ロックン・ロールが降る夜に

スケアクロウ

1章 第1話 NO FUTURE

 半年間世話になったこの稽古場とも今日でおさらばだ。よくも千葉から世田谷の外れにあるこの稽古場まで毎日毎日通ったものだ。「役者になる夢もここで終わりか」と虚しくもなったが、情熱が冷めてしまった以上どうすることもできない。別にこの劇団に不満があったわけじゃない。やってみて自分には合わないと感じただけだ。新宿の小劇場で本公演を拝見させてもらった時には心を動かされたのに、いざやってみると全然違った。イメージ通りの演技なんてできやしなかった。それもそうか、まだ半年だもんな。自分の不甲斐なさに笑いが込み上げてきた。役者になると誓って大学へは進学しなかったのに、蓋を開けてみればとんだ嘘つき野郎の根性なしだ。二十歳を手前にして何もなくなってしまった。ただのプータロー。こんな事になるなら、去年の今頃、ノストラダムスの大予言が的中してればよかったのに。何が予言だよ、ただのホラ吹きジジィじゃねぇか。

 稽古場の片隅で座り込み、目の前でダンスやセリフの練習をしている先輩達をボーっと眺めているとふと思った。

「この人達は一体何を思ってやっているのだろうか。楽しいか、あんたら」いや、楽しいからやってるんだろうな、好きだから。ふと思った事をすぐに訂正した。俺の心は今荒んでるんだ、間違いない。ダムスさんの予言も当たらなくてよかった、本当に。

 いつまでもこんな所に座り込んでてもしょうがないから、重たい腰を上げた。この稽古場は車通りの少ない通りに面していて、周りはほとんど住宅地、その中にひっそりと構えていた。要するに、そんなに大きくもないし、目立つような感じでもないってこと。稽古場のすぐ隣が劇団事務所になっていて、今そこに代表の虎吉(とらきち)さんがいる。怖いんだよ、この人。元プロボクサーで、若い頃ビール瓶で人の頭を割ったっていう噂もある。顔も怖いし。けど、言わないとな、辞めるって。

 団員をかき分け事務所へと向かった。俺は扉の前で呼吸を整えた。「柏原優斗、十九歳、入団半年後、辞退。我が人生に悔いなし。ガンバレ俺」気合いを入れた。


 虎吉さんがソファーに腰をうずめた。ミシリと音を立て虎吉さんがめり込んだ。ボクシングをやめてからだいぶウェイトがアップしたのだろう、その重たそうな肉体が迫力に拍車をかけた。威風堂々と鋭い眼光が俺を睨みつけた。目を背けてしまった。俺は虎吉さんの正面に立ちすくみうつむいたままだ。幸いだったのは、安元さんが傍らにいてくれたこと。この劇団の女流演出家であり女優の安元さんはいつだって皆に優しかった。描き出される作品にもその優しさがにじみ出ていた。この人のお陰で半年間もったようなものだ。辞める相談を最初にしたのも安元さんだった。

 気がつけば、言葉の右ストレートが虎吉から飛んできていた。

「お前、売れないと思うよ」

ドスンと重たかった。だが、安元さんがすかさずカウンターを入れてくれた。

「虎さん、なにもそんな言い方しなくても。マサト君はまだ若いんだから」

見えなかった。虎吉の右ストレートが。完全にふいをつかれた。そしてそれは、俺の顔面ではなく心を捉えた。もう役者を辞めるのだから売れないのは当たり前だとしても、たかだか半年で音を上げる奴なんて、結局何をやってもダメだろう、と言われているようだった。「うん、きっとその通りっすね、虎吉さん」と心の中で納得してしまった。

 言葉を返せなかった。うつむいたまま時間が流れた。安元さんは必死に何か言い返してくれている。虎吉さんは微動だにせず腰をうずめたままだ。凄い人だ、たった一発で俺を灰色のリングへと沈めた。立ち上がれるだろうか。俺が放った、「今日で辞めます」のへなちょこジャブは、奇跡的に効いたみたいだ。退団を受け入れられた。だから、もう終わったんだ。ここを去ろう。

 事務所を出ると先輩達に挨拶を済ませ稽古場を去った。最後は安元さんが見送ってくれた。

「マサト君役者頑張ってね、応援してるから」

涙が出そうになった。役者を続けるなんて一言も言ってないのに、役者頑張ってねと安元さんは言ってくれた。それは安元さんの願いだったのかもしれない。役者やめないでね、という。こんなやつに。だから泣きそうになった。俺は、今まで本当にありがとうございました、と告げると踵を返した。なぜだかよくわからないが、絶対に振り返らないと心に決めた。

 辺りは暗くなり始めていた。夏場とはいえ、19時ともなれば夜の帳が下りる。俺も俳優という道に儚くも幕を下ろしたわけだが、どこかすっきりしているところもある。なんて言うのか、舞台に立ち表現をするという事が本当にわからなかった。演技をしていても、演技をしているな、という自分がそこにいた。感情が動いていなかった。インプットしたものを言葉や動作でただ出力するだけのロボットと一緒だ。そこに気持ちがなかった。だからきっと楽しくなかったんだ。劇団云々の問題じゃない、自分のせいだ。この選択が正しかったのかどうかはわからないが、肩の荷はストンと下りた。とはいえ、心にポカンと穴が空いてしまった事も否めない。今から始まるこの夜の闇なんて、俺の未来に比べれば明るく感じた。早く新しい何かを見つけたかったが、そんな事を考える余裕はなかった。京王線の駅まで続くこの物静かな長い一本道を歩いていると、自分が独りぼっちに思えた。広いくせして車一台通り過ぎないこの道を恨んだ。喧騒の中へ飛び込みたかった。いくら何を思おうが、この夏の蒸し暑さだけは相も変わらずで、俺は汗でにじむTシャツに気持ち悪さを覚えながら、「とりあえずビール飲みてぇな」そう思った。まあ、そんなもんだ。

 駅前へ着くとさすがに人が沢山いた。帰宅ラッシュか。大嫌いだったこのラッシュも今日で最後だ、どうでもいい。俺は改札手前で後ろを振り返った。ここまで来たらもういいだろう。駅前の景色が見える。あの汚ったねぇ居酒屋も、絶対並ばず入れたあのラーメン屋も、よく先輩達に連れて行ってもらったな、と回想した。そりゃ少しは寂しくもなった。駅前だけ栄え、少し歩けばすぐに住宅地へと変わるこの街は、俺には合わなかったのだろうか、なんて感傷に浸っているとホームへと急ぐ人々が気になった。ポケットから定期券を取り出し俺も急いで改札をすり抜けた。

 ホームへ着くとちょうど電車がやって来た。黄色い点字ブロックの外側にでも人がいたのだろうか、物凄い勢いの警笛が鳴った。いつ聞いても轟音で不快な音だ。虎吉さんに「お前、売れないと思うよ」と言われた時、この音が鳴ってくれたらよかったのに。そうすればあのセリフを聞かずにすんだはずだ。かき消してほしかったよ、全く。あんなにストレートに物を言われたのは初めてだ。悔しかった。けど、それでよかったのかもしれない。傷はついたが心に響いた。もしかしたらあの言葉自体が、俺が今後歩んで行く道への警笛だったのかもしれない。だとしたら、虎吉さんはやっぱり凄い人だ。

 車両にぶち込まれると不快さが増した。せめて夏場だけでも満員という概念を無くしてほしい。何故見ず知らずの奴らと、こんなにも距離を縮めなきゃならない、汗だくな奴らと。俺が今一番距離を縮めたいのは冷房だ。今の自分を救えるのは冷房しかない。幸い、車内は程よく冷えていた。

 扉が閉まり、電車がゆっくりと動き出した。窓から稽古場までの長い一本道が見えたがすぐに消えた。外はもう完全に暗くなっていた。電車は加速し、世話になった世田谷から離れて行く。ポケットの定期にもう用はない。もうばか高い定期代を払わずにすむんだ。俺は千葉へと帰り、往復することはない。外の景色がみるみると変わって行く。俺は無意識に、「さよなら世田谷」、と呟いてしまった。幾人かの視線を感じたが、無視した。




 

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