亡き妻との交換日記

佐々井 サイジ

別れ

 美紀が利用していた病室のベッドには、すでに新たな病人を待ち受けているように、真っ白で皺のないシーツが敷かれていた。毎日通い続けたこの部屋とも今日が最後になる。薬指にはめた指輪を撫でながら、窓脇にある腰ほどの高さの棚に近づいた。美紀との結婚生活がたった二年で終わることになるなんて。大きく息を吐きながら椅子に座り、棚の引き出しを確認していると一冊のリングノートが出てきた。美紀の好きな薄い青色の表紙には、〈日記〉と書いてある。小さいが角ばっている特徴的な美紀の字だった。字をなぞると溝ができており、筆圧が強くてよくシャーペンの芯が折れて僕に飛んできたことを思い出した。


「奥様、毎日日記を書いてらっしゃいましたよ」


 顔を上げると看護師さんが過剰に細めた目で僕を見ていた。そういう遺族に向ける優しさがほしいのではなく、美紀が帰ってきてほしいだけなんだけどなと思う僕は正確が悪いのだろうか。別に医療ミスしたわけでもない病院の、ましてや世話をしてくれた看護師さんに嫌味を考えてしまう。そうでもしないと美紀を失った悲しさだけが身体中を蝕むのだ。


 付き合って三年、結婚して二年。「子どもができないね」と言ってしまうとお互いプレッシャーになるし、相手の責任にしているニュアンスになりそうだったから、気にしていないふりをしてきたのは美紀もそうだったはず。まさか子どもができる前に美紀が病気になり、旅立ってしまうとは。


「ただいま」


 真っ暗闇をすぐに照明のスイッチを入れてかき消した。とはいえ、誰も応答することはない。リビングから顔を出した子どもが両手を上げて駆けながら僕に抱きつき、少し遅れて美紀が「おかえりなさい」と言葉をかけてくれる。わりとハードルの低い夢だと思っていたが子ども、いや、美紀とさえ一緒にいることが叶わなくなってしまった。


 レジ袋越しに触った弁当はすでに温かみを失いつつある。コンビニから歩いているときに今季一の寒波の大気にさらされ続けた結果だろう。鉄筋づくりのアパートも部屋の中に入っても外と寒さは変わらなかった。


 弁当を電子レンジに入れ、リビングのエアコンのスイッチを入れた。


「ちゃんと自炊しなきゃだめだよ」

「お金の無駄だよ」

「健康に悪いよ」


 エアコンの吐く息交じりに美紀の声が聞こえてきそうだった。健康に悪くていいから俺も美紀と一緒のところに行ってまた会いたいよ。テーブルの席に座った途端、まつ毛をじわりと濡らした涙が頬を伝って手のひらに落ちた。電子レンジの音が鳴るが脚に力が入らない。


 誰に見られるわけでもないのに、隠すように俯きながら涙を止めようとしていると、テーブルの脚にもたれさせていた鞄が目に入った。片手で持ち上げてチャックを開け、美紀の日記を取り出した。これを読めば涙が止まらなくなることはわかっていたが、美紀を感じる何かが欲しかった。

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