或る作家と編集者の話

澄田ゆきこ

本編

 作家は死ぬ。

 それは直接的な意味でも、修辞的な意味でもある。病死や事故死も割り切れないが、編集者としてもっとやるせないのは、作家が様々な理由で筆を折ることだった。

 そう考えると、あの作家は――正確には作家未満だったあの男は、十分すぎるほど小説にしがみついていたのかもしれない。

「神童も、二十歳過ぎればただの人」

 あの男の口癖。酒を飲みながら、彼はよく冗談めかして言った。彼自身がそれを体現していた人間だったのだから、笑えない話だった。

 彼とは、高校時代からの付き合いだった。小説家を志していると言って憚らなかった彼は、当時は実績も伴っていた。中高生向けの懸賞で何度も最優秀賞を獲っていた彼の才能を、彼自身も周囲も微塵も疑ってはいなかった。

 俺は彼の文が好きだった。惚れていたと言ってもいい。俺も彼も文芸部だったが、彼の眩しさにあてられ、俺は早々に自分の才能に見切りをつけた。代わりに俺は、彼とこう約束した。

「お前はいずれ大作家になるだろう。その時、俺は編集者になって必ずお前を支える」と。

 しかし彼の才能は思ったようには芽吹かなかった。大学生になってから、彼は文芸誌の新人賞に応募するようになったが、彼の独擅場だった中高生向けの懸賞と、一般の新人賞とは訳が違った。始めは意欲的に作品を書いていた彼だったが、徐々に焦りと共に失速し始めた。同世代の作家が文壇に登場したと聞けば、彼は「なぜそこにぼくがいないんだ」と、文壇と自分とを同時に蔑んだ。

 彼の夢は、「華々しい若手作家」から「若手作家」になり、次第に「作家」になった。

 俺が必死に就職活動をしている時も、出版社で働きだしてからも、彼は小説を書いていた。現実が見えてくると、彼は才能を悲観することも増えた。それでも俺は彼の才能を信じていた。「お前ならいつかやれる」「絶対に小説家になれる」という言葉は、祈りのつもりだった。けれど、彼にとってはむしろ呪いだったのかもしれない。

 彼が精神を病むまでにそう時間はかからなかった。現実から逃れるために、学生時代から変わらず受け取っている仕送りのほとんどを、彼は酒に費やした。くだを巻いて泣き言を言うことも、俺に当たることも増えた。「普通になんかなりたくないと思っていたら、普通にすらなれなかったよ」と自虐するならまだいい方だった。

「どうせお前も、俺を馬鹿にしているんだろ」「夢を叶えられて、人望も厚くて、何もかも持っているお前なんかに、この惨めさがわかるものか」

 そう言って、中身の入った杯を投げつけられたこともあった。かと思えば、「お前だけは俺を見捨てないでくれ」と泣いて縋られたこともあった。

 自殺を図り、精神病院の世話になったことも、一度や二度ではない。

 才能と自信に満ちていた輝かしい彼の姿など、もう見る影もなかった。仕事で日常的に文章に触れていれば、嫌でもわかる。彼は朽ちた徒花だった。

 それでも彼は小説を書こうとしていた。少なくとも、日がな一日原稿用紙の前で悩んで、何かを紡ぎ出そうとしていた。俺は祈りのような気持ちで彼に呪いを吐き続けた。「もう筆を折りたい」と言われても、宥め、励ましの言葉をかけた。

 本当なら、さっさと楽にしてやるべきだったのだろう。そうすれば、彼は作家として一度死んだあと、もう一度人間らしく生きなおせたかもしれない。

 やがて俺は編集長になり、現場からは退いた。縁あって結婚もした。外回りがなくなり、家庭ができると、彼の家に足を運ぶことも減った。

「今度は傑作が書けそうなんだ」

 ある時、彼はそう言って、弱々しい笑顔を見せた。都会の夜空に浮かぶ小さな星のような、儚く、今にも消えてしまいそうな笑顔だった。

 最後にそれが見られただけ、まだ救いだったのだろうか。それとも、あの笑顔こそが俺の罪科の証だっただろうか。

 数か月後、彼の訃報を聞いた。彼の身よりはもはや俺しかいなかった。電話を受けて病院に駆けつけた頃には、彼はもう息絶えていた。死因は大量の酒と薬を一気に飲んだことによる多臓器不全だった。

 数週間後、遺品整理のために彼のアパートに赴いた時、押し入れから大きな封筒を見つけた。封筒は丁寧に紐で閉じられていた。くるくると紐を解き、原稿用紙を取り出す。

 それは、彼が紡ぎ出した最後の長編小説だった。たどたどしい筆致で、拙く、支離滅裂な文だった。それでも、その中に彼特有の息遣いがあった。俺は何度も瞬きをしながらページを手繰った。耐え切れず零れた涙が、最後の「終」という文字の上に落ち、インクを滲ませた。

『或る作家と編集者の話』

 それがその小説のタイトルだった。

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