ⅲ
028譚 風に導かれ道を進む(上)
空はすっかり夜模様。厚い雪雲に覆われて、月も星は瞬かない。
そんな空の下で視界が悪くとも、近くで見ればその壮観さはいっそう増していた。アラニスは前方に聳え立つ王城に唖然とした。王城はサラスの横に広く、奥行きもある煉瓦造りの建物。
「案内はここまでだ。満足するだけ眺めたら、さっさと帰るんだな」
吐き捨てるように、神経質そうな男が言い放つ。アラニスはそんな彼に深々と頭を垂れた。
「案内してくださり、ありがとうございます」
「私はこれで失礼する」
エイルビーはこの王城に用事があるのだ。そのついでに、アラニスをここまで送り届けたのだ。無論、聖騎士のエイルビーにはこの王城へ入る資格があるが、一平民で異国人に過ぎないアラニスにはそんな資格はない。
アラニスは尚も頭を垂れたまま、
「はい。本当にありがとうございます」
癖なのか、「ふん」と鼻を鳴らすと、エイルビーはさっさとアラニスの元を立ち去り、王城の正門へと向かって行く。アラニスはその聖騎士が正門で門番と言葉を交わし、中へ入って行くのを見届けた。
(よし、行ったわね)
エイルビーの姿が見えなくなったのを認めると、アラニスは王城の裏手へと回った。無論、敷地は通れないので、王城の土台のようになっている、急坂の森林を通って。雪が積もり、その一部が凍結しているので、かなり歩きにくい。だが、アラニスは進み、その途中で木陰へ隠れるようにして立ち止まる。
『<風の精霊さま。どうかわたしを人のいない場所へ導いて>』
アラニスが呟いたのは、海の国の訛りがあるが、
なぜエイルビーに突拍子もないことを言い出したか。それはただここへ案内してもらうためだけではない。いや、そもそも案内してもらうつもり等なかった。
適当に難癖付けてあの聖騎士の体に触れ、血が付けられればよかった。
(まあ、けっきょく、事故で血がついたんだけど)
まさか承諾されるとは思わず、ついついうっかり蹴躓き、その際、事前に切っておいた指先の傷が付着した。指の表面を切ったのは、エイルビーに会ってすぐ。おどおどしている仕草をしている時である。サラスへ到着して暫くの時に拾っておいた小枝の先でザクリだ。
『〈応えてくれてありがとう、風の精霊さま〉』
おのれを包む穏やかな空気の流れに、アラニスは微笑みかける。これらは精霊のうち、風という現象を司る精霊たち。即ち、幾千幾万の神々のうち、外気を構成する物質やそれらに働きかける運動を併せて司る中位から高位の神々の力なのだ。海の国グィー族の娘であるアラニスは、この風を司る神々の血を引く者。そのためか、風の神々へ呼び掛け、その力を操ることだけは得意だ。
『〈わたしを姉さんの元へ連れて行って欲しいの。まずは、この場所の入り口を見つけてちょうだい〉』
アラニスはつい、と王城を指さす。すると、おのれを包む風が小さな蝶の群れの様に分離して、吹き渡る。その風の蝶は暫くぐるぐると近く回っていたが、ふわり、と一匹が揺れると、一か所へと飛んでいく。
『そっちね』
風の蝶たちを追って、アラニスは走った。蝶たちは木々の隙間を縫って進み、王城の外壁の一か所へ集まる。
そこにあるのは小さな獣が抜けられるような穴だ。
小柄なアラニスならばなんとか通れるだろう。セキュリティ的にどうなのだ、と問いたいところだが、この際ラッキーと思うことにする。小さな抜け穴を這いつくばるようにして潜り、アラニスは城内へ侵入した。
(中庭……)
抜け穴の向こうは、小さな庭園であった。だがあまり整然としておらず、様々な草花が枯れたものが入り乱れて仆れている。アラニスはスカートの土埃を手で払い落しながら、周囲を飛び回る風の蝶の群れへ聲を掛ける。
『〈繰り返すけど、人の目のないルートを探って、わたしをあの人の元へ。お願いね〉』
わかった、と答えたかのように風が揺らぎ、城の中へと吹き渡る。それは非常に穏やかな微風なので、ちょっとのそっとでは人に勘づかれない。
アラニスは風に手招かれ、城内へと誘われた。
城の中は燭が灯されておらず、薄暗いを通り越して真っ暗。灰白色の空と地面に降り積もる雪の白のお陰でギリギリ見えないこともないが、足元がとにかく何も見えない。
(火を灯すわけにも行かないし……)
そもそも、風以外に神々の力を操れない。
(そうだ)
アラニスは懐から、ケルバンから貰った
「お疲れさまです、エイルビー様!」
無駄に元気の良い衛兵の声で、アラニスは心臓を口から飛び出しかけた。
急いで柱の裏に隠れてその声の鳴った方向を見ると、そこにはふたりの人影。神経質そうな男と、若い衛兵だ。無論、前者はエイルビーである。
衛兵はまたしても大きな声で、エイルビーへ声を掛ける。
「これから王の元へ?」
「ああ、呼ばれてな」
「お疲れさまです!」
その若い衛兵の目は輝いている。アラニスはケルバンの顔を見たあとにエイルビーを見たので然程驚きもしなかったが、エイルビーは十分に色男である。そして逞しく、何と言っても神々に愛された聖騎士。顔好しスタイル好し。地位も良くてたいてい金持ち。女は無論のこと、男でも憧れる。兵士ならなおのこと。聖騎士は王国のアイドルだ。
アラニスは息を殺し、ひたすらに彼らがその場を立ち去るのを待つ。だが彼らは一向にそこを退いてくれない。
「そう言えば、ネヴァンティ様がお探しでしたよ」
「ネヴァンティ様が?」
衛兵の言葉に、エイルビーは眉を顰ませる。
「はい、どちらにあるのかと」
「すぐに参ると伝えておけ」
エイルビーが低く言い放つと、衛兵は畏まって「は」と応答し、慌ただしく反対側へと走り去って行く。
だが残ったエイルビーはすぐにはどこかへ行ってくれない。暫くそのばにとどまったかと思うと、アラニスのすぐ近くまで歩き寄った。
(!)
叫びそうになるのをひたすらに堪える。冷や汗たっぷりだ。度胸試しでもされているのかと感じるほど、エイルビーはしばらく周囲をうろうろし、ようやくその場を立ち去った。心臓に悪い。
「――っぶは!」
アラニスは膝を付いて息を吐き出す。
『〈……精霊さま。ちゃんと道案内、してくださいね〉』
ついつい、母国語でも敬語である。だが風たちはびゅうびゅう穏やかに吹いて何も答えてはくれなかった。
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