敗北する。敗戦が、彼をすぐれた将に進歩させた。


 衛茲、鮑韜、夏侯惇、夏侯淵は見事に戦っていた。

 敵兵を斬り、声を嗄らして味方を叱咤激励した。

 鮑信もよく配下の兵を指揮していた。

 曹操はそのようすを目撃しながら、自らも剣をふるって戦った。常に身近に曹洪がいて、曹操に敵兵が集中するのを防いでいた。

 

 奮闘していた衛茲が斬られ、敵軍に突っ込んでいった鮑韜が倒れるのを、曹操は見た。

 その後はものすごい乱戦になり、戦闘の推移を追うことができなくなった。

 自然の流れとして、曹操軍はしだいに劣勢になっていった。まともに戦っては、大軍には抗し得ない。


 将軍と将校は馬に乗っている。

 曹操は矢傷を負い、落馬した。

 すぐに曹洪が近づいてきた。


「殿、私の馬を使ってください」

 曹洪は白鵠という名の名馬に乗っている。

「私にかまわず、逃げよ」

「殿!」

 曹洪は叫びつつ、馬から降りた。

「私がいなくても、天下にはなんの影響もありません。しかし天下は殿を必要としています。この国を平定し、平和な世をつくるのは、曹操様の仕事なのです」

「天下平定だと……?」

 曹操にはそこまでの意識はなかった。

 乱戦の中で曹洪に言われて、初めて天下ということを頭の片隅に置くようになった。

 曹操は白鵠に乗り、戦場から離脱した。


 夏侯淵が汴水のほとりにいて、敗走する兵たちを船に乗せていた。

「殿、早く船に乗ってください」

「私より先に、他の者たちを乗せよ」

「殿の命が最優先です。曹操様がいなくては、天下に平和は訪れません」

 夏侯淵も、曹操と天下の平和を結びつけて考えていた。

 曹操は衝撃を受けた。自分の命は捨て石だと思って、洛陽へ向かった。しかし、部下たちはそうは思っていなかった。

 呆然と突っ立っていると、鮑信が騎走してきた。


「曹操殿、負けました。再起を期して、いったんは退きましょう」

「再起できるでしょうか」

「あなたの命があれば、何度でも立てましょう。私はこれからも曹操殿を押し立てていく所存です」

 鮑信は半ば放心している曹操を引っ張って、船に乗せた。


 曹操と鮑信は酸棗に戻った。

 夏侯惇、夏侯淵も帰還した。

 曹洪は最後の船を探し回ってなんとか見つけ、生き永らえた。

 衛茲と鮑韜は帰ってこない。


「衛茲は死んだのか?」

「首を斬られました。残念です……」

「あのやさしい君子は、もうこの世にいないのか……」

 曹操は泣いた。

「鮑信殿、鮑韜殿も亡くなったようですね。申し訳ない。私の戦い方が稚拙でした……」

「曹操殿、いいのです。弟は死も覚悟の上で、この戦に参加しました。私もそうです」

 鮑信の目も赤かったが、人前で涙は見せなかった。


 酸棗では、諸将が相変わらず酒を飲んでいた。

 曹操はそれを見て、怒りにふるえ、一喝した。

「私は戦った。戦って敗れた。諸君は勝てる兵力を持っているのに、まだ戦おうとしないのですか!」

 将軍たちは不機嫌そうに沈黙していた。

「袁紹殿が河内郡から、袁術殿が南陽郡から出陣し、諸君が酸棗から出撃すれば、董卓軍が壊滅するのは火を見るより明らかです。私は兵を失ったが、一兵卒として従軍します。戦いましょう!」

 檄文を発した橋瑁すらうつむいて、声を出さなかった。

 曹操は失望した。

 天幕に戻り、部下たちに諸将のようすを話した。

 夏侯惇は激昂した。

「あいつらにはなんの期待もできない!」


 鮑信は任地である兗州済北国へ帰った。彼はその地の相である。

 曹操の元には、曹洪、夏侯惇、夏侯淵が残るばかりであった。兵は離散した。

「殿、南へ行って、兵を集めましょう」と夏侯惇は言った。

「私は揚州刺史の陳温様と面識があります。揚州へ行きませんか」と言ったのは、曹洪である。

「それもよいな。長江を渡るか」

 曹操は股肱の臣を連れて、酸棗から去った。


 衛茲の故郷、陳留郡襄邑県に立ち寄り、遺族に会って頭を下げた。

 その後、曹操は揚州へ向かった。

 騎馬で旅して、大河長江の渡し船に乗った。

 揚州は陽射しが強い米作地帯である。

 明るい長江南岸に立ったとき、曹操は新たな志望を抱いた。胸中に秘して、口には出さない。

 天下を平定しよう。 

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