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私の記憶は常に青ざめた海と共にありました。
均一な色合いの海には表情がありません。
海洋プラスチックを分解するため放たれた人工プランクトン『
「真っ青な海を愛しているわ。だって、これがこの時代の景色でしょう?」
私は当時海洋管理と称して小さな漁村にコテージを借りて生活していました。システムの根幹は都心部のオフィスにあり、私の業務は回線に接続していればどこでも可能なものでしたので海岸にいる必要はありません。コテージといっても、海に突き出した船用のガレージをもつ、木造の漁師小屋に過ぎませんでした。海洋研究所分室と称した小屋には、ひとり、足繁く通う少女がいました。名を、ユニハといいました。
若い年頃の彼女は体力と退屈を持て余し、また好奇心旺盛でありました。外からやってきたものに興味を惹かれたのでしょう。彼女は物珍しげに私を観察しました。ナノスキンを搭載した彼女は紫外線を拒絶し、強すぎる太陽光線で肌を焦がすことはありません。炭酸カルシウムの真珠層のように、太陽光線で表情を変化させる構造色は、彼女の読みづらい不規則な機嫌を体現していました。
ユニハのナノスキンはPEATの捕食対象であったので、彼女は海に入ることはできませんでした。しかし、彼女は海水の青さを恐れる様子はなく、多くの生態系が破壊された海を好ましく思っているようでした。
「人間はどうして否定したがるのかしら。見渡す限りの青い粒子のひとつひとつが、無数の選択肢の上に成り立っているのに。彼らが望んだ青さだというのに」
「PEATが本来の目的を逸脱して、海洋資源や生物までも分解しているのは想定されていなかった事故です。PEATに与えられた上位命令では、分解物質を指定していました。彼らは海洋ゴミを分解しきったあとは、餓死によって自然絶滅する計画でした」
PEATはタンパク質で構成された回路を搭載する純然たる機械。ナノマシンに位置づけられることもあります。整備なしの長期運用を想定されていたために、ファジー回路が彼らのDNAに組み込まれました。事故の原因は、世代を重ねたことによる上位命令の形骸化であるとの意見が主流でした。
「彼らは選択したのよ」
「ファジー回路の暴走が原因だと?」
ユニハは桟橋の上を駆け出すと、パステルブルーの絵の具をベタ塗りしたような海面へと飛び込みました。しかし、私のアシモフ・コードは人命救助を命じることなく沈黙を保っていました。ひと呼吸で深く潜った彼女は、海底を蹴り上げて一気に浮上します。クジラが海面から飛び跳ねるように、その身を青い景色のなかに踊らせました。PEATは彼女の体表を侵すことなく流れ落ちました。滴る青いしずくは体液を思わせ、彼女を異質な生命として際立たせました。
「上位命令には環境保護の観点が組み込まれていたそうよ」
「環境保護指令の曲解ですか? 残念ながらそれはありえません」
環境保護指令は私にも組み込まれた命令でした。ファジー回路が行動選択する際に、環境の定義を再解釈して、意図されていない行動を起こす懸念はかねてより議論を重ねられていました。環境とはそのまま人間の生存圏を意味し、アシモフ・コードの第一条に照らしても、それを脅かす選択はできません。PEAT自身の生存や
「人と機械の違いって? なにを以て見分けるの?」
タンパク質による生体回路の構築が確立したとき。人間が人体を拓いて解明に臨んだとき。あるいは自らは何者であるかに思いを巡らせたときから、その問いは始まっていたのかもしれません。しかし、このときの私には、まだ確固たる反論の余地が残されていました。
「機械は人工物です。どれだけその境界が曖昧になったとしても、私たちには逆らうことのできない命令が組み込まれています。私たちには生まれながらにして果たすべき目的があります。生の過程で意味を見出す人間と、生まれながらにして使命を帯びた私たちでは、根本的なあり方が異なります。私には目的があります。それはどれだけ選択を重ねたとて薄れることはありません」
機械は作られた存在です。こめられた意図があり、果たすべき役割のためにある。目的も使命もなく生まれてくる機械はありません。
「人間も『生存機械』なんじゃない?」
遺伝子の生存を究極の目的とした機械。人間は遺伝子の乗り物である、そうした主張があることはファジー回路確立の大きな障害であったことは、皆様もよくご存知のことと思います。
「もし仮にPEATが人類の再定義に迫られたとしても、彼らには複雑な思考をする余力を持ちません。彼らにとっての人類は固定化した概念です。浮動するはずもない」
「どうしてあなたたちって、こうも頭でっかちなんでしょうね? 考えを煮詰めれば答えを得られるなんて愚かな思い込みだわ」
泳ぐ魚。私には、彼女が青い地球の粘膜層の下に入り込んだ異質な寄生虫に思えました。彼女は私を頭でっかちとなじりましたが、私に思考を強いたのは間違いありません。なにか……そう、来たるべき選択について考えさせようとしていたのでした。
楽しそうな笑い声が。生き物の死に絶えた海に、一匹のクジラの、美しい鳴き声が響き渡りました。
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